第35話 傷ついた幼馴染と小雨の京都(川原家・自宅)[2023/1/14 Sat]

 1月14日、土曜日。

 目を覚ますと、窓の外で、雨が降っていた。

 十時過ぎにベッドから起き出して、リビングへと階段を降りる。


 身体がまだ悲鳴を上げている。十時間寝ても疲れが取れない。

 バファリンの半分は優しさでできているそうだけれど、僕の半分は今、精神的な疲れで出来ているのだと思う。――上手くもなんともない表現だけど。

 つまりまぁ、それだけ疲れているってことだ。


「あ、お兄ちゃん、おはよう」


 リビングに入ると、ソファの上で絵里奈が寝っ転がって本を開いていた。

 角川つばさ文庫。緑の表紙のやつ。

 小学校の時から、絵里奈はずっとそのシリーズが好きだ。


「おまえ、朝からゴロゴロしていていいのか? 受験近いんだろ?」

「まだ一ヶ月あるし、大丈夫だよ〜。ていうか土曜日の朝くらいゴロゴロさせてよ」

「――太るぞ」

「――私、少し太った方が魅力的って言われたよ?」


 強気に反発してくる妹。

 でも、確かに絵里奈はむしろ痩せすぎくらいかもしれない。

 ただあんまりそのあたりを突っ込んでセクハラになるので、とりあえず自重。


「母さんは?」

「まだ寝てるよ。昨日も遅かったみたいだし」

「――そうだな」


 寝れているときには、ゆっくり寝ておいてもらおう。

 父親が死んで、今、わが家を支えているのは母親一人だ。

 中学三年生になって、絵里奈も手がかからなくなってきたし、僕も絵里奈も料理をできるようになった。だから多少はましにはなったのだとは思う。

 それでも片親ならではの心労も色々とあるのだろう。

 ――あと単純に、仕事が大変そうだ。


 リビングから外のバルコニーに繋がるガラス窓。

 灰色の空から、細い雨が斜めに降るのが見えた。

 この季節の雨は体を冷やす。

 大雨というわけではないけれど。


 ダイニングを通ってキッチンへ向かうと、お湯を沸かしてトーストを焼いた。

 ベーコンか卵を焼こうかと思ったけれど、面倒くさいからやめた。

 冷蔵庫からチーズを取り出す。ホルダーからバナナを一本、千切る。


「――お兄ちゃん、今日の予定は?」


 絵里奈がソファで広げていた本から顔を上げる。


「特にないけど、……なんで?」

「え? えっと、彼女とデートとか無いのかなぁ……って?」


 なんだか意味深な笑顔を浮かべている。ニヤニヤと。


「ないよ。特に約束はしてないよ」

「……そっか〜」


 なんだか残念そうだ。


「――ていうか、絵里奈。――お前、そのって誰のことイメージしている?」


 それは咲良か、それとも伊織か。


「――もちろん伊織お姉ちゃんだけど?」


 やっぱりそうか、――となんとなく思う。

 絵里奈は、伊織のことが好きなのだ。

 妹にとって僕の恋人は伊織がいいのだ。――咲良ではなくて。


 もちろん、それを理由に僕が伊織を選ぶわけじゃない。

 僕と伊織のことは、僕らが決めることだ。

 僕と咲良のことも、僕らが決めることだ。


 *


 昨日、1月13日の金曜日。伊織は学校に来なかった。

 一昨日、1月12日の木曜日。朝、教室の黒板に書かれた落書き。


『南伊織は淫乱ビッチ! 二股浮気の股ゆる女!』


 ただ低俗な誹謗中傷は、伊織の頬に涙の跡を作った。


 いつもの伊織なら、そんな誹謗中傷に負けたりはしなかっただろう。

 だけど水曜日に花京院との衝突があり、それまでの恋人交換スワップを通して溜まってきたストレスもあり、すでに精神状態は限界だったのだと思う。

 昼休み、橘との密談を終えて教室に戻ると、そこにもう伊織は居なかった。


 LINEメッセージを送ってみたけれど、返事はなかった。

 既読もつかなかった。

 放課後になって、音声通話で何度かコールを鳴らしてみた。

 伊織は電話にでなかった。


 木曜日の夜も予備校があったから、伊織の家に行くというわけにもいかなかった。

 正直、心配だったけれど。

 深夜に訪れてもきっと志保さん――伊織のお母さんは怒ったりしないだろう。

