第34話 元凶イケメンリア充と窓際の密談(学校・廊下)[2023/1/12 Thu - 1/13 Fri]
――誰があんな落書きをしたんだろうか? ご丁寧に写真まで添えて。
そんな思考が頭を離れなかった。
朝のホームルームが終わって、授業が始まっても、ずっと。
苛立ち。焦燥。怒り。
そんな言葉では表しきれない無数の感情が、頭の中を回り続ける。
ぐるぐる、ぐるぐると。
今にも両手を机に叩きつけて、立ち上がってしまいそうだ。
机を持ち上げて、教室の真ん中へと投げ飛ばしたくなる。
「あああああああああああ!」と叫びながら。
犯人を見つけたらなら、自分が何をしてしまうのか、想像がつかなかった。
握った拳。手のひらにはいくつもの爪が食い込んだ。
朝一番、黒板に書かれた大きな文字は、橘がすぐに黒板消しで消した。
写真は僕が回収して、鞄に仕舞った。ゴミ箱に捨てるのも不用意に思えたから。
伊織には「後でどこかに捨てておくから」とそっと告げた。
彼女は昏い瞳で一つだけ頷いた。頬に涙を流したまま。
隣の席に座る幼馴染を見る。
教科書を開いて、俯いたまま、授業を受けていた。
少しは落ち着いたのだろうか。それともずっと苦しみに耐えているのだろうか。
僕には伊織がまだ、泣いているようにも見えた。
周囲に視線を走らせる。教室の中を見渡す。
クラスメイトたちはいつもどおり授業を受けている。
その中にはさっき黒板の前で落書きを見て嘲笑っていた奴がいる。
その中には昨日の僕らと花京院を好奇心で見ていた奴がいる。
その中には僕らにスマートフォンのカメラを向けていた奴がいる。
こいつら全員、クズなんじゃないか?
僕を支配するのは、――そんな苛立ち。
だから今すぐ、こいつら全員をぶっ殺してやりたい。
机を持ち上げて、放り投げて。足を上げて、蹴っ飛ばして。
教室の窓から、外に突き落としてやってもいい。
ぐるりと滑らせた視線を、教室の前方へと向ける。
教卓の斜め前には、机に右肘を立てて、頬杖を突く、橘遥輝の姿があった。
『笑っているお前らも同罪だぞ!』
南伊織の元恋人であるイケメンは、そう言ってクラスメイトたちに凄んだ。
正義感のように黒板消しを手に取った橘。
でもお前に、その資格はあるのだろうか?
全ての原因を作ったのはお前じゃないのか?
恋人
でもそれなら、僕だって同罪だ。
受け入れて、伊織と咲良を巻き込んだのは僕だ。
きっと僕は、どこかで思ってしまっていたんだ。
恋人
偽物のスワップ彼女ではなくて、――本当の恋人に。
未来を約束して、一緒に生きていける相手に。
その時、咲良はどうなるのか? ちゃんと考えられてはいなかった。
その過程で、伊織がどんな思いをするのか? ちゃんと考えられていなかった。
ちゃんと考えずに、こんなどうしようもないゲームを、僕らは始めたのだ。
視線を上げる。黒板を眺める。
数学の教師が黒板で何かの関数をプロットしていた。
描かれた関数は上下に振動しながら、無限大へと発散していた。
安定点へと
*
「――ちょっといいか? 橘」
「おう。なんか話か? 来ると思ったよ。……ここでいいか?」
「それはちょっと、――駄目だろ? 廊下に出よう」
「……わかった」
橘は立ち上がった。制服のポケットに両手を突っ込んだまま。
