第44話 至近距離の彼女と不確かな約束(南家・伊織自室)[2023/1/17 Tue]

 伊織の部屋。ベッドの端に並んで座る。

 幼馴染の膝の上に置いた手のひら。その下に、彼女の手の温もりがある。

 

「……嘘」

「嘘じゃないよ」


 冗談を咎めるような目で覗き込まれる。

 思い切って言った告白だけど、その言葉も信じてもらえるとは限らないのだ。


 僕は「嘘、冗談だよ」と日和ってしまいそうな気持ちを堪えた。

 ここは引いてはいけないところなのだ。


「――えっと。、って……どういうこと?」


 伊織はちょっと困ったような表情で、僕を見つめる。

 でも僕に握られた両手を、引っ込めようとはしなかった。

 寄せた身体。肩と肩がぶつかって、彼女の吐息が頬に掛かる。言葉と共に。


「そこ? ――まぁ、幼馴染だし。高校二年生にもなってって思うじゃん?」

「それはそうだけど。だから――どうして、告白なの? ――ごめん頭がついていかなくて」


 彼女は視線を逸らした。

 拒絶するわけでもなく。

 受け入れるわけでもなく。


「――嫌? ――僕と、彼氏と彼女を続けるのは?」

「嫌じゃ、……嫌じゃないけれど。現に、恋人交換スワップで彼氏と彼女をやってるわけだし。今も別に、嫌とか感じたこと、ないし」

「――好きって感じたことは?」

「バカ――」


 伊織は膝の上の手を引き抜くと、僕の脇腹を強く押した。

 特に抵抗せず、その力積を受け止めた僕は、思わずベッドの上に倒れる。

 横向けに。バタリと。

 伊織の匂いのする掛け布団が、なんだか心地よかった。


「誠大、なんだか急に積極的だし。――変! 人が病み上がりだからって、からかっているんじゃない?」

「なんだよ、その論理。――そんなこと無いって」

「じゃあ、なんで? なんで今日なの? 今日、私に告白したの?」

「だって――」


 寝転がったまま伊織を見上げる。

 ベッドで仰向けになった僕を、彼女が覗き込む。


「――ねぇ、どうして?」


 僕が返事をせずに天井を眺めていると、視界に伊織の顔が現れた。

 髪の毛がはらりと下りて、彼女の表情をどこか物憂げにする。

 僕の腋の横に、彼女は手を突いた。

 その視線は僕の胸元に落ちている。


「――心配だったんだ。伊織のこと。水曜日の花京院との事件があって、木曜日の朝にもあんなことがあって。……伊織が傷ついたと思った」

「――傷ついたよ? ――それは本当だよ?」

「分かってる。それもよく分かってる」


 彼女の視線が揺れる。

 その肌は優しい色をしている。


「それで伊織が、学校に来なくなったからさ。――先生もただ『体調不良だ』っていうし。怪しいし。――だから精神的なものだと思うじゃん」

「――思うかな? ――私、結構、タフだよ?」

「うるさいなぁ。知ってるよ。でも、思うんだよ。――思っちゃったんだよ」

「――うん。――ごめん」


 謝ることはない。

 伊織が謝ることなんて何もないんだ。


「LINEにも返事がないからさ。――心配したんだ。――だから土曜日にも来たんだけどさ。――遙香さんに門前払いされたし。――伊織が会いたくないって」

「――え? そうなの? 土曜日来てくれたの?」

「え? ――聞いてなかったの? 遙香さん、伊織に聞かなかったの?」

「――聞いてないけど? でも、まぁ、土曜日なら『念の為の隔離』中だったから、誰も部屋には入れないことにはしていたかな……? お姉ちゃん、そういう意味で、言ったのかも?」


 そうか。土曜日のことも。遙香さんの情報操作だったわけだ。

「僕に会いたくない」のではなくて、コロナの疑いがあるから一般論として「誰とも会うつもりがない」ということだったのだろう。

 それをまるで、伊織が傷ついていて、僕と会いたく無いみたいに、僕が受け取るように遙香さんに、誤誘導された?