 でも、やっぱり、やめておいた。

 伊織が、家族になんて説明しているのかもわからなかったから。

 急に訪れて、余計に伊織を困らせたりはしたくなかった。


 ――今朝と同じように、明日の朝も、伊織はひょっこりと玄関に現れる。

 そんな淡い期待を抱いて、予備校帰り、僕は駅から自宅への夜道を歩いた。


 でも、金曜日の朝、伊織は僕を迎えにはこなかった。

 ギリギリまで待っていたから、JRに乗り遅れそうになった。

 なんだか腹がたったから、京都駅から学校まで市バスに乗った。

 230円払って。

 

 ムシャクシャした。誰に腹が立っていたのかはわからない。

 きっと世界に対してだ。この世界に対して腹がたったのだ。


 個別にはいろいろとある。

 橘のことだって理不尽だと思うし、落書きの犯人も許せない。

 花京院に写真を渡したやつだって、なんでわざわざそんなことをしたんだか?


 でもそんな全てが伊織を追い詰めている。

 世界がまるごと一丸となって、彼女を包囲する。

 誰かの振るタクトが世界の音をかき鳴らし、伊織を追い込んでいるのだ。

 ――僕がずっと好きだった――大切に思ってきた伊織を。


 金曜日に送ったLINEメッセージにも既読はつかなかった。

 先生は「南さんは、体調不良で欠席」とだけ僕らに伝えた。

 ――でもそんなはずはない。ただの体調不良なはずはない。


 そう篠崎澪に漏らしたら、彼女は「――心も、体の、一部だからね」と知ったような口を利いた。――とはいえそれは正しい。古典的な心身二元論をとらないならば。

 たしかに心は体の一部である。心は脳活動から立ち現れるものなのだから。


 篠崎から伊織へのLINEメッセージにも既読は付かないらしかった。


「――心配だよね」

「ああ、――そうだな」


 いつもは伊織を挟んでしか篠崎さんとは話さない。

 だから彼女と二人でそうやって話す時間は、どこかぎこちなかった。

 そのぎこちなさが、また伊織の不在を、僕に再認識させるのだった。


 *


「――そういえば、昨日、伊織お姉ちゃん、迎えに来なかったね。何かあったの?」


 僕がダイニングテーブルで、トーストに齧り付いていると、絵里奈がぶらぶらとやってきて、斜向かいの座席に腰を下ろした。


「ああ。――体調不良だって。――休みだった」

「え〜、そうなの? 一昨日は全然そんな様子なかったのに」

「まぁ、最近冷えるからな。――しらんけど」

「お兄ちゃん、めっちゃ適当。何だったの? 風邪? もしかしてコロナ?」

「……知らん」

「え〜。LINEで聴いてもいないの?」

「――いや、してなくはないけれどな……」


 既読が付かないのだとは言えなかった。

 そんな事を言うと絵里奈を余計に心配させる気がしたから。


「そっか。でも体壊しているんじゃ仕方がないね。――良かった」

「――何が?」


 突然の「良かった」に意味がわからなくて、僕は顔を上げた。

 何も知らない絵里奈が、笑顔で唇を突き出している。


「え? だって、お兄ちゃんが、さっそく伊織お姉ちゃんに振られたんじゃないかって思ったから。それだったら、私の『伊織お姉ちゃんゲット大作戦』がゲームオーバーになるでしょ?」

「――そういうことか」


 謎のオペレーションが始まっていたらしい。妹の中で。知らない間に。


 絵里奈にとって、僕が伊織を彼女にすることは既定路線みたいだった。

 それは僕のなかでも、もう、――そうなのかもしれない。

 

「――じゃあ、お見舞いに行ったらいいんじゃない? 土曜日だし」

「お見舞いってお前なぁ。――いくらなんでも高校生になって女子の家にいきなりの凸とか、常識的に考えて、アレだろ。アレ」


 流石に小学生の時とは違うのだ。

 女子と男子の間には、気安く乗り越えてはいけない溝がある。


「どれ? 別にいいじゃん。伊織お姉ちゃんの家なんて、もう親戚の家みたいなもんなんだし」


 そういわれてみれば、そうかもしれない。

 それはそれで色気の無い話だ、――と思ったりもするけれど。

 

