第31話 下着姿の妹と電話口の彼女(川原家・自宅)[2023/1/11 Wed]
地下鉄西大路御池駅で彼方と別れて終点の太秦天神川駅で降りる。
自転車に乗り換えて五分で家にたどり着いた。
自宅の扉を開いて明かりの灯るわが家へ。
靴を脱いで、リビングに入ると、壁掛時計を見る。
かなり遅い時間だった。
キッチンの方からガタガタと物音がする。
バタンと冷蔵庫を閉める音。
奥に見える浴室の電気が点きっぱなしだ。
「あ、――お兄ちゃんお帰り」
「ただいま。ていうか絵里奈、そんな格好していたら風邪引くぞ。出てくる前に洗面所で服着ろ」
妹がバスタオルを巻いて炭酸水を飲んでいた。
むき出しになった肩から湯気を立てながら。
ちょうどお風呂から上がったところみたいだ。
中学三年生にもなると、小学生の時とは違って随分と女性らしい肌。
どこか色気を感じさせる雰囲気を纏い始めている。
「え〜。誰もいないからいいかなーと思って。家に一人でいるときくらい好きにさせてよ」
「そういう意味なら、僕が帰ってきたから一人じゃないじゃん。服着ろよ。――ていうか、僕が帰ってくる前に誰か来たらどうするつもりだったんだよ?」
「誰かって、誰? 私の友達がこんな時間に来るとか無いし、お兄ちゃんの友達だってでしょ? 帰ってくるならお兄ちゃんか、お母さん」
「――たしかに」
なかなか論理的な妹。
裸体で炭酸水がぶ飲みしているのに。
お兄様、たじたじ。
「ほら、でも、Amazonの配達とか?」
「最近全部、『置き配』じゃん?」
「――宗教の勧誘とか」
「インターホンで断るから」
「――NHKの集金」
「それこそスルーで良くない?」
「――確かに」
なんだか大喜利みたいになってきた。
まぁ、総合すると、別に女の子が夜に自宅で全裸でいても良いことになる。
世界一安全な国家――日本で生きる僕らの持つ大切な権利なのかもしれない。全裸生活。知らんけど。
ただし、最後のやりとりは、放送法64条違反だし注意な。NHKの集金。
(なおわが家はすでに銀行口座から自動引き落としなので、そもそも来ない)
「あー、そういえば、お兄ちゃんの友達といえば、伊織お姉ちゃん、最近よく来るよね? 朝も二日連続で迎えに来てくれたし。――昨日はお兄ちゃんが先に行っていて失礼千万だったけど」
「あれは向こうがアポイントメントなしで来るから」
「アポイントメントだって。横文字。なんか偉そう」
洗面所に戻った絵里奈が背中を向けたまま話し続ける。
覗き込むと、ピンク色のショーツをお尻まで引き上げ、白いブラキャミソールに腕を通していた。
膨らんだ胸が先端まで、鏡越しにそのまま見えたから、視線を逸らした。
「――どうして伊織お姉ちゃん、また急にお兄ちゃんを誘いに来たりするようになったの? 何かあったの?」
いきなり踏み込んでくる妹。
――まぁ、そりゃ気になるよな。
絵里奈は幼稚園の頃から、伊織と仲良しだったわけであり。
「ん、まぁな。大人の事情に首を突っ込むんじゃないよ。――火傷するぜ」
「え、何それ? 中二病気取り? なりきれてないよ?」
「――ほっとけ」
おどけて誤魔化すのも簡単じゃない。
「私としてはお兄ちゃんが
「――
「え? お兄ちゃんと伊織お姉ちゃんって付き合ってたんだよね? 中学生の時。――お父さんが死んじゃって、お兄ちゃんが根暗になる前は」
こいつ、人の辛い過去にずけずけと踏み込んでくるな。さすが家族。
とはいえ、絵里奈も同じ痛みを抱えているわけであり。だからこそ踏み込む権利があるのかな。
「付き合ってねーよ。――ていうかお前『根暗』とかいうなし」
「え? そうなの? だって伊織お姉ちゃん、いっつもお兄ちゃんと一緒だったし、うちにもよく遊びに来てたし、二人ってすごく特別な感じだったし。――あれで付き合ってなかったんだ」
「――おう。付き合ってなかった。お前、あの頃からそういう風に思ってたの?」
そういう風に見えていたのか。
自分では自分たちのことはよくわからないものだからな。
「ううん。あの頃は私も小学生だったし。今になって振り返ってみると『そうだったのかなー』みたいな?」
「――そっか、そうだよな」
「でも、二日連続で家に朝迎えに来るなんて、完全に恋人ムーブじゃん。――もしかして、今度こそ本当に付き合いだしたとか? 伊織お姉ちゃんと?」
ドライヤーで長い髪に風を当てながら、絵里奈が振り向く。
身につけているのはまだブラキャミソールとショーツだけ。
ピンク色の布切れから白い太腿が肉付きよく伸びている。
妹とはいえ、その姿はちょっと、高校二年生男子の目には刺激的だった。
「――それは、――秘密だよ」
ここは「そんなはずないだろ」とか返しておくべきところだったかもしれない。
でも嘘だとしても、それを口にする気にはならなかった。
口にすれば、それが本当になってしまう気がしたから。
「お兄ちゃん。それって、ほとんど肯定と一緒だよ?」
昼休み。伊織は教室を駆け出した。
僕は、伊織の涙を久しぶりに見た気がする。
――前に見たのはいつだっけ?
