第33話 幼馴染の想いと教室の現実(川原家・自宅&京都・通学路)[2023/1/12 Thu]

 冬の朝日の下、伊織は何食わぬ顔で立っていた。

 いつもと変わらない笑顔で。――それが彼女なりの強がりだとしても。


「――どうしたの、ポカンとした顔をして?」


 両手で鞄をぶら下げて、伊織は小首を傾げる。


「いや、今日、もう来ないのかなって思っていたから……」

「どうして? ――だって、約束したし。彼氏と彼女で一緒に登校するって。一昨日も昨日も迎えに来たじゃん? 二度あることは三度あるってやつ?」

「一昨日は迎えに来たのは、ちょっと意味が違うけどな」

「細かいことは気にするな! 川原誠大!」


 伊織は少し顔を前に出して、僕を睨みつけた。

 いつもどおり。いつもどおりの彼女だ。

 そう。――いつもどおりを南伊織がそこにいた。


 だから「無理するなよ」と言いたくなる。 

 でもそうは言えなかった。

 せっかく「無理している」彼女の努力を踏みにじることはできないから。


 僕が本当の彼氏だったら、彼女の背中に両手を回し、そっと抱きしめる。

 でもそれもやっぱりできなかった。

 僕は本当の彼氏ではないから。仮初の彼氏だから。


「――ちょっと玄関に入って待ってて。今、行く準備するから」

「え? そんな時間ないけど? 家には上がらないよ?」

「仕方ないだろ。伊織、今日は迎えに来ないと思っていんだたから。もっとギリギリに出るスケジュールだったんだよ」

「そうなの? 一本後のJR? 間に合うは間に合うのかな? バス使わずに?」

「別にバスに乗るほど優雅じゃないからな。徒歩でも早歩きで間に合うよ。とにかく寒いから家の中には入っておいてよ」

「うーん。ま、しかたないか。――わかった。じゃあ、玄関で待ってるね。リビングまで上がったりしたら、それこそ次の電車にも遅れちゃうでしょ?」

「悪い。ちょっと待ってな」


 彼女を中に招き入れて、扉を閉めると僕は一旦、その場を離れた。

 ダイニングに戻ると、洗面所から絵里奈が出てきたところだった。

 髪の毛をセットして、少しだけメイクもしていたみたいだ。色気づいとる。


「――あ、お兄ちゃん、インターホン誰だった?」


 焼いたばかりだったトーストにピーナッツクリームを塗ってかぶり付く。

 コーヒーにはミルクを多めに入れて流し込む。


「……伊織。……今日も迎えに来た」


 強引に飲み込んだら少しむせた。

 胸を叩いて呼吸を整える。

 絵里奈の質問に答えた。


「え? 伊織お姉ちゃん、やっぱり今日も来てくれたんだ!」

「――ちょい、絵里奈! あんま遊んでる時間とか無いんだからな。僕もお前も」

「わかってるよ〜。私は余裕だから。――あ、伊織お姉ちゃん。おっはよー」

「あ、絵里奈ちゃん。おはよー」

「ごめんね〜、お姉ちゃん、だらしない兄貴で〜。お姉ちゃんを置いていったり、待たせたり」

「ほんとだね〜。絵里奈ちゃんからも、よーく叱っておいてねー」

「もちのろんですとも。――でもだらしないお兄ちゃんですが、伊織お姉ちゃんだったら、安心だよ。だから、うちのお兄ちゃんをよろしくお願いします。ふかぶか」

「あはは。絵里奈ちゃん、何言ってんのよ。お母さんみたい」

「うちは母親が放任でありますゆえ。その代理ということで。ハイ」


 あいつ本当に何言ってんだか。

 絵里奈はイキイキしている。なんだか水を得た魚みたいだ。

 そんな事を考えながら、僕はなんとか支度を終えた。

 絵里奈が稼いでくれていた時間で。


「――お待たせ。――絵里奈、遅滞戦闘、任務ご苦労」

「あ、誠大、準備できた?」

「おう」

「ちたいせんとう? お兄ちゃん、なにそれ?」

「知らんなら、知らんでいい」


 妹も中二病に罹患していると思っていたが遅滞戦闘ちたいせんとうは知らなかったか。まだまだだな。とはいえ、男子と女子で、中二病の症状も違うのかもしれないが。軍事ヲタは男子の方が多そうだしな。――読もう、『幼女戦記』。


