第3話 過去と現在(南家・ダイニング)[2023/1/1 Sun]
「おじゃましまーす」
「入って入って〜。なんだか久しぶりだけど、全然変わってないから」
多分、3年ぶりくらいの南家。
伊織が言うとおり、家具の配置とかは何も変わっていなかった。
それでも小学生の時からは、全然変わっている物も目についた。
壁に掛かっているコートとか、置いてある小物とか。
「――そうだな、全然変わってないな」
「でしょ?」
そう言って振り返った伊織は、小学生の時と何も変わらない笑みを浮かべた。
でも、伊織だって、何も変わらないことなんてない。
あの頃の伊織の胸は真っ平らだったし、唇に紅が差されることもなかったと思う。
――彼氏だっていなかった。
だから余計に、伊織がもう「女性」になったのだということを認識した。
男より女の方が大人になるのが早い。そういうふうな話をよく聞く。
伊織も、そんな「女」の一人になったのだろう。
「ねぇ、何か飲む?」
「入れてくれんの?」
「まぁ、ホットならそうなるかな? 簡単なやつならいいよ」
「じゃあ、カフェカプチーノ」
「無理」
「即答じゃん」
「だってカプチーノって、専用のマシンいるんでしょ? 私の家、そんなの無いもん。あ、お父さんが買ってたインスタントのスティックなら、あったかも。ちょっと待ってね」
「いや、じゃあ、いいよ」
「いいの?」
「インスタントのカフェカプチーノの、僕の中ではカフェカプチーノに属さない」
「何それ? 『通』なの? 指先、おでこに当てて、今更の中二病?」
イエス、マイ、マジェスティー。
キッチン奥の食品庫に向かいかけた彼女が立ち止まった。
「伊織、コーヒー飲まないんだよなぁ?」
「うん。飲まないけれど?」
コーヒー飲まない人間は、レギュラーコーヒーとインスタントコーヒーを同じ種類の飲み物だと考えがちだが、そもそもその二つは別の飲み物だっていうくらいに違う。
ラーメンで言えば、天下一品のラーメンと、家で作るインスタント麺のラーメンは違うだろ? そんな感じだ。
「……何ブツブツ言っているのよ。気持ち悪い。――で、どうするの? 紅茶?」
「じゃあ、アップルティーで」
伊織のお母さん――志保さんがよく入れてくれたアップルティー。
なんだかちょっと飲みたくなってきた。
「あるかなぁ……。――あ、あった。多分これかな?」
食品庫から金色の缶を掴んで、伊織が顔を覗かせる。
「そう、それ」
「ちょっと待っててね」
頷くと、彼女はキッチンへと入っていった。
ダイニングの四人掛けのテーブル。
椅子の背もたれに手を掛ける。
振り返ると、和室には畳の上にコタツが出ていた。
その四辺の一つが盛り上がったままになっている。
きっとさっきまで伊織が入っていたのだ。
ワンピースから出たあの太腿をそのコタツ布団の中に差し入れていたのだろう。
座椅子にワンピース腰に見える丸いお尻をおろして。
「――テーブル? コタツ? どっちに座って待ってたらいい?」
「どっちでも? ――うーん、じゃあ、やっぱりテーブルかな? コタツでまったりっていうより、向き合って個別面談だから。――教育指導的な?」
キッチンから聞こえる声は、冗談めいていた。
でも本当の「怒り」を潜ませている雰囲気も無くはなかった。
――教育的指導って、……
ダイニングテーブルに並んだ椅子の一脚を引いて腰を下ろす。
懐かしくて、部屋の中をぐるりと見回してしまう。
小学生の時はだいたい友達と一緒に来ていた。
でも、時々、僕ひとりで南家にやってくることもあった。
そんな時、伊織のお母さん――志保さんがアップルティーを入れてくれた。
なんだか美味しい洋菓子を出したりもしてくれたりもした。
――それはとても幸福な時間だった。