記憶の奥底を探る。
確かに同じようなことがあった。
それは中学生の頃。僕の父親が死んだ頃の話。
「肯定はしていないよ。――ちょっといろいろあるんだよ」
「もしかして、『大人の事情』ってやつ? まだ高校生のくせに?」
「ほっとけ」
絵里奈に言われて、伊織のことを思い出した。
花京院がやってきて大砲を打ち放し、昼休みの教室は混沌に包まれた。
それから伊織は帰ってこなかった。
彼女が授業をさぼるなんて珍しい。
五時間目の先生が「南は欠席か?」と尋ねたから、篠崎が気を効かせて「ちょっと体調不良で保健室に行っていると思います」と返していた。
六時間目も帰って来なかったから、不安になってLINEで何度かメッセージを送った。だけど返事は返ってこなかった。
学校が終わって、放課後になって、予備校の授業時間まで、返事はなかった。
状況が状況だったし、LINEで音声呼び出しをするのははばかられた。
伊織の心理状態もわからなかったから。
誰とも話したくないのかもしれなかったから。
あの時、橘に制止されて、僕は伊織を追わなかった。
そのことが、どこかで心の澱みたいに、引っかかっていた。
橘が言った「行くな」という言葉。
それから僕が直感的に得た解釈。
それは恋人
橘はもしかすると、本当に伊織と別れようとしているのかもしれない。
そして橘の計画に乗っている限り、伊織が僕とつきあうように、誘導しようとしているのかもしれない。
そう思ったから、僕は瞬間の判断で、その餌に食いついてしまったのだ。
――それが、正しい判断だったのかどうかは分からないけれど。
そう言えば、伊織からLINEの返事は返ってきているだろうか。
帰宅して机に置いた携帯を、手に取る。
液晶画面上、LINEアイコンの通知バッジが10を超える数字を示していた。
――伊織からの返信だろうか?
アイコンをタップしてLINEアプリを立ち上げた。
そこで僕は、未読のメッセージと不在着信を見つける――。
「……絵里奈。――お兄ちゃん、ちょっと自分の部屋に上がるな」
「あ、うん。わかった。――ご飯は?」
「後で食べるよ」
絵里奈は「はーい」と呑気に、鏡へと向かい直した。
*
耳に当てたスマートフォンから、LINEの呼び出し音が鳴る。
僕の胸は激しい音を立て続ける。
奥底から焦燥と公開と罪悪感めいた感情が湧いてくる。
何故だかわからないけれど。
本能が危機を訴えていた。
「――もしもし。――私。――誠大くん?」
「ああ、ごめん。――電話、遅くなって」
LINEの履歴にあったのは、咲良からのメッセージと不在着信の数々だった。
その数は合計15件にも上る。
間違いなく彼女の異常事態を表していた。
「うん。なんだかごめんね。いっぱい履歴残しちゃったみたいで。――変に心配かけちゃったかな?」
「――いや、いいよ。こっちこそごめん。着信音が鳴らなかったみたいで気づかなかったよ」
それは本当だった――と思う。
流石に着信音が鳴ったら気づくはずだ。
「そっか。うん、ごめんね。――何だかいろいろ考え出すと心配になっちゃって」
「咲良が謝る必要は何も無いよ。――それで、何かあった?」
僕は閉めた自室の扉に背中をあずける。
立ったまま、電話を続ける。
背中はどこか緊張し続けている。
「私に何かあった――っていうんじゃないんだけどね。……先に一つ聞いていいかな?」
「――何? 咲良?」
「うん。誠大くん、今、帰って来たんだよね?」
「そうだよ」
「それって、今、さっきまで、――伊織ちゃんと、一緒にいたの?」
「――違うけど? 水曜日はいつもどおり予備校だよ。その後、普通に彼方と一緒に電車で帰ってきた」
「宮下さんと? ――そっか。うん、そうだよね。一応、念の為なんだけど、今、誠大くんの家に、伊織ちゃんが来ていたりしないんだよね?」
「――こんな時間だよ? ――来てないけれど? どうして?」
少し奇妙な質問に、僕が質問で返すと、咲良は「なんでもない」と小声で返した。
なぜ咲良は、そんなことを聞くのだろう?
