第29話 崩れた倫理と溢れた涙(学校・教室)[2023/1/11 Wed]
――俺たちは恋人を――
橘が傲然と言い放ったその言葉に、教室は静まり返る。
誰一人、すぐさまにその言葉の意味を理解できる者なんていなかった。
当然だろう。そんな非常識。
女性はモノじゃない。男性だってモノじゃない。
交換なんて出来るものじゃない。商品とは違う。
経済学では交換を、自分が必要以上に所有している財や、他人に使用させるために生産した財やサービスを他人のそれらと等価で取り替えることをいう。
例えば漁師が獲った魚の肉を、猟師が獲った獣の肉と交換すること。
塾講師が知識を与えることで得たお金で風俗で使うことで性的充足を得る。
この時に高尚な学問の営みは、性的な営みと交換される。
――それが交換だ。
僕と橘は、咲良と伊織を交換した。咲良と伊織は、僕と橘を交換した。
魚の肉と獣の肉を交換するみたいに。
「――意味がわかんないんだけど? ねぇ、どういうこと? 橘くん、何を言っているの? 恋人を
教室で常識人としての反応を、一番に見せたのは花京院眞姫那だった。
結局、この中で普通だったのは、黒船の彼女だったのかもしれない。
「……なんで、……言うのよ」
伊織は俯いた。自分の椅子に座ったまま。唇を噛み締めて。
「――恋人
ようやく花京院眞姫那がありえない
それはありえないほど非常識で、ありえないほど非倫理的な行為。
僕も当然そう思っていた。――あの除夜の鐘の音がなるまでは。
橘遥輝に唆されて、倫理観の崩壊した新年が始まる、令和五年までは。
「ああ、そうさ。だから今、伊織は川原の彼女なんだ。――だからその写真から眞姫那が想像するようなことがあったとしても、それは伊織の浮気じゃない。――川原の彼女として、別に変なことじゃないさ。もちろん、学校の体育館裏で恋人同士でハグをすることがふしだらで、清い交際をすべき高校生にあるまじき姿だって言うなら、責められるべきかもしれないけどな。――お嬢様?」
「――そ、そんなことは言わないわよ。私だって――」
橘に言い返そうとして、花京院は言葉を止めた。
そして恥ずかしそうに俯く。
自分が橘と付き合えたら、そういうことをしたい。
きっと、そう思ったのだろう。
彼女にとってきっと、そういう青春は憧れの対象なのだ。
でも高校に入学して、桜の季節にすぐ落ちた恋の相手は橘遥輝であった。
そのことが彼女の可能性全てを閉ざしてしまったのだと思う。
――だって、その隣にはいつも南伊織がいたから。
「じゃあ、もう伊織さんは、橘くんの彼女じゃないってこと? 私、もう伊織さんに遠慮しなくていいってこと?」
花京院の表情に笑顔が広がる。
栗毛の長い髪と吊り目で派手目な彼女。
興奮して過呼吸になった息を整えるみたいに胸に手を当てる。
その顔に広がるのは、色づいた果実みたいな、恋する少女の感情だった。
「――今まで、花京院、遠慮とかしていたか?」
「何よ、川原くん。モブは黙っていて」
「アッ、――ハイ」
一年生の時のことを、思い出していた。もう昔のことだけれど。
花京院が伊織に対して執拗に行っていた嫌がらせを。
二年生になって多少落ち着いたのは、彼女が大人になったからなのか。
橘を一旦諦めたからなのか。
それともクラスが別々になって機会が減っただけだったのか。
――いずれにせよ、とりあえずモブは黙ることにする。
「ねえ、橘くん、私、また橘くんのことを追いかけてもいいのかな?」
花京院眞姫那は橘に問いかける。
健気に。真剣に。情熱的に。
それは彼女の一途さであり、誠実さでもある。
彼女が伊織にやってきたことは、決して倫理的だとは言えない。
だけどこういうところを見ると、彼女の方がずっと道徳的な人間にも思えてくる。
恋人
――だけど彼女の見出した道は、すでに閉ざされているのだ。残念ながら。
「駄目じゃないかな? だって恋人
「――伊東咲良」
絞り出すように花京院眞姫那がその名前を口にする。
その言葉を唱えさせたのは、橘遥輝の誘導。
僕の彼女だった少女の名前は、花京院眞姫那の怨嗟の呪文に変わる。
「そう、今は咲良ちゃんが僕の恋人なんだ。――そういうことだから、引き続き仲良くしてよ。――眞姫那ちゃん」
屈託のない、善良な笑顔を、橘遥輝は彼女に向ける。イケメンな笑顔。
そんな微笑みを向けられたら、彼女は頷くしかなくなるのだろう。
「――ずるい。――ずるいわ。なんで、そんな急に乗り換えられるわけ? 咲良さんって! 伊織さんはまだ納得できますわ。ずっと中学校の時から付き合っていたから。でも咲良さんって、別に橘くんのことを好きな素振りも無かったわよね? 川原くんと付き合ってたのよね?」
「――ああ、そうだよ」
花京院が僕の両肩を激しく揺さぶったから、僕は頷いて肩の手を外した。
「それがなんで急に? そんなの聞いていない。まるで泥棒猫じゃない。私、全然、納得できないわ。――ねぇ、伊織さん? 伊織さんは納得できるの? ――こんなの無茶苦茶じゃない! 私は認めないわ!」
彼女は伊織の机の天板に両手を突くと、詰め寄った。
俯いたままの伊織の表情は額に垂れたボブヘアの髪で半分隠れている。
「――勝手なことばかり言って。まきなちゃん。あなたに私の何がわかるの?」
伊織が口を開く。ゆっくりと。いつもよりも低い声で。
「何って――わからないわよ。ずっと橘くんの隣にいた人の気持ちなんか。そんな恵まれた人の気持ちなんて!」
花京院はそれでもなお挑発するような言葉を投げかける。
いつもならそんな言葉を伊織は困ったような笑顔で受け流す。
だけど、今は――
「私だってわからないわよ!」
――悲痛な声を上げる。
クラス中の視線が彼女に集まる。その苦悶に。
「橘くんのお願いだから受け入れたの。恋人
伊織が僕の方を見る。縋るような目で。
僕は次の言葉を待った。
僕に向けた言葉は「――なんでもない」――出てこなかった。
「――伊織」
彼女の苦しみを取り除きたい。彼女を優しく包み込みたい。
そんな風に思う。
だけど僕にできるのは、ただ彼女の名前を呼ぶことだけだった。
「まきなちゃんも、みんなも、遥輝も、笑いたければ笑えばいいのよ! 私だって分からないんだから! 私だって別にやりたくてやってるんじゃないんだから、恋人
椅子が倒れる。大きな音が立つ。
両手を机の上に叩きつけるみたいに、僕の幼馴染は立ち上がった。
その頬に、一筋の涙が伝った。
彼女は唇を噛み締めている。彼女は瞼を閉じている。
頬を伝った水滴が、机の上にポタリと落ちた。
「――伊織さん」
花京院眞姫那が、驚いたような表情で、それを見つめる。
一年生のころから、これまで何度となく彼女は伊織に絡んできた。
あの手、この手で、僕の幼馴染を、橘から引き剥がそうとしてきた。
それでも伊織がこんな涙を見せたことはなかった。
「もう私は知らない! 本当に知らないんだから!」
伊織は机に突いていた手を離す。
制服の袖で、涙を溢れさせた両目を拭うと、早足で歩きだした。
僕を押しのけて。教室の外に向かって。
いつの間にかできていた人垣をかきわけて。
「――伊織っ!」
僕は立ち上がる。幼馴染の背中を追うために。
ずっと大切に思ってきた、大切な彼女のことを、一人にできなかった。
彼女を涙にくれさせたままにするなんて、できなかった。
それはこれまで橘がやってきた。でも橘にできないなら、――僕が。
「行くな、川原――」
それは低い声だった。橘の放ったその言葉。
僕の体は停止した。まるで金縛りにあったように。
決して大きな声じゃなかった。
むしろ僕にだけ聞こえるように言った言葉。
「――どうして?」
遠巻きに僕らを見る、ただの群衆たちに聞こえないように、僕も返す。
ちらりと人混みを見る。
その中に、スマホのカメラをこっちに向けている奴もいた。
むかむかした感情が腹の奥から湧く。顔は覚えた。後で潰す。
「今は俺とお前のどちらかが動くべきじゃない。――それはいかにもドラマチックなシーンをあいつらに印象付ける。――ここは
橘の瞳は真剣だった。
イケメンリア充は、この状況に至っても尚、全てを俯瞰していた。
「――だけど、伊織が。――あれを一人にしろって言うのか?」
「――ああそうだ。今、お前が伊織を追えば、この均衡は崩れ去る。――カタストロフィックな混乱が、来る」
目の前で取り残された花京院眞姫那が呆然と立ちすくんでいる。
彼女が自分で撒いた種だった。
ここまで伊織を追い詰めると思っていなかったのかもしれない。
「でも――」
「行くな、川原。――代わりに、俺も行かない」
橘の眼光が僕を射抜く。周りに聞こえないように囁かれた言葉。
体が座席にピン留めされたみたいに動かなくなる。
それは恋人
――
「――わかった」
橘を信じたわけじゃない。それでも僕はこの男の条件を飲むしかなかった。
伊織の心の強さを信じて。彼女と生きてきた半生と同じだけの時間を信じて。
やがて中心を失った空間で人垣は崩れていく。
いつもどおりの喧騒へ、僕らの教室は戻っていった。
言葉にできない後味の悪さを共有しながら。
――その日、伊織は授業が始まっても、最後まで教室に帰ってこなかった。
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