第Ⅲ部 AMBIVALENCE(1/19-???)
第52話 恋人と迎える朝と捏造する嘘(伊東家・咲良自室)
1月19日、木曜日。
咲良の部屋のベッドで、目覚めた。
隣には僕の本当の彼女がいる。生まれたままの姿で。
掛け布団を持ち上げて、上半身を少し起こす。
ブラジャーすら着けていない上半身。二つの膨らみが揺れる。
咲良は優しい微笑を浮かべた。
「おはよう。誠大くん。――寝顔、見ちゃった」
「――寝ちゃったのか。――もう、朝?」
「そうだよ。まだ7時前だけど。もう、朝、かな」
僕は混乱した頭で、記憶を手繰り寄せる。
幸せそうに微笑む彼女の顔を不思議な気持ちで見上げながら、
どうして僕は今日、咲良の部屋で泊まっているんだっけ?
少しずつ昨日の出来事が、映画の巻き戻し再生みたいに浮かんでいく。
やがて想起する映像は、昨日の朝、立ち寄った南家の玄関まで到達した。
そこで、僕は背筋に冷たいものが駆け上がるのを感じた。
朝の寒い風に肩を窄めながら、僕を見上げた伊織の表情を思い出して。
僕は約束したのだ。伊織に。咲良と昨日、別れてくると。
それなのに僕は、こうやって裸で彼女のベッドの上にいる。
やおら僕の頬に少しひんやりとした手が触れた。
「――うふふ。なんだか久しぶりだね。――こうやって二人で朝を迎えるのって」
「久しぶりって言うほど、経験していないことだとおもうけどね」
「そうだっけ?」
「――そうだよ」
そもそも咲良の両親の手前、彼らがいる家で彼女とセックスをするのは憚られた。
昨夜みたいにお母さんがいる状態で、エッチをすることも稀だ。
――ゼロではないのだけれど。
去年の夏休み、両親が不在の間に、こっそり泊まったことがある。
ベッドから少しだけ上体を起こし部屋の床に敷かれたカーペットへ視線を落とす。
彼女のパーカーや下着、僕が着ていたスウェットなんかが散乱している。
それらは、僕ら二人が事後であることをあからさまに物語っていた。
昨夜、咲良がお鍋のお汁をこぼしてしまって、制服を濡らした僕はシャワーを浴びさせてもらった。それからスウェットを借りて、咲良の部屋で彼女を待ったのだ。
同じくシャワーを浴びた彼女が出てきて、僕らはようやく二人の会話を始めた。僕は篠崎との写真のことを詰め寄られて、そして僕は橘とのことを問い詰めた。それを通して、お互いがお互いの愛情を、――執着を確認したのだ。
本当は別れ話を切り出すはずだった。
だけど気づけば僕は流されていた。
咲良があまりに蠱惑的だったから。
咲良はやっぱり僕の彼女だった。
――別れるのはそんな簡単な話ではない。
そう改めて気付かされた。――もっと真剣に向き合うべきだって。
「――どうする? 今日は学校いくよね?」
少し気恥ずかしそうに、咲良が小首を傾げる。
ほんのりと顔を赤らめた彼女は、まるで初夜を迎えた新婦のようだ。
「――さすがにここで二人でサボりっていうのもなぁ。……攻めすぎだろ? 橘にさえ怪しまれるよ。――恋人
冗談っぽく言うと、咲良は声を殺して笑った。
それから、僕の頬に顔を寄せてきた。
「そんなゲームをしていても誠大くんの本当の彼女は、私なのにね。――変ね」
「――そうだな」
咲良は僕の肩に顎を乗せると、頬にキスをした。
そして右手を太腿に這わせると、僕の股間にそっと触れた。
「――朝から、おっきくなってない?」
「これは生理現象だよ。朝立ち。男ならみんなそう」
「そっか。朝から私のことを欲しくなってくれているのかな? って思ったのに」
「――そりゃあ、欲しいけど」
彼女が僕の背中に腕を両腕を回す。
正面に上半身を動かした彼女が唇をそっと突き出す。
それを避けることもできず、僕はその唇に口吻をした。
柔らかな感触。嬉しそうに細められる目。
伊織に咎められた気がして、少しだけ胸が傷んだ。
「――でも、朝からはやめておくよ」
「お父さんも帰ってきていると思うし、聞かれたら大変だよね」