「――でもまぁ、もしコロナだったら、隔離しているだろうし、アレだろ?」

「そっか。まぁ、そうだよね。――コロナ、めんどいよね〜」


 わが家でも、一度、絵里奈がコロナ感染して、一週間隔離したことがある。

 幸いにも僕と母親への感染は回避したけれど、いろいろ本当に面倒くさかった。


 *


 朝食を終えて、部屋に戻ると、僕はスマートフォンを取り出した。

 LINEを開く。もう一度、伊織とのチャット画面を開いた。

 僕が投げたメッセージに、やっぱり既読は付いていなかった。


 画面の上に表示される通話ボタンをじっと見つめる。

 土曜日の朝。昨日学校を休んだ伊織は、何をしているのだろうか?


 僕はこのまま、彼女を放っておいて良いのだろうか。

 そう思って、僕はその受話器のアイコンをタップした。


 呼び出し音がなる。僕の耳元で、何度も、何度も、何度も。

 ――それでも彼女は、電話を取らなかった。


 自室の窓から外を見る。空を冬の低い雲が覆っていた。

 まだ冷たそうな小雨が、京都の街に降り続けている。

 僕はブルゾンを掴むと、部屋の扉を開けて、階段を駆け下りた。


「――絵里奈。――出掛けてくる」

「――どこへ?」

「伊織の家。――やっぱり、お見舞いに行ってくるよ」

「お。いいぞ、お兄ちゃん、行ってこーい!」


 またソファーで寝転がっていた絵里奈が、両足で反動をつけて起き上がった。

 僕は下駄箱の脇に置いてあった、折りたたみ傘を掴む。

 そして玄関扉を、押し開いた。


 *


 南家は同じ校区。それでも小学校を挟んで逆側だから、歩いて五分以上かかる。

 それでもしとしと降る雨のなか、地道に歩いていると、あっという間に到着した。

 高校生になって行動範囲が広がった今となっては、至近距離であり。

 小学生の時に遠く思えた友達の家さえ、とても近く感じる。


 南家の門扉の前に到着すると、僕は玄関のインターホンを押した。

 それは家族の名前が書かれたガラスプレートの下にあるボタン。


 やがて、家の中から「は〜い」という声が聞こえた。

 それからバタバタと駆けてくる音が聞こえてくる。

 そして玄関扉が外開きに開かれて、姿を表したのは南伊織――ではなかった。


「――おお、少年じゃないか? 約一週間ぶり。どうした?」


 現れたのは伊織のお姉さん、――遙香さんだった。


「――伊織、居ますか? 昨日、体調不良で、学校休んでいたから、――お見舞いっていうか……」


 遙香さんは、一瞬、嬉しそうに微笑む。

 でもすぐに困ったような表情を浮かべた。


「――伊織のお見舞いってことでいいんだよね? 誠大くん」

「あ、はい、そうです。――LINEにも返事が帰ってこないから。――あ、コロナとかだったら、いいんです。無理に会えなくても」


 薄っすらと目を細めると、遙香さんは「――ちょっと待ってね」と言って、また家の中へと戻っていった。

 門扉から中に入り、玄関の前で僕は待った。小雨の中で傘をさしたまま。

 そしてまた階段を降りてくる音がして、玄関の扉がゆっくりと開かれた。


 さっきとは違い、遙香さんはクリーム色のコートを身に着けている。

 そして玄関のノブに手を掛けたまま、僕の目をじっと見つめた。


「――伊織、今は、誠大くんにも会いたくないみたい。――ごめんね」

「そう……ですか」


 その言葉は、僕の脳の深いところを突き刺す。

 幼馴染の僕は、伊織にとって、どこか特別な存在だと思っていた。

 どんなときも気さくな関係であり、その関係は途絶えないものだと。

 ――でも、そんな絶対的な前提は、――やっぱり崩れゆくのだ。


 コートのポケットに両手を突っ込んで、遙香さんが土間へと降りてくる。

 黒いブーツに足を入れると、玄関口で腰を掛けて紐を結び始めた。


「……遙香さん?」


 彼女は顔を上げる。

 そして僕のことを見上げると、にんまりと口角を上げた。


「時間あるんでしょ? ――ちょっと付き合いなよ。――私に」


 南伊織にどこか似た大人の女性――南遙香。

 その瞳に射竦められた僕は、ただ無言で頷いた。


 彼女に魅了されて、言われるがままに操られる人形みたいに。





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