第15話 恋人交換とその長所短所(川原家・自室)[2023/1/7 Sat]
「明日は恋人案件無しで」
「あいよ!」
昨日、伊織とは別れる際にそうハイタッチを交わした。
だから今日は心おきなく自宅で休息、――もとい、宿題だ。
しかし、彼氏との別れの挨拶が「あいよ!」っていうのはどうなんだ? いくら幼馴染の腐れ縁とはいえ。
伊織は本当に遥輝の彼女をちゃんとできていたのだろうか。
ふとそんないらぬ心配をした。
*
1月7日の土曜日。朝起きると、家には誰もいなかった。
母親は土曜日だけど勤務があると言っていた。
妹で友人宅へ出掛けたらしい。
咲良に連絡を取ろうとして、スマホを探す。もはや条件反射だ。
そこで咲良がもう自分の彼女ではないと思い出す。
幾ばくかの喪失感を覚えた。
本当の意味で「別れた」わけではない。
別れたわけじゃないけれど、一時的にではあれ距離は遠のいた。
彼女は気楽に呼び出せる存在ではなくなったのだ。
表現し難い感覚を胸の中と頭の中で往復させるように反芻する。
たとえば彼女が旅行中や留学中の時。
そういうときにも同じような感じがするのだろうか。
「気楽には呼び出せない」という意味では、同じかもしれない。
イメージしてみる。
北海道にある彼女の母方の実家に長期の帰省をしていると。
イメージしてみる。
いつか行きたいと言っていたインドに彼女が留学していると。
でもそれらのイメージがもたらす寂しさは、今のこれとは異なるように思われた。
その両方で「遠くにいても繋がっている」という確信を持てる。男の影はない。
でも今は違う。僕たちは今、公式に「恋人同士ではない」のだ。
咲良は今、橘の彼女なのだ。
それが時限付きの関係であったとしても。
そう認めたのだ。僕たち四人で。
急激に胸の奥が、掴まれるような、そんな感覚がした。
咲良に会いたい。会って、咲良の気持ちを確かめたい。
そんな衝動が、胸の奥底から沸き起こって、全身を揺らした。
誰もいない自宅。静かな空間。
――それはこれまで咲良がやってくる予兆でさえあった。
咲良は僕の家にくる時、家族と会うのを避けたがった。
それでも絵里奈とは遭遇することがしばしばあったので、顔を合わせたとき、咲良は表向き気さくに話していた。だけど少し緊張しているようにも見えた。
母親とは結局、片手で数えられるくらいしか、会っていないと思う
咲良と初めてキスをしたのは、5月のゴールデンウィーク。
咲良と初めて肉体関係を持ったのは、夏休みの終わり頃。
その日はちょうど母親が出張に出ていて、妹も不在だった。
しんと静まった家へとやってきた咲良はなんだか嬉しそうに甘えてきた。
僕の部屋のベッドを背もたれにして、キスをした。
長い時間、唇を啄みあっていると、彼女が僕の体に触れてきた。
僕が彼女を抱きしめ返し、そのままベッドへと押し倒すみたいに転がり込んだ。
僕の下に来た咲良が、至近距離で僕の顔をじっと見上げた。
彼女の黒目が寄っていたのが、どこか卑猥に思えた。
*
昨日、京都駅前のマクドナルドで昼食の時、彼方に詰め寄られた。
『本当に――恋人
僕らは答えに窮した。伊織もだ。
質問が倫理的批判も含んでいるのは明らかだった。
でも、それ以上の要素をどこまで含んでいるのかはよくわからなかった。
僕と伊織は顔を思わず見合わせた。苦笑いを浮かべながら。
二人は橘に巻き込まれただけ。そう言い訳することもできた。
でもそれもどこかずるい弁明のように思えた。
結局、僕も伊織も合意の上で乗っかったのだ。
橘が作ったこのゲームに。
――恋人
昨日にしても一昨日にしても、こんなに伊織と話したのは久しぶりだ。
小学生の頃に戻ったみたいだ。
父親が病床に伏せる前。まだ僕らが四人家族だったころ。
伊織はよく我が家にも遊びにきた。
咲良と違って、伊織はむしろ母親や父親と会うことを楽しんだ。
絵里奈も伊織とよく遊んだ。
久しぶりに話す伊織は、それでもやっぱり、昔とは違った。
横顔が、仕草が、身体が、随分と大人になっていた。
彼女と話すと、何気ない会話でも楽しかった。
口ではつまらなそうにしていても、その時間自体がなんだか心地よかった。
――恋人
たとえばこの瞬間に咲良がいないこと。
咲良に気楽にLINEをすることさえ出来ない。
それはやっぱり寂しかった。
そしてただ寂しいだけじゃない。
どうしてもその先を妄想してしまうのだ。
胸にぽっかりと空いた空洞には、隙間風が吹くだけじゃない。
