第53話 口裏合わせと僕の彼女(伊東家・咲良自室〜学校・校門)
扉口の咲良はそのまま部屋に入ってくる。
腰をかがめるとベッド脇のミニテーブルへとマグカップを置いた。
「――それじゃあ、切るよ。よろしくな、絵里奈」
『うん、わかった。じゃね』
LINEの音声通話を切った。
末尾で妹の名前をはっきりと発音して。
僕の方へと振り向いた咲良は小首を傾げる。
「――妹さん?」
「あ、うん、そう。無断で泊まっちゃったからさ。母さんにも何も言えてないし、心配したら行けないと思って」
「そっか。そうだよね。……なんだかごめんね?」
「いや、全然。咲良のせいじゃないよ。僕が勝手に泊まったわけだし」
勝手に泊まったのは僕と言うより、僕の下半身かもしれない。
いずれにせよ、それもまた僕なのだ。
咲良が両腕を広げる。甘えるように。
僕は彼女を胸に招くと、ぎゅっと抱きしめた。
五秒くらいそうしてから、体を離す。
僕の手は彼女の腰回りに添えたまま。
柔らかな腰つきを手のひらで撫でる。
「それで、どうだった? ――ご両親は……大丈夫だった?」
「うん。お父さんもお母さんもいたけど、お父さんは気づいていないみたい」
「靴――とかは? ベタだけど」
漫画やドラマだと、恋人や浮気相手が部屋に上がり込んでいた際に、よく玄関口の靴で気づくってシーンがある。
「なんだかお母さんが隠してくれていたみたい」
「――おばさん、気が効きすぎじゃない?」
「うん。ほんと。――でも助かった?」
「それは助かったよ。――別に隠したいわけじゃないけれど、おじさんに会うのはちょっとまだビビるっていうか、……初
つまり、正直に言えば「隠したい」ということなんですけどね。
「――私はそれでも大丈夫なんだけどね。でも誠大くんがそういうならそれでもいいよ」
咲良はそう言うと僕の脇の下から腕を回して、両肩に手のひらを掛けた。
そしてまた胸を寄せる。柔らかな膨らみが僕の胸で崩れる。
耳元に呼吸を寄せる。
「おばさんとは話したの?」
「うん、お母さんは、全部分かった上で協力的だから。――お母さん、誠大くんのこと気に入っているからね。――このままずっと付き合って結婚して欲しいとか思っているのかもしれない」
「――そっか」
「うん、そんな将来のことなんて、わかんないのにね」
昨夜も受験する大学の名前を出したらちょっと目を輝かせていた。
受かるかどうかもわからないのに。
――橘ならきっと受かるだろうけれど。
「それで、コーヒー?」
ミニテーブルに置かれたマグカップに視線を落とす。
「うん。お母さんがこっそり持って行きなさいって」
「おじさんは?」
「今、トイレ。朝、いつも長いから。タブレット持ち込んで。――あ、そうだその間にトーストも持ってくるんだった。――ちょっと待っていてね」
「――制服もできたらよろしく」
咲良は体を僕から遠ざける。「分かった」と頷く。
背を向けると、部屋の扉を開いて、出ていった。慎重に扉を閉めて。
壁掛け時計を見る。
短針は既に七時を回っていた。
僕はもう一度、スマートフォンを手に取った。
LINEアプリを立ち上げて、名前を見つける。
呼び出しのアイコンをタップした。
いつもの音が何度か鳴って、目的の人物が電話口に現れた。
『――もしもし。おはよう、どうしたの?』
「あ、彼方。――ごめん朝早くから」
『うん、まぁ、全然いいけど。朝から音声通話なんて珍しいなって。――電話してくれるのは
電話越しに朝から少し高めのにこやかな声。
彼方が女性ホルモンを打って、性転換手術をしたのは、声変わりしてからだった。
だからそれから努力して彼方は、女声を作っている。
もうそれが自然だし、それが人工的なものだなんて、誰も思っていないけれど。
「――あのさあ、彼方。――あんまり時間が無いから、用件だけ伝えたいんだけどさ」
『何? まぁ、登校前の朝だし、時間が無いのはお互い様だと思うけれど、……そういう意味でもないみたいだね』
「まぁ、そういうこと」
『――つまり、誠大は今、――自分の家にいないんだ?』
びくっとする。いつも勘が鋭い彼方だけど、今日はまた鋭すぎる。
見た目は優しくて、どちらかと言うと抜けているようにさえ見えるのに。
「どうしてわかった?」
『図星? まぁ、単純に、環境音が違うっていうか、絵里奈ちゃんがいる感じがしないし、家の中にいる時と、誠大の声の張りが違うっていうか――そんな感じ』
どれだけ僕のことを理解しているのだろう、彼方は。
やっぱり唯一無二の親友。友人関係の中でダントツの理解者だと思う。
『それで、――どこに居るの?』
「――咲良の家だ」
『……
「なんでそうなる?」
『だって恋人
「それは、――そうだけどな」
実際それはその通りで、昨夜だって、だから別れの言葉を告げるつもりだった。
それが流されてしまって、朝に至ってしまうわけだけど。
だからこそ彼方に頼まざるをえないのだ。
こんな不甲斐ない現実を、伊織に知られたくないから。
『それで、――用件って何かな?』
「ああ、……絵里奈にお前の家に泊まったって言っちゃってさ。悪いんだけど、口裏を合わせて欲しいなって」
『なるほどね。まぁ、そんなことじゃないかなって思ったけれど。――絵里奈ちゃんに対してだけでいいの?』
まるで裏側を見透かしたみたいな確認。
「いや、――全面的に。――学校でも頼む」
『たとえば、橘くんに対して、――とかも?』
「――そうだな」
『つまり、伊織ちゃんに対しても――だね?』
その言葉はどこか怜悧な刃物のようだった。
「ああ、そうだ」