「――お前ももう出ないといけないだろ? 遅れるなよ」

「は〜い」

「じゃあね。絵里奈ちゃん。お先に」

「いってらっしゃーい。朝以外も遊びに来てね、伊織お姉ちゃん!」


 手を振る絵里奈を後に置いて、僕らはJR花園駅への道を歩き出した。


「――絵里奈ちゃん、可愛いよね」

「そうか? マセてきて、生意気になってきているけどな」

「中学生だからね。私も中学三年生の時は、――どうだったっけ?」

「知らんよ。中三の時なんて、――こっちは暗黒時代のピークじゃん」

「あー、そうだよねー」


 僕は人を寄せ付けないATフィールドを展開して、ボッチ街道を爆進。

 伊織は人間関係を変えて、橘と付き合い始めていた。


「でも私、お姉ちゃんいるけれど、妹はいないから。ちょっと羨ましい」

「絵里奈も伊織には懐いているからなぁ。あいつもお姉ちゃんが欲しいんじゃないかな?」

「あはは。そっか、じゃあ両思いじゃん? 私が絵里奈ちゃんのお姉ちゃんになればいいんだ」

「それスワップ彼氏の前での発言としては、なかなか危険だぞ?」


 おねえちゃんも、お義姉ねえちゃんも、発音は一緒だから。

 前を歩く彼女に向けて、素っ気なく呟いた。


 振り返った伊織が、少し驚いたような表情を浮かべた。

 それからゆっくりと悪戯っぽい笑顔を作る。


「じゃあ、スワップ彼氏をやめて、本当の彼氏を目指してみる?」

「――何言ってんだよ。変なこと言うと、誤解してしまうぞ」


 僕が返した言葉に、伊織は曖昧な表情を浮かべる。


「誤解してみたら?」

「――え、何だって?」

「――なんでもない」


 聞き取れなかった言葉を誤魔化すと、彼女はまた僕に背中を向けた。


「じゃあお兄さん、とりあえず駅までは黙って歩きますか?」

「――そうだな。乗り遅れたら洒落にならん」


 いつまでも続きかねない掛け合いには蓋をして、僕らは冬の道を北へ向かった。


 *


「――昨日、大丈夫だったのか?」 

「うん。――まぁね。心配掛けちゃった?」


 いつもどおりのJR山陰線。僕らは扉口の近くに立っている。

 通勤通学の乗客に挟まれながら、隣り合わせで電車に揺られる。


「まぁな。教室にも戻って来なかったし。LINEの返事も無かったし」

「だよね。――ごめんね。でも心配なら音声通話を掛けてきてくれても良かったんだよ?」

「ああ、それは、ちょっと思ったけど、そこまで踏み込む気にはなれなかったよ」

「――どうして?」

「教室にも帰って来ないし、メッセージに返事もないし。相当深刻で、誰とも話したくないのかもと思ったりして。――それに、僕はスワップ彼氏でしかないし」

「……そっか。じゃあ、――しゃーないよね。――うん」

「――電話して良かったのか? ――電話した方が良かったのか? 昨日?」

「うーん、どうだろうね」

「――なんだよそれ」

「――なんだろね、これ」


 彼女は、車窓に流れる京都の街に目を細める。

 その横顔はやっぱり少し憂いを帯びているように見えた。


 彼女は昨日の出来事を忘れたわけじゃない。

 その痛みを抱えたまま、じっと堪えている。

 それは明白だった。――少なくとも十年以上の付き合いの僕の目からは。


「――教室から出ていった後、どこに行っていたんだよ?」

「ん? ――保健室」

「あぁ。……意外とベタだったんだな」

「ベタだよ〜。別に私、捻ってないよ? 捻ってないから誰か探しに来てくれるかな〜って思ったけれど、誰も来なかったの。微妙にショックだったなぁ。私って人望ないのかなぁって思ったよ」

「――伊織に人望が無かったら、僕なんて存在自体が虚無だよ」

「フォローがわかりにくいし」

「――アッ、ハイ」


 冗談っぽく言う伊織の言葉は、でも半分は本気だと、なんとなくわかった。

 その「誰か」が誰を指すのかははっきりしない。

 きっとそれは橘のことなんだろう。きっと僕のことではない。

 それが僕のことだと思えるほど、――僕は自意識過剰ではない。


「どうなるんだろうな。橘が恋人交換スワップを学校でばらしてしまって」

「――どうなるんだろうね」


 昨日の昼休み、その主な矛先は伊織に向かった。

 でも恋人交換スワップという非常識な行為をしているのは伊織だけではない。

 今となっては、四人の誰に、クラスメイトたちから、どんな視線が投げかけられるかはわからないのだ。

 ただでさえ教室なんていう空間は、繊細で複雑な世界だというのに。


 橘は一体何を考えているんだろう? なぜ恋人交換スワップをバラしたのだろう?


 でも、橘がバラしたのは、あの写真の流出事件を受けてのことだった。

 橘がバラさなくても、恋人交換スワップが周囲に知られるのは時間の問題だったのかもしれない。

 そもそも僕と伊織が不用心だったことが問題の始まりだったのだ。


「――伊織は全然大丈夫なのか? 今日、学校に行って」

「――大丈夫だと思う? 私が何も感じていないと思う? 苦悩してないと思う?」


 伊織は僕の顔を隣から見上げる。恨めしそうな目は少しだけ昏かった。


「いや、ごめん、思わない。――まぁ、そうだよな。……大丈夫じゃないよな」

「それはそうだよ。別に遥輝と別れたって噂が立つのは別に構わないけど。でも浮気してるとか、二股しているとか、尻軽だとか……なんかそういうのは、しんどいよ」

「――だよな」

「あと、私が誠大に乗り換えたのが『ランクを下げた』みたいな言い方されるのも、――ちょっと嫌」


 伊織が僕から目を逸らして、そんなことを言った。

 ――ちょっと意外だった。

 伊織は、僕のために怒ってくれているということだろうか?