 本当に、僕はどこまで、遙香さんに操られていたのだろう? 意のままに。


「――でも、無事でよかった。――伊織が元気になって良かった」

「まだ、病み上がりだけどね」


 覆いかぶさるようにして、僕の顔を覗き込む、幼馴染。

 その口元が緩んだ。微笑みが、溢れる。


 僕は両腕を持ち上げて、その背中に回す。

 そして強く、彼女のからだを、引き寄せた。


「――きゃっ! ちょっと誠大! なにっ? 急に!」


 彼女の顔がベッドの上に落ちる。仰向きに倒れる僕の横に。

 彼女の胸の膨らみが、僕の胸の上で柔らかく崩れる。

 僕は黙って、彼女の身体を抱きしめた。


「――誠大。――ちょっと、誠大。――お姉ちゃん来ちゃうよ」

「――いや、来ないよ」


 伊織が腕の中で、じたばたと抵抗を示す。

 でもそれは本気の力じゃない。長い付き合いの僕にはわかる。

 抵抗している振り程度だ。

 だから彼女を抱きしめ続けた。

 その肋骨の広がりを、腕の中で確かめながら。


 やがて伊織は、暴れるのをやめて、その両腕を僕の顔の両側へと伸ばした。

 その指先が、僕の頭部に触れる。

 彼女の唇は僕の右耳の直ぐそばにあった。


「――ねぇ、――誠大」


 囁くような声が、僕の鼓膜を揺らす。

 吐息が頬に掛かった。


「なに? 伊織?」

「――本当に誠大は、――私と付き合いたいの?」

「うん。本当だよ。やっぱり伊織がいいんだ。僕は伊織がいいみたいだ」

「ドッキリじゃなくて?」

「ドッキリじゃなくて」


 ――ていうかドッキリって何だよ。


「恋人交換スワップをしてるうちに、『なんだかその気になっちゃった!』みたいな話じゃなくて?」

「――そういう話でもなくて」

「うーん、でもそれは否定できないんじゃない? だって明らかに、恋人交換スワップになってからのことじゃん。恋人交換スワップになってからたった二週間で変わっちゃうなんて。――麻疹はしかみたいじゃん」


 確かに「恋は麻疹のようなもの」だ。そういう言葉もある。

 イギリスの劇作家、ダグラス・ジェラルドの言葉だ。

 でもそれを今言うと、あまり良くなさそうなので、口にするのは控えた。


「それまでは橘がいたしな。――橘と付き合っている伊織には誰も近づけないよ」

「――そう? ――そこまでのものではないでしょ?」


 ベッドの上で横を向く。すぐ目の前に伊織の顔があった。

 僕らは一つのベッドの上で並んで寝そべっている。

 

「伊織にはわからないかもだけどさ。橘遥輝っていうのはそれなりの存在なんだよ」

「――ふ〜ん」


 男同士の人間関係は、女同士や異性間の人間関係とはまた違う。

 いつまで経っても雄は幼稚で、上下関係みたいなものが幅を効かせる。

 その上、橘は女子にもモテるから、女性陣による包囲網、もしくは防衛ラインもあるわけだ。

 そんな中で、お姫様の玉座に座るのが、伊織だったというわけだ。

 だから僕は学校じゃ伊織に、そんな自由に喋りかけられなかった。

 恋人交換スワップが始まるまでは。

 もちろん中学時代の負い目もあったわけだけれど。


「――それで伊織はどう? ――やっぱりまだ橘のことが好き?」


 すぐ目の前にある褐色の瞳を見つめる。

 少しの時間、目を閉じた後、ゆっくりとその唇が動いた。


「――わかんない。――恋人交換スワップのことで、ちょっと遥輝のこと、わからなくなった。――咲良ちゃんとよろしくしている感じなのも、なんだか癪だし。……でも、そうやって癪に感じているっていうこと自体、自分がまだ遥輝のことを好きな証拠なのかな? なんて――そういう風にも思っちゃうの」


 その頬に掛かった髪の毛を、僕は左手の中指で掬い、彼女の耳に掛けた。

 幼馴染の丸くて形の良い頭を、そっと撫でる。


「――橘と僕を並べて、――僕を選んでもらうってことは、――できる?」


 危険な問いを投げかける。尋ねながら僕の胸は緊張で高鳴っていた。

 もしここで否定されたら、僕はただこの部屋から去るしかないのだろう。


「――わかんない。だって急なんだもん。――そんなこと考えたこともなかったし」

「じゃあ、考えて。――答えは、急がないから」

「――うん」


 頷くと伊織は、そっと瞼を閉じた。

 

 ――本当のことを言えば、早く答えを教えて欲しい。

 その答えのことを思って、幾度も夜を過ごさないといけないのは辛い。

 だけど、僕には彼女を急かす権利なんてないのだ。


「――ねぇ。――咲良ちゃんは、どうするの?」


 彼女がまた目を開く。

 僕を見つめている。

 口調は優しかったが、その目は真剣だった。

 ――瞳は一切笑っていなかった。


「咲良ちゃんには言ったの? 誠大? ――別れようって」

「――いや。……まだ言ってない」

「そうなんだ。……言うの? 別れようって?」

「それは、……もちろん」


 今更だけど、そのことをちゃんと考えられていなかった自分に気づく。

 ただ伊織のことが心配で、伊織のことを抱きしめたくて、今、ベッドの上にいる。


「――私、誠大のこと嫌いじゃないけど、――咲良ちゃんとも友達だから。悪いよ」


 僕の幼馴染はそう言って、頭を敷布団の中に埋めた。


「私、嫌だからね。遥輝に恋人交換スワップで振り回されて、今度は誠大に二股をかけられるとか。――私は、そういうんじゃ、ないから」

「――わかってるよ。――ちゃんと言う。――ちゃんとするから」

「……本当だよ?」

「――だから伊織も。――僕がそうできたら、伊織も橘と……」


 伊織は伏せていた顔をまたこちらに向けると、悪戯っぽく笑った。


「――それは、その時に決めるね。誠大がちゃんと咲良ちゃんと別れられたら、それから」


 それは表面だけをなぞれば無責任な言葉だった。

 だけど彼女の表情は告げる。その意味が前向きなYESなのだと。

 だから僕は彼女の頭に左手を添える。

 額を近づける。おでこが触れ合う。


「ねぇ、誠大。――もう熱は下がっているでしょ?」

「――そうみたいだね」


 僕はそのまま彼女の唇に、自分の唇を近づけていく。

 ――約束のキスをするために。


 でも僕の口は、彼女の右手で押さえられた。

 ――僕のキスは拒絶された。


「だめ。まだ風邪のウィルスが残っているかもだし。コロナの可能性だってゼロじゃないんだからね。……誠大に感染るとだめだから」

「――そっか。――そうだよな」


 僕は手を離し、ベッドの上で少しだけ距離を取る。


「だからまた、ちゃんと回復出来てからね。――ちゃんと、――できてから」

「――そうだな」


 それから僕らは何も言わずに見つめ合った。

 一つのベッドの上で。微かにお互いの体温を感じながら。


 言葉には出来なかったけれど、伊織は最後に言おうとしたのだ。


『――咲良ちゃんと、ちゃんと、サヨナラできてから』



 *



 暗くなってから自宅に戻った僕は、自室の椅子に座ってLINEを開く。

 無造作に画面をタップしていく。メッセージを打ち込んだ。

 こういう時、ある程度の思い切りは必要なのだ。

 それが人生を大きく変えてしまう、大きな決断だったとしても。


【誠大】

〉明日の放課後、会えないかな? ちょっと話したいことがあって。


【さくら】

〉どうしたの? 

〉うん、わかった。予定はないから、大丈夫だと思う。


【誠大】

〉じゃあ、放課後、Aクラスまで迎えに行くよ。


【さくら】

〉うん。了解です。

〉あ。一応、橘くんに確認しておくね。スワップだけど、彼氏だし。

〉楽しみにしているね。


【誠大】

〉じゃあ、おやすみ。


【さくら】

〉おやすみなさい。


 僕はスマートフォンの画面を消して、充電器に繋ぐ。

 告げられた咲良からの「楽しみにしているね」の一言に、胸が傷んだ。

 だけどもう、後には退けない。



 ――明日、僕は、伊東咲良と――する。





 




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