伊織と二人でお菓子をもらっていると、よく伊織の姉の
「そういえば遙香さんは? 帰ってきていないの?」
「――ん、お姉ちゃん? 帰省しているけど、お母さんと今は出かけているの。初詣。もうすぐ帰ってくるかもだけど」
「そっか。伊織は行かなかったんだ、初詣」
「だって、誠大とか遥輝と一緒に昨日行ったし。二回行くのもアレでしょ?」
「そっか。――まぁ、そうだよな」
友人と行くのと、家族で行くのは違うんじゃね? とも思ったけれど、僕も今日、妹と母親に「初詣にいかない?」と聞かれたら同じようにしてさぼっていた気がする。
つまり、まあ、そういうことなんだろう。
「はい。どうぞ」
「あ、ありがとう。――おお、懐かしい薫り」
「あー、だよね。そういえば小学生の頃、お母さん、よくこれ入れてたもんね」
伊織の中では、あの時間は特別じゃないんだろうか。
あの志保さん、遙香さん、伊織と僕の四人で机を囲んだ時間は。
そんなこと、とても聞けないけれど。
ソーサーに載せられたティーカップ。
白い陶器に花の模様があしらわれたそれは、どこか記憶に残るブランドのものだ。
指を通して、その柄を眺めてから、口元へと運んだ。
褐色の液体から甘い匂いが香りたつ。
舌先へ触れたそれは澄んだ温かさを口腔へと伝えた。
「――美味しい?」
「ああ、美味しいよ」
記憶よりもちょっと濃かった気もするけれど。それはまあ許容範囲だ。
「カップも確かこんな感じだったよね? お母さんが小学生の時に出してくれたやつ」
「あ、覚えていたんだ」
「当たり前。お母さん、なんで、誠大にこんな依怙贔屓するんだろう? って思っていたもん」
「依怙贔屓?」
手の甲までをワンピースの袖で覆いながら、白いティーカップを両手で持つ。
両肘をテーブルに突いて。
朱い唇が、アップルティーを吸い込む時に、小さく音を立てた。
彼女の喉が鳴り、甘い液体が取り込まれていく。
僕との思い出の中にある褐色が。
「うん。他の友達を連れてきても、あんなお菓子出てなかったしね。誠大が一人で来たときだけだよ。あんなお菓子とアップルティーが出てきたのって」
「――そうなんだ」
初めて聞いた話だった。
「理由って聞いたことある?」
「ない」
「なんで? 聞いてみたら良かったのに」
「だって、それでお母さんの気が変わってお菓子が出てこなくなったら残念すぎるでしょ?」
「なんだよそれ」
「でも、分かるでしょ? 気持ち」
子供っぽすぎる理由に、僕は思わず笑ってしまった。
あ、でも、子供なのか。当時は小学生だもんな。
伊織は小学生に戻ったみたいに、唇を尖らせた。
「まあな。でも、そういう話、僕も聞いたことなかったな。伊織、言ってたっけ?」
「言ってないと思う」
「なんで?」
「だって、もしそれが本当なら、私が誠大を家に呼ぶのが『お母さんに洋菓子を食べさせてほしいから』みたいになるでしょ? 誠大に『僕はお菓子を釣るための餌にされている!』って思われるのもなんか嫌だったし」
「――考えすぎ!」
僕からしたら異次元的に入り組んだご配慮だった。
そんなこと思ったこともなかったし、考えたこともなかったよ。
ていうか、聞いた今になっても、どうやったらそういう思考プロセスになるのか分からないレベル。
本人は「そうかなぁ?」と首を傾げている。
そういえばそうだったな。
伊織って、時々、こういうところのあるやつだった。
突然、もの凄く気を使ったり、気を回していたりするのだ。
日頃は単純で真っ直ぐなのに、
「でもやっぱり『考えすぎ』だと思うぜ。そういう風に言われても、僕は伊織がそんな動機で僕と遊んでいたなんて思わないよ」
考えすぎ。そうなのだ、考えすぎなのだ、伊織は。
それに比べて、僕ら男どもは――