振り返ると、窓際の座席で、伊織は窓の外を眺めていた。
頬杖をついて、机の上にはお弁当箱を開いたまま。
昼休みになるまでに、休み時間は何度かあった。
南伊織はずっと一人だった。誰も彼女に近づかなかった。
ひそひそ話をして彼女を遠巻きに眺めるだけのクラスメイト。
声を掛けようにも、どうしてものか躊躇う友人たち。
――親友の篠崎澪ですらそうだった。
正確には一時間目が終わった時に、彼女は一度だけ伊織に話しかけた。
だけど、伊織はただ俯いたままだった。
それを見た篠崎は「そっとしておこう」と判断したのだ。
僕自身もそういう人間の一人に含まれるのかもしれない。
もちろん僕が声を掛けると、注目を集めてしまうだろうという警戒心もあった。
周囲にまたゴシップの種を提供してしまうだけかもしれないと。
だから僕は、身動きが取れなかった。
――でもきっとそれは言い訳だ。
僕はただ、勇気が無かっただけなのだ。
*
「――このあたりならいいだろ。――で、どうしたんだ? ――川原」
「どうしたんだ? じゃないだろ。――橘」
両手をポケットに突っ込んだまま、橘は廊下の窓に背中をあずける。
何か思案するみたいに、瞼を閉じて。
視聴覚室や理科実験教室といった特別教室が並ぶ廊下の端。
昼休みのこのあたりは、人通りが少ない。
「――どうして、伊織に声を掛けないんだ? ――橘は彼氏だろ?」
僕が詰め寄ると、橘はゆっくりと目を開いた。細く長い目を。
「何を言っている? 彼氏はお前だろ? ――川原」
「――は? ――この期に及んで、まだ恋人
思わずその襟首を掴むと、そのまま橘を廊下の窓へと押し付けた。
寒さで少し曇った冬の窓から、冷気がひんやりと立ち上がった。
彼の首にのばした僕の両手首に、橘はそっと両手を添える。
そして僕のことを、じっと見つめた。
その目は言っている。――お前も同罪だろ? と。
そうだ。僕も――同じ穴の
「――悪い。――ちょっと興奮した」
「意外に熱いんだな。川原も」
「茶化すなよ。別に熱い人間なわけじゃない。普通さ」
僕は橘から手を離し、彼の横に並んで、窓に背を預けた。
背中から襲ってくる冷気が、体の奥へと染み込んできいき、心まで侵食する。
ずっとこのままでいたら、体調を崩すんじゃないかなと、思った。
「――橘は、こうなることを、予想していたのか?」
「――こうなるって?」
「朝みたいなことだよ。そして昨日みたいなこと。伊織と、――それに咲良も。学校の中で後ろ指をさされて、――こんな風になることさ」
「どうだろうな。俺だって神様じゃないからな。全てを予想できるわけじゃないさ」
だからと言って、無能な人間というわけでもない。
橘遥輝は完璧に最も近い人間。少なくともこの学園において。
「だからって、何の事件も起きないまま終わるとは思っていなかった。恋人
僕が尋ねる。その横顔を盗み見る。
その男は涼しい顔でただ天井の隅を見つめていた。
「――お前はどうなんだよ? 川原。本当に恋人
「それは……。そんなことは、無いけれど。――でも僕は橘ほど頭が良いわけでも、未来を見通せるわけでもない」
「――だけど馬鹿じゃない。川原は、そこらへんの凡百じゃあない」
細めた目。まっすぐ前を見つめる橘の目。
その目には本当は何が見えているのだろうか?
僕が馬鹿じゃないかもしても、そんなに多くが見えているとは思えない。
この男ほどの何かが見えている気はしなかった。――橘遥輝ほどの何かが。
「――橘。お前が僕を買ってくれているって、それはありがたいと思う。――だからお前は恋人
そうだ。恋人
そんな遊びは、伊織が笑っている間だけの話なんだ。
そうでなければ、こんなゲームを続ける意味なんてどこにもない。
――彼女が泣くような状況になってまで、続ける意味なんてない。
「――勘違いするなよ、川原? 俺がお前を恋人
天井から視線を下ろした橘は、両手を開く。
そしてその手のひらへと、男は視線を下ろす。
「伊織のため? 橘のため? ――何を言っているんだ? 伊織は泣いているじゃないか? お前は……何を得ているんだ? 伊織のためなら、もうこんなゲーム、止めてしまえばいいじゃないか? ――こんな状態になってまで、……続ける理由なんてない」
終わってしまうのは残念かもしれないけれど。
それでも、あんなふうに伊織が涙を流す姿なんて、これ以上見たくない。
「『続ける理由』ならあるさ。――こんな状況になってもな」
「――橘!」
思わず声を上げた僕の口を、橘の右手が塞ぐ。
話すな。黙れ。静かにしろ。――そう言うように。
そして学年一の頭脳明晰、眉目秀麗、文武両道のイケメンリア充は言う。
「――川原誠大。――お前は俺から、南伊織を奪いたくないのか?」
それはもはや恋人
それはまるで宣戦布告みたいだ。
中学時代に僕の失った機会が、また与えられる。
そんな、グレートリセット。
一つ、生唾を飲み込む。そして橘の黒い瞳を、睨み返す。
低い声が、僕の喉から、漏れ出した。
「――奪いたくないわけ、――ないだろう?」
それを聞いて、橘は頬を緩めた。
「なんでこんな時まで二重否定なんだよ。『奪いたい』でいいじゃないか」
それはまるで彼氏の笑顔じゃなかった。
自分の彼女を奪いたいと言われた恋人の表情ではなかった。
そして僕は、理解した。
昨日、僕が直感した契約は、思い違いでは無かったのだと。
「――橘は、もう、伊織のことが好きじゃないのか?」
橘は一度伸びをすると、両肘を窓枠につけてもたれ直した。
「そんなわけないだろう? 好きさ。伊織のことは、ちゃんと好きさ」
「――じゃあ、どうして?」
「それなら聞くけどさ。――川原はもう好きじゃないのか? 咲良のこと。伊東咲良のことはもうどうでもいいのか?」
橘が問いを突き立てる。
僕の質問をはぐらかすよように。
そして同時に、僕の思いをはぐらかさせないように。
「――どうでもよくなんてないよ。――咲良のことは、ちゃんと好きだよ」
「だろ? ――じゃあ、そういうことさ」
「――つまり恋人
「でもそれは、お前の彼女、伊東咲良を俺に落とされても構わないという覚悟があっての話さ。――その覚悟が無いなら、今すぐにでも、このゲームから降りることだな。――川原」
橘の言葉は冗談とかではない。僕は天井を見上げる。
空に描く。――爽香の横顔を。――伊織の笑顔を。
「――僕は咲良を失うかもしれない、覚悟を持たないといけない」
「そのとおりさ――」
何故だか、橘が右手で握り拳を作って突き出してきた。
「言うだろ、川原? 撃って良いのは――」
「――撃たれる覚悟のあるやつだけだ」
僕は橘の拳に、自分の拳を、軽くぶつけた。
*
橘との密談を終えて、僕は教室へと戻った。
自分の机へと戻ると、窓側の机へと視線やる。
――そこで僕は、小さな違和感を覚えた。
「――あれ? ――伊織は?」
斜め前の机の上には、教科書も、ノートも、弁当箱も無かった。
机の横のカバン掛けには、何も掛かっていなかった。
「伊織なら帰ったわよ。――体調が悪いからって。――保健室に行って」
近寄ってきたのは、篠崎澪だった。伊織の親友。
僕と一緒で、追い詰められた伊織に、手を差し伸べられなかった友人。
「――そっか。何か言ってた?」
「ううん。――ただ私、『そっか、お大事に』とか、そんなことしか言えなかった」
そう言う篠崎は、だらしなく表情を歪めた。
それはまるで泣き出しそうな表情だった。
自分を責めるみたいに。彼女は唇を曲げた。
「そっか。――仕方ないよ。――篠崎は悪くない」
それは自分自身に掛ける言葉みたいだった。
僕は両手を、ただ強く握りしめた。
早退した彼女のことは心配だったけれど、伊織ならまた戻ってきてくれる。
だから明日から、僕は彼女に向き合おう。全力で、真っ直ぐ。
――そう心に決めた。
*
1月13日の金曜日。曇り。
最低気温は昨日より3度上がって摂氏4度。
朝、南伊織は、僕の家に迎えには来なかった。
JR山陰線に一人、揺られて、学校にたどり着く。
チャイムが鳴り、ホームルーム、そして授業が始まる。
窓から冬の日差しが差し込む中、僕の斜め前の座席は空席のままだった。
――南伊織は、――学校に来なくなった。
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