「え? あ、そっか。お父さん、いるんだ」
「そりゃそうだよ。平日の晩はちゃんと帰ってくるよ。お父さん」
ちょっと肝が冷える。
「――あれ? 誠大くん、もしかしてお父さんのこと恐い?」
「そりゃそうだよ。男子にとって彼女の父親は恐ろしい存在だよ、普通」
高校生が勝手に泊まり込んでで婚前交渉をしてたら、普通、殴られる気がする。
ちなみに、その後、彼女を捨てたりしたら、それこそ殺される気がする。
咲良の父親にはちょっと恐いイメージがあった。
今年だって初詣の後、立ち寄った喫茶店からふね屋珈琲での集まりが解散になったのは、咲良の父親からの電話だったのだ。
午前3時頃に「いい加減にしろ」と電話をかけてくる程度には娘思いの父親なのだ。――忘れられているかもしれないが、2023年は僕らにとって「伊東咲良の父親からの怒られスタート」なのだ。
その父親が今はリビングにいるのかもしれない。
もし遭遇したら「一生、娘さんを大切にします。お父さん!」くらい言わないと、許してもらえない気がする。――いや、それも許してもらえるかどうかは、わからない。それはそれでプロポーズだから、別途「許さん!」案件だ。
「でも、きっとお父さんは誠大くんのこと気にいると思うよ? 誠大くんはしっかりしているし、優しいし、将来有望だし、イケメンだし」
「――そうかなぁ」
「そうだよ」
もし僕が「しっかり」していたなら、昨夜、きちんと咲良に自分の思いを伝えて、今、こうしていない気がするんだ。あと大して「イケメン」ではない。
それからふと思った。しっかりしていて、優しくて、将来有望で、イケメン、――すべて橘遥輝にも当てはまる言葉だな、と。
あいつが一般論として優しいかどうかは微妙だけど、周囲の女子たちに対しては間違いなく優しい。
「でも、お父さんに挨拶するにしても、――ちょっとこの流れはきついよね?」
「そっか、――うん。だよね。――じゃあ、今日はこっそり出ていく? こっそり廊下を抜けたら誤魔化せる気もするけど。――それかお父さんが家を出るのを待ってから学校に行く?」
「お父さんは何時頃に家を出るの?」
「うーん、……八時半くらいかな?」
意外とゆったりとした出勤だった。重役出勤というやつだろうか。
「ちなみに伊東家から学校に行くの、何時くらいに出れば間に合うんだっけ?」
「8時くらいかな? 山科駅から京都駅まで一駅だし。それでホームルームには間に合うよ」
「じゃあ、お父さんが出るのを待っていたら二人揃って遅刻かぁ〜。――仲良く一緒に遅刻して登校したら相当怪しいよね?」
「――だね。困ったね」
ベッドの上で膝を抱えて伊織は、首を傾げた。
全然困ってなさそうだった。
やがて彼女はベッドから両足を下ろして立ちあがる。
本当に上半身から下半身まで一糸まとわぬ姿。
彼女は、床に落ちた下着を拾う。
ベッドサイドにあったボックスからウェッティッシュを引き抜くと、自分の股間に押し当てて何度か拭った。新しいウェットティッシュを三枚ほど引き抜くと、僕へと「はい」と手渡した。「ありがとう」と受け取る。僕も布団の中の自分の股間周りを中心に拭った。
「じゃあ、バレないように、お父さんより先に出る?」
「――できたら」
ちょっとリスキーな気もするけれど、なんとかなる気がした。
「――でももしお母さんがお父さんに喋っちゃってたら、アウトだけどね」
「そりゃそうだ。……話しているかな? おばさん」
「うーん。お母さん、そういうところ、私の味方っていうか、感覚が若いっていうか、そういうとこあるから、話さずにいてくれている気がするかな」
長くて黒い髪の毛をかき上げると、咲良は拾い上げたショーツを足に通した。
白いブラキャミソールを足から持ち上げると、肩紐に腕を通した。
「とりあえずそれで行こっか? 私、じゃあ、先に様子見てきたらいい? 普通に朝起きたよ〜、って感じで」
「――頼めるかな?」
彼女は昨夜着ていた白いパーカーを羽織ってから、「わかった」と頷いた。