「でも誠大は『考えなさすぎ』なのよ。遥輝もだけど。マジで『考えなさすぎ』」
アップルティーで暖かくなった呼気を、彼女は吐き出した。胡乱な目で。
「――何のこと言っているか分かるでしょ?」
どうやら教育指導が始まったらしい。
「アッハイ」
「心がこもっていない。何だと思う? って、LINEでも聞いたよね」
「――橘が言い出した恋人
「そうそれ」
僕は「橘が言い出した」に
そして限界まで「僕は悪くない。全ての責任は橘にある」という主張を暗に構成しようとする。
――まあ、あんまりそんな意図は通じていないみたいだけれど。
「――ちなみにアレな。言い出したのはお前の彼氏な。僕は巻き込まれただけ」
「あれ? 往生際が悪くない? 遥輝は『川原と決めた』って言っていたわよ? 二人で相談して決めたんじゃないの?」
往生際ってなんだよ。
僕、全然まだ死にかけてませんし。
ていうか橘、何やってくれてんだよ。
こっそり情報操作してんじゃないよ。
あれか? 昨日、解散して僕が咲良を家まで送りに行くから、
僕がいないのをいいことに、伊織を怒らせないように、微妙に責任転嫁するような言い回しで言ったのだろう。
そういえば、――橘は、そういうやつだ。
基本的には良いやつなんだけど、絶妙に立ち回りがうまいから、あいつの回避した流弾が、僕に当たるときがある。
でも、今回は流弾じゃないな。
「違うよ。昨日、一方的に橘が言い出しただけ。こっちだってあいつに絆されたみたいな感じなんだから」
明らかにあいつが悪い。
庇う必要はゼロである。
「えー、そうなんだ。……そっかぁ、遥輝だけの希望なんだ。――うーん、まぁ、そっか」
伊織が右手を口元に添える。
「だって考えてみろよ。恋人の交換って、僕にとったらお前とフリだけでも彼氏彼女ヅラするってことなんだぜ? それを僕が希望するとでも思うか?」
「あー、うん。無いよね。今さら、私と誠大が恋人同士とか、無いよね」
「――だろう?」
まぁ本当はそういう世界線も全然アリなんだけどな。
伊織のことは昔から嫌いじゃかった。
でも人生のタイミングが色々と合わなかった。それだけなんだ。
でも伊織にとっては「無い」んだろうな。
「でも、じゃあ、遥輝にとって咲良ちゃんは『アリ』だって、言いたいの? 誠大にとって、私は恋愛対象外のドーデモイイ存在だけど、咲良ちゃんは可愛いから、遥輝が恋人ごっこしたがっているって?」
僕の幼馴染の目が据わってきている。
1ミリも思っていないんですが。そんなこと。
決めつけられて、なんか僕、詰められているし。
え? 何これ? 面倒くさい!
「思ってないって、そんなこと。だいたい、もしそうなら僕が咲良を遥輝とヴァーチャルでも恋人ごっこさせるはずがないだろ?」
「じゃあ、どういうことなのよ?」
「知らんがな! だから橘に聞けってさぁ〜」
「だって、遥輝、今朝から田舎に帰省しちゃったんだもん!」
なんじゃ、そりゃ……。
こんな爆弾だけばら蒔いてから、離脱して傍観って、どこの爆撃機やねん。
「だからまずは誠大の本当の気持ちだけでも、聞いておこうと思って」
「僕の本当の気持ち――」
好きだった幼馴染の視線が、真っ直ぐに僕を射抜く。
彼女が一つ頷く。
――僕の本当の気持ち。
その時だった。ガラガラと玄関が開く音がして「ただいま〜」と声がした。
「あ、お母さんとお姉ちゃんだ」
少し気まずそうな表情。ただの恋愛話ならまだしも、「恋人交換」をしようとしているなんて不純異性交遊めいた話、家族に聞かせられるはずがない。
だから伊織は、顔を寄せてきて、声を潜めた。
「ねぇ、誠大。――私の部屋に移動しよっか?」
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