その隙間へと腕が突っ込まれて、掻き回される。
今、咲良は、橘の彼女なのだ。
だから橘と恋人同士がするようなことをしているのかもしれない。
ついついそういうことを考えてしまう度に、僕の胸の奥は抉られた。
結局のところ、それが恋人
仮初めに得る喜びと、大切なものを失う苦しみ。
でも、それはただ自分の感情だけの問題だ。
その感覚に、なんら倫理的な判断は含まれていない。
今、僕の感じていることが「恋人
僕はきっとまだ理解していないのだろう。
恋人
昨日、彼方が言いたかったことは、そういうことだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。
結局のところ、僕は何も知らないのだ。
始まったばかりの、この不純な一ヶ月が持つ、本当の意味なんて。
*
昨日、マクドナルドで昼食を終えたあと僕と伊織は結局予備校には戻らなかった。
予備校の人に不正が見つかったらちょっとまずいかなとあらためて思ったのだ。
彼方が言っていた話は、かなり現実味があった。
正直なところ、そういう「怒られ案件」で、新年をスタートしたくはない。
特に予備校から母親に連絡が行くような事案は、絶対に避けたいわけであり。
「私はもう、予備校潜入っていう目的を達成して満足したから、私一人帰って、誠大は夕方までやっいくので全然良いよ」
いつの間にか目的が「予備校潜入」になっていた伊織。
彼女はそう言っていたが、一人で家に帰らせるわけにもいかない気がした。
別にデートという訳でもないけれど、朝から連れ立ってやってきたわけであり。
「悪い、彼方。今日、僕は帰るよ。また、今度一緒に自習しような」
「――うん、分かったよ」
別れ際、彼方がいつもより寂しそうな表情をしているように思った。
だけどその理由はよくわからなかった。
帰り道、アバンティの建物を出たところで、伊織が後ろから声を掛けてきた。
「誠大、良かったの? 宮下くんのこと一人にして。私は本当に大丈夫だよ?」
「ん? まぁ、彼方は彼方で自習しに来たわけだから、別に大丈夫だろ。伊織は一応、今日、僕が連れてきたわけだしさ。ちゃんと午後もエスコートしなくちゃね」
「え〜、何よ、急に紳士ぶっちゃって」
「ほっとけ」
ヨドバシカメラとかポルタ地下街とか、京都駅前のお店を一緒に回った。
僕らは気づけばショッピングデートみたいなことをしていた。
彼方が言っていたような、水族館デートまではしなかったけれど。
そういえば2日には咲良と初売りに行ったなぁ、と二人で歩きながら思い出した。
まだ一週間も経ってないのに、咲良とのデートが懐かしく思い出された。
*
「ねぇ、誠大。宮下くん、ううん、宮下『さん』って、誠大にとって『親友』ってことでいいんだよね?」
京都の高架を、揺れながら走る帰りのJR山陰線。
前に座席に腰掛けた伊織が、そんなことを言い出した。
「いいと思うけど? なんで?」
「宮下さんって、女の子なんだよね? だから誠大って、彼女のこと――女の子として見ているんだよね?」
「――そのつもりだけど?」
窓枠に肘を突いた伊織が、じっと僕の方を見つめた。
そしてなんだか小さく溜息を吐くと、真顔に戻った。
「やっぱりなんでもない」
「――なんなんだよ」
伊織が視線をまた窓の外へ向ける。
電車は二条駅に到着した。
駅の向こうには、BiVi二条の建物が見えた。
昨日家族で映画を見に行ったTOHO二条シネマズが入っている商業施設だ。
*
土曜日、結局、学校の宿題をあらかた倒した。
誰もいない自宅で部屋にこもりながら、ひたすら勉強。
あとは日曜日の晩にでも二時間くらい頑張れば終わるだろう。
早いもので恋人
そうやって勉強ばかりしていることが、逆に現実逃避のように思えたりした。
スマホを手にとってLINEを開く。
いつもの癖で咲良とのチャット画面を開いてしまう。
一つ戻ってスワイプすると、伊織とのチャット画面を開いた。
誠大
〉宿題ほぼ倒したよ。✌ あとは英語の暗唱文だけ。勝ち戦の気配。
メッセージを打つとすぐに既読になって、1分もしない間に返信が帰ってきた。
南伊織(いおりん)
〉おめでとー🎉 私も同じくらい。あとは数学Bの課題をこなすだけ〜😆
誠大
〉数学Bは一瞬だよ。それ僕よりもゴール近いわ。
南伊織(いおりん)
〉マジで? やっったー、私、勝ち組じゃん。
それから、なんか女の子がめっちゃ踊っているスタンプを送ってきた。
誠大
〉伊織、夕方は何してるの?
南伊織(いおりん)
〉夕方。それ今からのこと?
誠大
〉そそそ
南伊織(いおりん)
〉今からお姉ちゃんとお母さんの三人でラーメン食べに行ってきます。
誠大
〉いいなぁ
南伊織(いおりん)
〉いいだろう。
〉あ、じゃあ、もう、今から行くみたいだから、またー。
誠大
〉おう。じゃあ、また。
最後に敬礼のスタンプを送った。
違うキャラクターの敬礼スタンプが戻ってきた。
*
午後六時を過ぎても母親と絵里奈は帰ってこなかった。
母親は仕事が長引いているのだろう。
絵里奈はいつもの友達の家で、また夕食ご馳走になっているのかもしれない。
そこのおばさんは、絵里奈が遊びにいくと、しばしば夕食を出してくれる。
多分、母子家庭であるわが家に気を使って。
気遣われすぎな気もしなくはないけれど、川原家としてはご厚意に甘えている。
何はともあれ、午後六時である。
午後六時を過ぎて夕食に関して音沙汰なきときは外食しても可。
川原家にはそういう暗黙のルールがあるのだ。
「――僕もラーメンでも食べに行くかなぁ」
今行ったら、ワンチャン、南家と遭遇の可能性もある。
このあたりでラーメンを食べに行くとしたら四択くらいの選択肢。
でもなんとなく「あの三人が行くのはあそこだろうな」と予想はできた。
そんなことを考えていると、机の上でスマートフォンが振動し音を立て始めた。
手に取って液晶画面を見る。諸悪の根源、リア充のイケメンだった。
「もしもし? ――橘? どうした?」
『あ、出た。川原、今大丈夫?』
「――大丈夫だけど?」
なんだか背景音がやかましい。
屋外からかけてきているみたいだ。
「橘、外か?」
『そうだよ。二条。映画見てきたとこ』
「映画? 一人で?」
『んなわけないじゃん。もちろん彼女とだよ。――ほら、咲良ちゃん』
電話の向こうで喧騒に混じって『ええ、私はいいよぉー』と声がした。咲良の声。
『出ないって』
「いいから。で、何の用だよ?」
その電話に、僕は苛立つ気持ちを抑えることが難しかった。
自分で受け入れた恋人
『なぁ、川原。今から出てこられたりしない? 晩御飯一緒にどうかなぁと思って』
「――三人で?」
『おう。本当は伊織も誘おうと思ったんだけど、家族で夕食に行ってしまっているみたいでさ』
おう、ラーメンな!
『とりあえず三日間の恋人
回線の向こう側で小さく、『分かった、分かったって』と橘の声がした。
きっと『いらないことを言うな』と、咲良に嗜められているのだ。
「……どこ? 二条駅に行けばいい?」
『せっかくだから東西線で移動して、烏丸御池まで行くのでもいい? ちょっと行きたい店もあって』
「――分かった。行くよ」
待ちあわせ時間と場所をざっくり決めて、通話を切った。
僕は自室のハンガーからコートを手に取り、袖を通す。
玄関を開けて、日の落ちた街路へと飛び出した。
――今まで抱いたことのない類の焦燥感を抱えながら。
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