僕の気のせいかもしれないけれど。
しばらくの沈黙が流れる。
思考時間の末に、スピーカーから彼方の柔らかな声が聞こえた。
『分かったよ。了解。――昨夜、予備校の帰りに、誠大くんは僕の家に立ち寄って、そのまま話が盛り上がって、ついつい長居している間に寝ちゃった。――こんなところでいいのかな?』
「バッチリだ。ありがとう。助かる」
彼方が口にしたのは、僕が絵里奈にした言い訳とほとんど同じものだった。
相変わらずの要領の良さと、頭の良さだ。
僕の思考パターンも熟知しているというのもあるだろう。
だけど今日の彼方は、それで終わらなかった。
『――ねぇ、誠大くん。口裏を合わせるのはいいんだけどさ。――代わりに僕のお願を聞いてくれないかな? それと交換条件でってことで、いいよ』
ただ施しを提供する聖人ではなかった。
「なんだ? 内容によるけど、まぁ、今の状況だと十中八九、僕が飲まざるをえないと思うけれど。――難しくないやつを頼むぜ」
少しの警戒感を覚えながら返す。彼方にしては交換条件なんて珍しい。
とはいえいつも甘えてばかりでも良くないので、
『難しいお願いじゃないよ。単純なお願い。――今週の週末、僕とデートしてほしいなって』
「――え?」
一瞬、彼方が何を言っているのか分からなかった。
それは交換条件と言うには、あまりに他愛もないものだったから。
「デートって、……一緒に遊びに行くってことか?」
『うん、そうだよ。――駄目かな?』
電話越しに彼方は科を作るみたいな声を出した。
デートというと表現はアレだけれど、結局は二人で遊びにいくということだ。
確かに咲良と付き合いだしてから、彼方と遊びに行ったりはしていない気はする。
だけど、それは僕にとって、なんてことはない普通のことだった。
「いや、全然いいけど。逆にそれでいいの? って感じだけど」
『――やった! いいの。それで全然いいの。――じゃあ、約束だからね。口裏合わせは任せておいて』
「お、――おう」
何だか急に明るくなった電話口の声。
僕はどこか狐につままれたみたいな気分になる。
でも、それで口裏を合わせてもらえるなら、お安い注文である。
「じゃあ、よろしく。――また、後で学校で」
『うん、じゃあね。――伊東さんにもよろしく』
「あ、……おう」
咲良には口裏合わせのことを言うかどうか、決めていなかったけれど、それはまた後から考えようと思った。
本当の彼女としてなら隠す必要もないはずだから。
「誰に対して隠すのか?」――それが問題だった。
それに隠す行為が咲良に対して持ってしまう「意味」が問題だった。
スマートフォンを鞄に一旦しまうと、服を最後まで着て咲良が戻ってくるのを待った。
やがて咲良はトーストと、制服一式を持って戻ってきた。
「――お待たせ。遅くなってごめんね。――待った?」
「全然。ありがとう。美味しく頂いているよ」
コーヒーの入ったマグカップを掲げて見せると、咲良は微笑んでトーストの乗ったお皿を机の上に、制服を椅子の上に置いた。
それから彼女は僕の肩に両手を置いて、キスをした。
*
「――なんとか、バレずに出られて良かったね」
「本当はバレていて、お目溢しを頂いているとかっていう可能性も考えると胃が痛いよ」
「うちのお父さんに限って、そういう回りくどいことはしないよ。気づいていたら絶対に呼び止められているから」
「――それはそれで恐いな」
「あはは」
JR山科駅で琵琶湖線のホームに立って東からの電車を待つ。
滑り込んできた新快速に乗って一駅、JR京都駅に到着する。
西口の改札を抜けると、僕らは歩いて学校へ向かった。
「――二人で登校するって久しぶりだね。――二学期以来?」
「かもしれないな」
その間、橘と登校していたんだろ? と嫉妬めいた感情が湧いた。
だけど僕だって伊織と登校していたから人のことは言えない。
バスの中から咲良と橘が一緒に歩いているのを見かけた朝のことを思い出す。
そこでふと自分たちも見られているかもしれないな、と思う。
隣を見る。咲良はいつもと変わらない笑顔で隣を歩く。
恋人
だから「ちょっと、校門まで別々に歩かないか?」なんて言いだせなかった。
恋人
それにもし見つかっても、偶然、京都駅で一緒になったと言えばいいのだ。
「――どうかした?」
「ううん、何でもないよ」
そんな思考が漏れたのか、首を傾げた咲良に僕は首を振って返した。
八条通りを西に抜けて、駅前のイオンモールKYOTOを抜ける。
徐々に同じ制服を着た生徒たちの姿が増えてくる。
やがて僕らは自分たちの学校へとたどり着いた。
学校の敷地まであと十メートル。
そこまで来て僕は、足を止めた。
校門の脇に立つ少女の存在に気づいたからだ。
ボブヘアの彼女が、僕らを見つける。
少し冷たい一陣の風が吹き抜ける。
髪を軽く押さえると、その少女はゆっくりと近づいてきた。
「――おはよう、誠大。――今日は、咲良ちゃんと一緒に登校なんだね? ――宮下くんとじゃなくて」
僕の幼馴染――南伊織は、そう言って朗らかな笑みを浮かべた。
――――――――――――――――
(あとがき)
今日もお読みいただきありがとうございます!
とりあえず今回は中一日で更新することができました。
二日に一回更新くらいのペースが作れたらいいなぁ、なんて思っています。
ぜひ応援(☆☆☆評価)&フォローいただいた上で、
――また続きを読んでもらえたら嬉しいです!
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