「それで、話って何かな? 不在着信も何回ももらっていたし、何か特別なことでもあった?」
「あ、うん。――特別なこと、ね。……あはは。そうだよね」
電話口で咲良が、少し変な笑い声を漏らした。
幾ばくかの不安が押し寄せてくる。
自分は何か、不味いことを、言っただろうか?
今、彼女は、どんな表情をしているのだろう?
今、一人で、咲良はどうしているのだろう?
僕の本当の彼女は――?
「ねぇ、今日、誠大くんは『特別なこと』――無かった?」
「――特別なこと」
僕の脳内に情景がフラッシュバックする。
涙を流した伊織。思いを吐露した伊織。駆け出した伊織。
立ち上がった橘。言い放った橘。瞬間的な取引を持ち出した橘。
花京院の突撃から始まった、ほんの十分ほどの時間に起きた惨劇を。
「――無くはなかったかな」
だけど、――どうしてだか、そのことを咲良に話すのは気が引けた。
自分でもどうしてなのかは説明しにくいのだけれど。
それは、僕ら三人のことだから。
僕と伊織と、――橘のことだから。
「聞いたよ? 伊織ちゃんのこと。大変だったみたいだね」
「……そうだよな。さすがにA組まで届くよな、あそこまで大事になったら」
「――うん。聞いた。伊織ちゃん、泣いて教室を出ていったって。――それから、連絡は取れたの?」
「いや、LINEにメッセージは送ったけど、返事は無いよ」
「そう。――心配ね」
「――ああ」
そこで僕は、ふと気づく。
電話口の咲良の口調が少し不自然なことに。
心配を口にするその声は、どこか平べったくて、どこか無機質だった。
優しいいつもの咲良が、誰かの心配する時の声よりも。
「橘くんにも困っちゃうね。みんなに言っちゃったんでしょ? 恋人
「ああ、そうなんだよ。あの写真のこともあったから、伊織が花京院さんから『浮気』だとか言われて、――ちょっとね」
「うん。わかるよ。――浮気に思えちゃうよね。――恋人
電話越しに伝わる咲良の言葉。
沈鬱な声は、心なしか震えていた。
「――咲良?」
彼女の名前を呼ぶ。
僕は何か思い違いをしているのだろうか?
僕は何か大切なものを見失っているのだろうか?
僕は何か――
「ねえ、誠大くん。伊織ちゃんと抱き合っていた写真。――あれ、嘘なんだよね? ――あれ、事故か何かなんだよね? 誠大くんが伊織ちゃんのこと好きで抱きしめているんじゃないんだよね?」
「ああ、……そうだよ。……蜂が飛んで来てさ。……怖がった伊織がしがみついただけ――なんだ」
そこで僕は致命的な失敗に思い至った。
伊織と僕の写真が出回ってから、僕は咲良に一切の説明も言い訳もしていなかった。
本当の恋人として一番ショックを受けるのは咲良のはずなのに。
そのことに思いが至っていなかった。
「――ごめん」
「ううん。いいよ。本当は一番に教えてほしかったけれど。――私は、誠大くんを信じていたから。――誠大くんも、そうなんだよね?」
「――あ、――うん。――そうだね」
返す言葉が見当たらない。ただ首を縦に振る。
「でもね。それだけじゃないんだ――」
スマートフォンを左耳に押し当てたまま。
僕は天井を見上げる。
白いシーリングライトが眩しい。
目を細めた。
「橘くんが四人の恋人
「――うん」
彼女の言葉が脳内に染み込んでくる。
それは霧を晴らしていく。
霞んでいた世界が澄んでいく。
「ねえ。それって私もだよね? 私も浮気しているってことだよね? 私もみんなに尻軽だとか、軽薄だとか、淫乱だとか思われちゃうんだよね?」
「――それは」
「いいよ。それは、仕方ないと思うの。誠大くんにお願いされたことだったとしても、恋人
そして姿を見せたのは、透明な暗闇。
「――昼休みの出来事が広まってから、みんな私のことを変な目で見ていたの。
腫れ物を触るみたいになって。
しんどかった、よ。
誰かと話したかった。
誠大くんと話したかった。
せめて『大丈夫?』って言って欲しかった。
誠大くんが、伊織ちゃんのことを心配しているっていうのはわかってた。
――でも、私は?
――私のことは?
LINEメッセージの一つも無かったよね?
――寂しかった。――悔しかった。
誠大くん――」
時間が止まる。
鼓動が止まる。
僕らが静止する。
ただスマートフォンのLTE回線が、僕らを細い糸で繋いでいた。
「――誠大くんの本当の彼女は、――誠大くんが好きなのは、私なんだよね?」
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