最後にスウェットに足を通す。
「他に欲しいものとかある? ――あ、朝ごはん。パンくらい持ってこようか?」
「――怪しまれなければ。まぁ、行きに駅前のコンビニで、パンとかウィダーinゼリーとか買ってもいいし、無理のない範囲でよろしく。――あ、あと、洗濯した制服だけは、上手くもらってきてくれると助かる」
「うん、わかった」
彼女は最後に髪の毛を払って手櫛を通すと、「じゃあ、ちょっと行ってくる」と言って、部屋の扉をそっと開けた。
*
部屋に一人になった僕は、ようやく心を落ち着けて思考を巡らせ始める。
昨夜は咲良の誘惑い負けた。自分に負けた。
自分の中の咲良の存在の大きさにも気付かされた。
だけど伊織に約束したのだ。咲良と別れて伊織とつきあうと。
そこまで考えて、ふと忘れていたことを思い出す。
――今日から伊織が学校に復帰する。
昨日から体調が急変などしていなければ。
――伊織は僕を迎えに来る。
そしてスワップ恋人として、
――僕のいない僕の家へと。
それはヤバい気がする。
別れ話をすると言ったのに、こうやって咲良と体を重ねてしまった。
それがそのまま伊織に知られてしまうことは、避けたい。
混乱した頭を高速回転させて、対応策を考える。
僕はスマートフォンを手に取ると、LINEアプリを立ち上げた。
画面をスワイプして、伊織のアカウントを選択する。
受話器のアイコンをタップして、音声通話を開始した。
トゥルルルル、トゥルルルル――。
何度も呼び出し音が鳴る。だけど伊織は電話を取らなかった。
まだ家を出ている時間じゃないとは思うけれど。
鞄の中にスマートフォンを入れっぱなしなのかもしれない。
そこまで考えて、――思い出した。
伊織は今、スマートフォンを学校のロッカーに置きっぱなしなのだ。
――おいおい、それじゃあ、家に来るのを止められないじゃないか。
南家の実家に電話することも考えたけれど、そはあまりに
むしろ怪しさがすごい。ここ数年間、南家の宅電になんかかけていない。
それが急に朝、僕からかけるなんて、どんな緊急事態だと言うのだ。
勘の良い遙香さんなんかに気づかれて、傷口が広がるおそれさえある。
仕方ないから、僕は別のアカウントを呼び出した。
『はい。もしもし、お兄ちゃん?』
「――あ、絵里奈か。――おはよう、今、大丈夫?」
数回のコール音の後、電話口に妹が現れた。
『大丈夫って。大丈夫だけど、お兄ちゃん今どこなの? 昨日帰って来なかったじゃない。心配したんだよ〜、これでも一応』
「ごめんごめん。ちょっと、友達の家に急に泊まってしまって――」
言い訳を考えていなかった。
だから、とっさに半分本当のことを言ってしまった。
まぁ、それ以外に、言い訳の候補も思いつかなかったのだけど。
ただ「咲良の家に泊まった」とは言えなかった。
高校生が彼女の家に泊まるのは、ちょっと異性交友の視点からどうかと思う。
それに絵里奈も、僕が伊織と付き合うことを期待しているのだ。
ずるずると咲良の体に溺れているような印象を与えることは避けたかった。
『――友達って? ――誰の家?』
「……絵里奈。お前、母親かよ」
『妹でも普通の反応だと思うよ? 無断で外泊するような高校生に育てた覚えはありません。――と、これはお母さんの代わりね。――とにかく私には、お母さんへの報告義務があるんだから』
電話口の絵里奈がまるで学級委員長みたいになっている。
でもまぁ、それはそれで正常な反応な気もする。
僕は脳を高速回転させて、なんとか辻褄が合うだろう言い訳を捏造する。
咲良の家に泊まったという説明はやっぱり避けたかった。
となると候補はおのずと絞られる。
言い訳に使っても問題のなさそうな、友達なんてほとんどいないのだ。
交友関係の狭い僕には、そんな都合の良い親友なんて、ほとんどいない。
――たった一人を除いては。