「でも、まぁ、それは事実じゃん? 橘は『優良物件』で、僕は『掘り出し物件』」

「――事実じゃないよ。――誠大は誠大で、良いところがちゃんとあるんだから」

「――例えば?」

「例えば……。――って、そんなの自分で考えなさいよ!」


 伊織の鞄がぽすんと僕の太腿へと当てられた。

 やがて電車は京都駅へと到着する。


 *


「あなたに一言、謝っておかなければと思いましてよ。――南伊織さん」


 学校に到着すると下駄箱置き場を抜けたロビーで、思わぬ人物が待ち構えていた。

 それは昨日、僕らの教室に突撃してきて、導火線に火を点けた女だった。


「昨日は言いすぎましたわ。――ごめんなさい」


 ――花京院眞姫那。

 そして彼女の隣には橘遥輝が立っていた。


「――事情を知らなかったとはいえ、あなたには大変失礼なことを言ってしまった気がいたしますわ。――昨日、あなたが出ていかれてから、とても反省いたしましたの。写真のことも、とてもごめんなさい」


 花京院眞姫那はそう言うと、深く頭を下げた。

 気位の高いことで有名な彼女だ。

 こうやって自ら頭を下げることは、とても珍しいことだと思う。


「伊織。俺からもごめん。昨日は急に恋人交換スワップのことを暴露するみたいにしてしまって。――でもあの写真から起きている混乱をおさめるには、結局は、本当のことを言うのが一番だと思ったんだ」


 橘も、そう言って、目を伏せて小さく頭を下げた。


「――いいよ、もう。――分かった、許すよ。でも次からは気をつけてね」


 そう言って、伊織は力なく微笑んだ。

 その横顔から、決して彼女が納得できていないのだと分かった。

 

 だけど一度表に出してしまった情報を、巻き戻すことはできない。

 僕と彼女の盗撮写真も、橘が暴露した恋人交換スワップの秘密も。


 ――だから彼女はのだ。


 花京院眞姫那のこの行動はきっとただの天然だった。

 だから反省してもらえばいい。


 でも、橘遥輝の行動はどうだろうか?

 それが天然だとは思えない。

 全てを洞察し、全てを計画し、操作する男。

 学園の最優良物件。才色兼備のイケメンリア充。

 それが橘遥輝という男なのだ。

 この男の暴露には、それ自体の計算があるように思われた。


 そう考えると頭を下げているこの男の振る舞いは、――不気味でさえあった。


 少しだけ立ち話をすると、花京院は自分のクラスへと戻っていった。

 もうすぐチャイムも鳴りそうだったから。

 その背中を見送ると、僕ら三人も自分たちの教室へと向かった。

 

 *


 教室の引き戸に手を掛けて、僕は動きを止める。


「――どうした? 誠大?」

「どうしたの? ねぇ」


 背後で二人が戸惑いの声を上げた。


 違和感を覚えたのだ。

 部屋の中の雰囲気がおかしい。それは直感だった。

 ざわめきが違う。笑い声が違う。空気が違う。

 

「――なんでもない。ちょっとボケっとしただけ」


 ただそれを感じたとしても、僕らの選択肢は「入る」以外にない。


「――変なやつだな」


 生唾を一つ飲み込んで、僕は引き戸を横開きに開いた。

 僕の感じた違和感が、ただの気のせいであることを願いながら。


「――なんだ? あれ?」


 教室に足を踏み入れた橘が、真っ先に気づいた。

 そして足を前に進める。

 教卓の周りに人だかりができていた。

 そこに集まるクラスメイトたちは、どこか軽薄な笑い声を上げていた。

 黒板に書かれた文字と、貼り付けられた何かを見ながら。


「――ごめん」


 僕は伊織を後ろに置いて、黒板へと駆け寄る。

 そして唖然とする。そのあまりに下らない現実に。


「……何よ。――何よ、これ?」


 すぐに僕の隣までやってきた伊織が、目を見開く。


 昨日の悲しみを乗り越えて、自らを奮い立たせてやってきた学校。

 そんな彼女を待っていたのが、こんな現実なはずがない。


「――伊織。――大丈夫か」


 僕の掛ける言葉に、伊織は返事をすることすらできなかった。

 隣を見る。伊織の頬には、昨日見たばかりの涙が、また流れていた。


 人垣に突っ込んだ橘が、乱暴に黒板消しを手に取って。

 群衆へと凄んだ。「笑っているお前らも同罪だぞ!」そう言って。


 1月19日の木曜日。2年B組。朝の教室。

 カラーで拡大印刷されたいくつもの写真が黒板に貼られていた。


 伊織と僕が抱き合っているシーンの盗撮写真。

 伊織と橘がキスしているシーンの盗撮写真。

 伊織が海水浴でビキニの水着を着ている写真。

 伊織が他の男子たちと楽しそうに歩いている写真。


 そしてチョークで太い文字が書かれていた。


『南伊織は淫乱ビッチ! 二股浮気の股ゆる女!』


 ――カラフルな装飾を纏いながら、力強く、黒板いっぱいに。






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