第32話 電話越しの嫉妬と本当に好きな人(川原家・自室)[2023/1/11 Wed]
――誠大くんの本当の彼女は、誠大くんが好きなのは、私なんだよね?
スマートフォン越しに聞こえた言葉。少し震えた咲良の声。
僕の思考は停止する。世界の時間が停止する。
たった一言「その通りだよ」と答えれば良い。
「当たり前じゃないか」と言えば良い。
それが正解だということは、考えなくてもわかる。
それなのに、その言葉にブレーキをかける思考があった。
「それは本当なのか?」と問いかける声があった。――自分の中に。
「咲良――」
思考がまとまる前に口を開く。口を開きながら思考を走らせる。
時間の空白。それ自体が意味を持ってしまうから。
こんな時は、躊躇すること自体が許されない。
だから僕は口を動かす。
この瞬間を、問題なく切り抜けるために。
ただ君との時間を、生き抜くために。
「――そんなの、決まっているだろ。――心配かけてごめん」
左手でスマートフォンをぎゅっと握りしめる。
滑らかな表面の携帯電話が、手の中で動いた。
汗で滑ったみたいだ。手のひらの上で。
僕は生唾を一つ飲み込んだ。
「――ううん、ごめんね。私こそ、急にこんな電話して。ごめん」
張り詰めていた声色を、少しだけ緩めて、咲良が呟く。
僕の胸の中で、黒い染みが広がっていく。
それは罪悪感に似ている、何か。
だけど僕は嘘をついているわけじゃない。
僕は咲良のことが好きだ。咲良のことを大切に思っている。
今だってスマートフォンの向こうにいる彼女を抱きしめたいと思っている。
抱き寄せてキスしたいし、彼氏と彼女じゃないとできないことをしたいと思っている。
橘と新海誠の映画を見たと言われたら不安になるし、キスをしたと言われたら気が狂いそうなほど嫉妬する。
恋人
伊織の存在は関係ない。伊織を気にする気持ちは関係ない。
――だから僕は、嘘をついているわけじゃないんだ。
「僕こそごめん。――ほら、昼休みにさ、花京院が来てさ。そこからもうバタバタで。――目の前で起こったことに翻弄されてさ。それに思考を奪われたっていうか、なんというか。――本当は咲良に一番に伝えるべきだったかもな。ごめんな」
それが咲良が尋ねている質問の答えになっていないことは当然わかっていた。
だけど僕はその問いに、向き合う正しい言語を持ち合わせていなかった。
卑怯者だと言われるかもしれない。
でもそれは、今の僕にはどうしようもないことだ。
僕の日本語は完璧じゃない。僕の心を完全に表現することはできない。
僕の思考は完璧じゃない。僕の心を明晰に把握するには足りない。
だから今、僕にできるのは嘘をつかない範囲で、咲良の質問に応じること。
それが僕にできる、――精一杯の誠意なのだ。
僕の本当の恋人である咲良に対しての。
そして、――伊織に対しての。
「うん。――わかる。――そうだよね。私も逆の立ち場だったらそうだったかもしれないね……。――ごめんね。なんだか、意地悪な質問をして」
「――いや、いいよ。僕こそごめん」
二人の間に、ただ取り繕うよな謝罪が幾重にも折り重ねられていく。
甘くて、繊細で、――冗長な、ミルフィーユみたいに。
電話口。初めに彼女に「何か特別なことでもあった?」と僕は尋ねた。
それが失言であったと、僕は今更ながらに噛みしめる。
僕は無意識の内に、咲良に表明してしまったのだ。
橘が恋人
「咲良のことを第一に考えていなかった」と。
――でもそれは本当のことだった。
本当に僕は咲良のことを考えていなかった。
僕が心配していたのは、伊織のことばかりだった。
それは彼女が僕の目の前で、花京院に詰め寄られたから?
伊織が僕の目の前で涙を流したから?