「――彼方だよ。昨日、予備校の後に、ちょっと用があって彼方の家に寄ったんだよ。そこでちょっと喋っている間に、盛り上がって夜中になって、気づいたら寝てしまったんだよ」
――悪い、彼方。
でもこうなったからには彼方に頼るしか仕方なかった。
『彼方って、……宮下さん? 中学の時から仲良かった? 中学の時、ボッチのお兄ちゃんを見捨てなかった、宮下さん?』
「――ああ、そうだよ、その彼方だよ」
『そっか。――うーん、なんか、怪しい気もするけど、了解。――そういうことにしといてあげる。お母さんには、ちゃんとそう伝えておくから、そこは心配しないでよね』
「ありがとう。――助かる」
電話口の絵里奈がどこまで真相に気づいているのかはわからなかった。
でも何を聞いてもやぶ蛇になりそうだから、確認はしなかった。
『じゃあ、それでいい? 私も朝だし、ご飯とかも食べなきゃだし。――切るね?』
「ああ。……あっ、ちょっと待って!」
『――何よ? お兄ちゃん?』
「あのさ。今日からまた伊織が迎えに来るかもしれないんだ。もし、伊織が来たら、彼方の家で寝落ちしちゃって直接学校に行くって伝えてくれないかな?」
電話口で一瞬、絵里奈が無言になる。
『――わかった。でも、お兄ちゃん、伊織お姉ちゃんの気持ちをあんまり軽く扱っちゃだめだよ? お姉ちゃんは、幼馴染だけど、保護者でもなんでもないんだから』
妹に説教されてしまった。正論でぐうの音も出ない。
「わかってるよ、お前に言われるまでもないよ。――じゃあな、よろしく」
そう言ってスマートフォンを耳から外す。
通話を切ろうとした時、スピーカーから妹の声が漏れてきた。
『――あれ? そう言えば、お兄ちゃん?』
呼び止めるその声に、僕はまたスマートフォンを左耳に戻した。
「どうした? 絵里奈?」
『うん、ちょっと確認だけどね。――宮下さんって、二年前に手術して、今は、女の人なんだよね?』
彼方と僕は中学時代からの付き合いだ。
完全に厭世的になっていた僕が唯一交友関係を維持した存在が――宮下彼方だ。
僕の家に来たこともある。そんなに頻度は多くないけれど。
僕ら中学3年生の時だから、絵里奈は中学1年生だった。
だから彼方が性別違和を覚えて学校で少し異質だった頃のことも知っている。
そして絵里奈は女性になってからの、彼方のことも知っているのだ。
もう女の子にしか見えなくて、心も女子として生きている彼方のことを。
「――そうだけど? ――それがどうかした?」
絵里奈は電話口でしばらく無言になった。
逡巡したであろう後に、彼女はこう言った。
『お兄ちゃん、彼女でもない女の子の家に泊まったの? 宮下さんって、お兄ちゃんんの何なの? ――だから、宮下さんの家にお兄ちゃんが泊まったって、――伊織お姉ちゃんに言って、本当に大丈夫なの?』
思いがけない指摘に、僕の思考は硬直する。
そんなこと、考えたこともなかったから。
その時、扉のノブが小さな音を立てて回転し、扉が開いた。
僕はスマートフォンを耳に当てたまま、振り返る。
そこにはマグカップを両手に持った咲良が立っていた。
少し大きめに目を開いて。
その顔に笑顔を貼り付けて。
「――誠大くん。――誰と、電話……しているの?」
彼女は小さく首を傾げた。
――――――――――――――――
(あとがき)
今日もお読みいただきありがとうございます!
お待たせしました。第Ⅲ部
これからは不定期連載(できるだけ週三回くらい更新できるといいな)、で進めて行きたいと思います。
「主人公、……伊織にどう言い訳するねん?」
「咲良、……どこまで分かっているの?」
「伊織が可哀想ちゃう? 主人公、クズやな」
「彼方って実際、どの程度『女性化』しているんですかね?」
などなど思われる方は、ぜひ応援(☆☆☆評価)&フォローいただいた上で、
――また続きを読んでもらえたら嬉しいです!
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