それとも恋人
「謝らなくてもいいよ。誠大くんは謝らなくてもいい。謝られるのも、何か違うと思うから――」
「……『違う』って?」
「――それは上手く言えないけれど」
咲良は電話口で言葉を止めた。
「誠大くんと伊織さんが、どんどん恋人同士になっていて……。私、なんだか伊織ちゃんに比べて、誠大くんの恋人らしくないんじゃないかなって」
不安そうに、彼女が呟く。
「――そんなことないって。そんなこと言うなよ、咲良」
「……だって。今朝だって、――二人で並んで、一緒に登校していたし」
見られていたのか。咲良にも。
「一緒に学校に行くくらい、彼方とだってするよ?」
「――宮下さんは、もともと男の子だし。友達なんでしょ?」
「うん。でも、彼方は今、女の子だし。伊織だって友達だよ?」
「……それは、そうだけれど」
言葉を弄して、絡め取る。自分の「本当の彼女」を。意識的に。
――これじゃ、まるで橘みたいじゃないか。
「伊織とは昔から、友達だったしさ。小学校の時とか、よくお互いの家で遊んでいたんだ。幼馴染、――腐れ縁って言ってもいいかもしれない。それは知ってるよね?」
「――うん」
「なんだか変な話なんだけどさ。橘の言い出した恋人
「――本当に?」
咲良を抱きしめる時の感情とは違う。
咲良に口づけて、咲良の背中に手を回して、その制服を脱がして、ベッドの上にそっと倒して、キャミソールを上げて、ブラジャーのホックを外して、その乳房に吸い付いて、スカートの中に手を伸ばし、ショーツの膨らみを撫でて、その割れ目に指を伸ばし、開いた唇の間に舌を差し入れ、自らを覆い隠す全てを剥ぎ取って、快楽の中へと侵入する。
そんな時、僕は君の中で、生命の始原に還ったような、そんな感情を得るのだ。
僕は君に包まれるために生まれてきたんだと。
僕は君をずっと抱きしめていたいとそう思うんだ。
「――伊織ちゃんと私は、全然違う?」
「うん。全然違うよ――」
伊織と咲良は全然違う。二人は異なる存在だ。
単純に比較することなんて、できない。
だから、全然違うのだ。
――嘘はついていない。
でも、もし君が「伊織ちゃんと、私、どちらの方が大切?」と尋ねたとしたら?
僕はその問いに、どう答えられるだろう?
僕はきっと今、その答えを持たない。
だから僕は、ただ素朴に願うのだ。
君がその質問をしないことをしないでいてくれることを。
スマートフォン越しに、咲良が「――ふぅ」と息を吐くのが聞こえた。
張り詰めていた緊張感を手放すみたいに。
僕は自らの拘束が解かれて、釈放されるような感覚を覚えた。
「――うん、わかった。ありがとう。ちょっとスッキリした」
「よかった。――僕もちょっとホッとした」
僕がおどけて返すと、彼女は僕の耳元で「もう」と囁いた。
「でも、明日から、ちょっと大変だよね。遥輝くん、何を考えているんだろうね?」
「本当に、何を考えているんだろうな、咲良の今の彼氏は」
「ほんと、冗談でもやめてよ、誠大くん。――そういう言い方」
唇を尖らせるみたいな声で、返してくる、咲良。
――でも、そんな今の彼氏に咲良は唇を許したんだよな?
頭の奥には、二人のキスシーンが、明瞭なイメージとして浮かぶ。
自分で見たわけじゃないけれど、その映像が焼き付いて剥がれなかった。
――咲良もまんざらじゃなかったりしたのかな?
「明日から、また何かあったら、遠慮なく言うんだぞ、咲良。恋人
「――うん、ありがとう。三人と違って、私のクラスは私一人だし、そんなに話題になることも無いんだと思う。――きっと、大丈夫じゃないかな?」
「――そうかもな」
咲良の希望的観測が、そのまま現実になることを僕は願った。
だけど、花京院の言っていた言葉も気になった。
『――まるで泥棒猫じゃない。私、全然、納得できないわ』
彼女は咲良のことを、そう呼んでいた。橘と付き合いだしたと聞いて。
橘に懸想している女子は、花京院眞姫那だけではない。
果たして周囲は、咲良のことを、そっとしておいてくれるのだろうか。
ただそれを考えるには、僕は女子たちのことを知らなすぎた。
「――じゃあな、咲良。遅くまでごめんな」
「ううん。でも、電話できて良かった。――ありがとう、誠大くん」
「こちらこそ。――おやすみ、咲良」
「――おやすみなさい」
そう言って、僕らはLINEの通話を、切断した。
シーリングライトの下で一人っきりになった僕は、大きく息を吐いた。
*
電話を終えた僕は、一階のリビングへと降りる。
パジャマに着替えた絵里奈がNetflixでアニメを見ていた。
自分の夕食を温めて、ダイニングテーブルで食べる。
母親は、また泊まり込みで仕事らしく、不在だった。
「――お兄ちゃん、電話、大丈夫だったの?」
「ん? あれ? 僕、何か言ってたっけ?」
ソファーで三角座りをしていた絵里奈が、リモコンを持ったまま振り返った。
「言ってないけど、わかるよ。なんとなく。顔色変えて携帯持って上がっていったし。それに上からなんか話し声聞こえてきてたし」
「――そ、……そうか」
「あ、大丈夫。内容は全然聞こえてないから」
絵里奈があっけらかんと言う。ちょっとホッとした。
あまり恋愛関係の真面目の話を、妹には聞かれたくない。
単純に恥ずかしい。
「――伊織お姉ちゃん?」
まだ少し濡れた髪を垂らして、絵里奈が首を傾げる。
「いや、違う。――咲良だよ」
「あ、咲良さん。――彼女さん?」
「そう。――まぁ、彼女さん」
厳密には恋人
さすがに中学生の妹をこの非倫理的世界線に引きずり込む気にはなれなかった。
「そっか。あの人とまだ付き合ってたんだね」
「おう。――まぁ、先週もうちに来てただろ?」
「うん、まぁ、そうだけど。だって昨日も今日も伊織お姉ちゃん来てたし、『あれ? あの人とは別れたのかな?』とか思っちゃうじゃない?」
「――そういうもんか?」
「え? ――そういうもんでしょ? 中学生女子的にはそう思うけど? アオハル高校生だと、違うの?」
そういうものかもしれないけれど、どうなんだろう?
友達でも家に迎えに来るくらいはするかもしれない。
小学生の時のことを考えたら、別に普通のことな気もする。
でも、やっぱり、アオハル高校生だと違うのかもしれないな。
――ていうか、なんだよ、アオハル高校生って。
「もしかして、お兄ちゃん。――二股? 美人二人を二股? 女の敵」
「違うよ! 二股なんてしてないよ! 女の敵って、橘じゃあるまいし」
「え? 橘さんって、二股してるの?」
「いや、してないけれど……」
でもなんだか橘は、女の敵って感じがした。知らんけど。
「ふ〜ん。でも、お兄ちゃん、伊織お姉ちゃんのことまんざらでもないんでしょ?」
「――どうだろうな」
妹相手にとりあえず言葉を濁す。
「明日も、伊織お姉ちゃん、迎えに来るの?」
「――明日は来ないんじゃないかな」
「どうして?」
「――どうしても」
伊織の横顔を思い出す。頬を伝った涙を思い出す。
教室を駆け出した背中。その後、僕は伊織と話せていない。
さっき咲良との電話の後もLINEを確認したけれど、伊織からの返信はなかった。
伊織は大丈夫だろうか? ちゃんと家に帰れているだろうか?
きっと明日、「もう。恋人
それはきっと仕方ないこと。全ては元の形に戻るだけだ。
彼女がそう言えば、僕との恋人関係を維持する理由なんてどこにもなくなる。
伊織が、僕の家に、朝迎えに来てくれることだってなくなるのだ。
「そっか、残念」
「そうだな、残念だな」
僕は電子レンジで温められたビーフシチューを口に運んだ。
ご飯を食べ終わると、お風呂に入って、夜遅くなリ過ぎない程度で寝た。
色々な事件が起きた一日。
明日はもうすこしまともな一日になることを願いながら。
――また伊織の笑顔が見れることを願いながら。
*
朝、インターホンのチャイムが鳴った。
「お兄ちゃん、出て! 私、無理〜!」
洗面所から髪をセットしている絵里奈が声を上げる。
「わかったよ。――まったく、誰だよこんな時間に」
僕は玄関でサンダルに足を突っ込み、玄関扉を外開きに開く。
開かれた扉の向こう側から、光があふれる。
寒い外気を温めるように、冬の明るい日差しが差し込む。
家の前には、制服を着た一人の少女が立っていた。
それはいつもどおりの笑顔を浮かべた、僕の幼馴染だった。
「おはよっ! 誠大! 今日も君の彼女が迎えに来たぞ!」
そこには、――南伊織がいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます