53 愛を持って触れること

           ・・・


『愛を持って触れること。それが一番、自分の存在をこの世に証明する方法である。

触れられた方もまた同様。愛情を身近に感じること、これ以上の存在の証明はない』


 ――九代目統治者・トサルフの言葉


           ・・・


「二人とも、こっち!」


 千夢が先導を切って走る。藍花と瞬は、彼女の姿をひたすら追っている。


「……千夢ちゃん、ごめんね。ありがとう、道案内してもらって……」


 藍花が言うと、千夢は首を振った。


「まだその例の塔を見つけられてないから、お礼はいらない。一番私がここら辺に詳しいから案内してるだけで、当たり前のことだし。……この道は真っすぐは行き止まりになってたはずだから、こっちの道から行くよ」


 千夢は軽い身のこなしで、細い木々の間の道を通っていく。ところどころに石が散乱しているが、それもしっかり避けつつ走るスピードは落とさない。瞬も同様に千夢に続く。一方、藍花は胸に手を当てながらしんどそうな表情をしている。走るスピードは徐々に遅くなっていき、遂に止まってしまった。


「はあ、はあ……」


「梨橋? 大丈夫か」


 真っ先に気づいた瞬が引き返してきて、心配そうに藍花の顔を覗き込む。千夢も足を止め「梨橋さんごめん、速かった?」と声を上げた。


「……ごめん、私の体力がないばっかりに」


「塔みたいな建物、もうあそこに見えるから、あと少しだと思うんだけど……梨橋さん立てる?」


 千夢が斜め奥を指差した。木々の間からは確かに細長い建物らしきものが見える。藍花はそれをぼんやり見上げると、その場にしゃがみ込んだ。


「あそこに見えるなら、私一人でも多分行ける……だから、二人は先に塔に行っててくれないかな」


「え……梨橋を置いて?」


 瞬は戸惑った声を上げた。藍花は額の汗を拭いながら頷く。


「一刻も早く、登と合流しなきゃいけないでしょ。だから、早く行ってほしい、お願い。ただでさえ、玲未のことで動揺して出発も遅れたのに」


「……蝦宇……まあ、確かに……」


 下唇を噛んだ瞬は、さっきの場面を思い出すかのように苦い表情をした。追い打ちをかけるように、藍花が胸の前で手を合わせる。


「登と玲未が心配なの。玲未……『入れ物』を使ってたってことは、何か事情があるってことでしょ。早く行かなきゃいけないって思うの……。とにかくお願い、先に行ってて。休憩した後ですぐに追いつくから」


 瞬はなおも心配そうな顔つきだったが、千夢が「久保木くん、行こう」と瞬の腕をガシリと掴む。瞬は顔を顰めた。


「痛てて……分かったよ。でも梨橋、何かあったらすぐに連絡しろよ」


「うん、ありがとう。ごめんね」


 そうして瞬と千夢は木々の間に消えていった。藍花は大きく息を吸い込み、空を見上げる。鉛みたいな色の雲が、どんより浮かんでいた。学校を出たときから空は雲で覆われていたが、さらに暗さが増している。


「……ちょっと走っただけで疲れちゃうとか、私、情けないな……」


 藍花は額に手を当て、大きくため息をついた。


「もう……何が起こってるのか、全然分からないよ……」


 苦悶の表情を浮かべ、彼女は唇を噛んだ。制服が汚れようとお構いなしに地面に尻をつけ、ゴツゴツした突起のある木に凭れかかる。


「それに、玲未……。どうして『入れ物』を使っていたの? 何か大きな病気とか、怪我でもしてるの? どうして教えてくれなかったの? 『入れ物』は製品として認められていないものだから、それを使ってるって言えなかったってこと? ……心配だよ、玲未……」


 心の内を声に出さないと、頭がおかしくなってしまうと思ったのかもしれない。藍花は全ての感情を出し切るように、言葉を唱え続けていた。


 そして、しばらくしたその時……。


 ドオン


 突然轟音がした。世界が崩れてしまうかというほどの音だった。辺り一面が真っ白になる。かと思ったら黒い闇も出現した。光と闇が共存している不思議な光景が広がる。


 地響きも酷い。強風に煽られた小さい何かの欠片が、雨のように降り注いでくる。


「っ……!」


 藍花は咄嗟に頭を抱え、体勢を低くした。しかし、灰色の煙が藍花の顔に纏わりつく。彼女はそれが目に入らないように、瞳を思いきり閉じた。


 しばらく藍花はその状態のまま固まっていた。この眩い光と砂嵐が収まるのをただ耐えて待っているようだ。


 やがて轟音と煙と地響きは小さくなっていった。光も収束する。しかし藍花は目を開けなかった。背中から、ゆっくりと動いていき……。


 ドサッという音とともに、彼女は地面に倒れ込んだ。


 額に脂汗が浮かんでおり、肩が激しく上下しながら呼吸をしている。たまに苦しげな声も口から漏れていた。


 木が、葉を藍花の上に容赦なく落とす。


 その光景の上で、鉛色の雲は静かに、太陽を隠していた。


           ・・・


 辺り一面真っ白な景色の中。一人横たわっていた藍花は、「う……」と呻き声を上げながらゆっくり起き上がった。


 彼女は辺りを見渡し、目を擦る。


「ここは……」


 すると、白煙の奥に、ゆらゆらと、誰かの姿が現れた。ひどく儚げで、触れたら消えてしまいそうな人影。幽霊のような、一見怖ろしい者にも見えるが、藍花は人影を認識するなり勢いよく立ち上がった。何かを思い出したかのように、唇をわなわなと震わせながら。


「桜っ!」


 藍花は霧の奥にいる、こげ茶髪で睫毛の長い少女のもとへ走る。一秒でも早く、といった風に、両手を前に伸ばしながら。


「そうだよ、桜だよっ。何で私、名前すらも思い出せなかったんだろ」


 走りながら、藍花の瞳に大粒の涙が浮かんだ。それは風に攫われ、横に流れていく。その雫は、白い靄の中に消えた。


「桜ぁっ、ごめんね。私、どうして……。あんなに一緒にいて、大切な友達を、どうして……」


 彼女は肩で息をしながら、全速力で人影の元に走った。その人影は、ふわふわの髪を揺らしながら、柔らかく微笑んでいる。髪の毛とともに、着慣れているようなセーラー服も揺れる。


「藍花……」


 人影――浅西桜の口が、ゆっくりと動いた。一つ一つの文字を噛み締めるように声を発している。


「私のこと、思い出してくれたんだね」


 風のような優しさと、鈴のような心地よさを兼ね備えた声だった。全てを大きく包み込むみたいな、そんな感じ。


 藍花は涙を落したまま、壊れた様相で首を縦に振り続ける。


「うん。ごめんね、本当にごめんね、桜。私……何でだろう。桜のこと、忘れてて、突然思い出して。そもそも、どうして忘れていたんだろう」


「それは……浅西桜という存在は、この世から抹消されていたからね」


「え……? 抹消……?」


 藍花が目を擦りながら桜を見つめる。瞳の奥がキュッと小さくなっている。桜は口元に手を当てて、愛おしそうに藍花を見つめ返した。


「何を驚いているのよ。藍花が、そういう可能性があるって言って、私に仮説を教えてくれたじゃない。禁断の術で、あの少女の存在は消されてしまったんじゃないかって」


「あ、そういえば……。ごめん、今私、混乱してて……。あれ、でも桜、何でそれを知ってるの? 桜は今までどこにいたの? 突然蘇ってきたの?」


「私は、ずっと藍花の側にいたよ。蝦宇玲未の姿を使って、ずっとね」


 辺りの霧が濃くなっていき、藍花と桜の不思議な空間がつくられる。その中で藍花はハッと息を飲んだ。


「……! え……桜が、玲未? あ、玲未、入れ物……千夢ちゃんから聞いたけど、え、でも、何で」


「ふふっ、藍花ったら動揺しすぎだよ。……ごめんね、あんまり時間はないみたいなんだ。藍花に、浅西桜の姿で会えてよかった。ありがとう藍花、一瞬でも私のことを思い出してくれて、嬉しかったよ」


 サアッと冷たい風が吹き抜ける。


 すると、桜の影がすっと薄くなった。もともと幽霊みたいにぼんやりしていた輪郭が、さらに濃霧に溶けていく。藍花は慌てたように空中に手を伸ばした。


「ちょ、ちょっと待って! どういうこと? 訳が分からない! どこに行くのっ、説明して!」


「……私も、どうして藍花に会えたのかはよく分からない。どうやら精神を浮遊させることができたから、っぽいけど……。もうそろそろタイムリミットみたいで」


 不意に、桜の顔がくしゃりと歪んだ。瞳がじわじわと赤く染まっていき、縁に大粒の涙が溜まっていく。あまり待たないうちにその涙は頬を伝い、地面に向かって落下していった。その雫は藍花の手の甲の位置へ落ちていったが、付着することなくすり抜けていった。


「藍花……姿が変わっても、ずっと友達でいてくれて、ありがとう」


「……桜?」


「玲未の姿のとき、きついこと言っちゃってごめんね。最後に会えてよかった」


「何……やめてよ。お別れの挨拶みたいなこと、言わないでよ! おかしいよ!」


 藍花が叫ぶ。その表情は、本当は何かを察したような感じだった。けれど受け入れたくなくて、必死に抗いたくて、勢いのまま叫んでいる。


「だって、お別れなんだもん……」


 桜の言葉は、喉から絞られる、細い糸のような声質だった。藍花の震えた言葉が、桜の感情をより一層加速させてしまったみたいだ。


「……藍花。私ね、トワに術……かけられちゃったの」


「トワ……? トワ様……? え?」


「さっき、トワが自爆した」


「……自爆……?」


「最後に、トワにまた術をかけられちゃったの。存在がなくなる術を。……せっかく、存在を取り戻しかけたんだけどね。どう足掻いても、私はこの世にはいらないみたい。トワは、自分自身を犠牲にしてでも私を消したいみたい。……私だけじゃない。私の大切な人も、消される……」


「……どういうこと? 私じゃ、意味不明で、よく分かんないけど……一つ絶対に言えるのは、桜はこの世に必要だよ! 私の友達! かけがえのない、親友……!」


 水の粒を空中に落としながら、藍花は半透明の桜の顔に自分の手を触れさせた。しかしその手は虚しく空気を掴み、桜を貫通する。それでも藍花は、桜の頬の位置にひたすら手を合わせた。


「桜、お願い、どこにも行かないで。消えないで。私の横にはずっと、桜がいてほしい。私は、桜も玲未も大好きだから!」


「……そう言ってくれてくれてありがとう。でもね、大丈夫だよ。私の存在は消えるから、私がいなくなるという悲しみさえ、存在しなくなるから。藍花が悲しむ必要はないから、安心して」


「嫌だってば!」


 藍花は幼い子供が駄々をこねるように叫び、全身を揺らす。


「桜がいないと、私の人生おかしいの。中学のとき、一番一緒にいたのは桜だよ。高校でだって、ずっと一緒にいたのは玲未なんだもん! 私の話をもっと聞いてほしい。桜の話も、いっぱい聞きたい。ねえ、昔恋バナとかしてたじゃん! あのね、私も好きな人できたの! 玲未にも言ってないから知らないよね? だから、また一緒にいっぱい話そう? ね?」


 きっと藍花自身も、こんなことを言ったって桜を引き止められるわけがないと分かっていたはずだ。無意味なことを言っていると自覚している表情だ。


 桜は涙を浮かべながらそっと微笑むだけ。藍花の腕を優しく掴むみたいに手を動かし、ますます透明になっていく顔を近づけた。


「……ありがとう、藍花。そして、ごめんね」


 桜の輪郭が、空気と曖昧になっていく。体の末端から徐々に消えていく。そして桜と藍花を、濃霧が隔てていった。


「待って、私、絶対に忘れない。忘れたくない! 桜っ、さくらぁ!」


 その叫びも虚しく、桜はかき消されていく。遂に顔まで消失しかかったとき、桜のピンク色の唇がそっと動いた。


「……ヌ・ムブリエ・パ」


「……え……?」


 桜の一言に、藍花は戸惑ったように息を吸い込む。しかし辺りはみるみるうちに白い光に包まれていき、桜の顔は見えなくなって――。


「桜、今、何て言ったの? 何? ねえ、桜ってば! さく……」


「――大丈夫だよ」


 突然、藍花を包み込むように声が響いた。桜の声ではない。そこまで低くはない男子の声だ。藍花はハッと目を見開く。


「……登?」


 もはや辺りはホワイトアウト状態で、藍花はふらつきながら辺りを見渡した。上下左右前後、何もかもがぐちゃぐちゃになってしまった世界に残された藍花は、それでも何かを手繰り寄せようと必死に手を伸ばす。


「登? どこ?」


 そう呼びかけるも、もう誰の声も聞こえなかった。


「え……? 登も、桜と同じ、そっちにいるの? 待って、何が大丈夫なのっ、お願い、説明して! 登っ、桜あっ!」


 藍花の声は、ただどこかに消えるように吸い込まれていくだけであった。


 そして辺りは光に包まれていき……。


           ・・・

「梨橋、梨橋!」


「梨橋さん! 聞こえる? 起きて!」


 瞬と千夢が、地面に倒れている藍花に必死で呼びかける。藍花は苦しそうな顔でずっと唸っていた。目は瞑っているが、瞳には涙が浮かんでいる。


 木々の奥の方では、塔が倒壊していく音が響いていた。


 藍花の涙を拭いてあげようと思ったのか、瞬がポケットからハンカチを取り出したそのときだった。突然、声とも言い難い呻きをあげて彼女が勢いよく体を起こした。肩で息をしながら、目を充血させている。


「梨橋っ、大丈夫か」


「梨橋さん!」


 瞬と千夢の声が重なった。藍花はハッとしたように体を震わせ、焦点を二人に向ける。手は、前方の空気を掴むような格好で固まっていた。


「……久保木くんと、千夢ちゃん……」


「大丈夫か。すごいうなされていたけど……」


「……あれ、私、どうして……」


「どうしたのかはこっちが訊きたい。いつ倒れた? 塔で爆発があったのは見たか?」


「……うん、見た……」


「俺ら、その爆発があったから、塔に近づけなかったんだよ。それで、梨橋も心配だし一旦戻ろうってなって戻ってみたら、梨橋倒れてて。何があったか、覚えてない?」


 藍花は自分の涙を袖に吸わせながら、強張っている口元を動かす。


「……何か、急に辺りが光に包まれて、それで……桜が」


 自分の言葉に自分でハッとしたのか、彼女は目を見開いた。さっきまで倒れていたとは思えないスピードで立ち上がる。


「桜……! 覚えてる。私、ちゃんと覚えてる! 忘れてなんかいない! 桜、桜、どこにいるの? 登もどこ?」


 そう言うと藍花は、塔に向かってまっしぐらに走った。調子の外れた息遣いをしながら、死に物狂いで。


「お、おい梨橋! 体調はもう大丈夫なのかっ」


「塔に近づくと危ないよ! まだ崩れ続けているみたいだし……」


 瞬と千夢は慌てて彼女の後を追う。けれど藍花の足は止まらない。体力的には限界みたいだが、彼女の気持ちが足を止めることを許していないようだ。


 塔の全貌が見えるところまで辿り着いた藍花は、砂煙をあげて倒壊していくその様子をまじまじと見つめた。壊れた機械みたいな動きだ。


「桜……登……どこ……」


「なあ梨橋、その『桜』っていうのは、一体……って、おい、あれ……!」


 瞬が突如叫び、ある一点を見つめた。ガラガラと崩れていく塔の間近に向かって一直線に駆けていく。明らかに危険な行為に、さすがの藍花も「く、久保木くん……?」と手を伸ばした。瞬は聞く耳を持たずに走り、目的の場所にしゃがみ込む。


「おい、登! 起きろ! しっかりしろっ!」


 倒壊の音があっても瞬の声が通る。その声を聞いた途端、反射のように千夢の顔が青白くなった。彼女も瞬のもとへ走っていく。もちろん藍花もついていった。


「目を開けろ! おいって!」


 瞬の声は止まらない。千夢と藍花が駆けつけると、そこには二人が重なるように横たわっていた。


 セーラー服の少女と、彼女を庇うように手を添えているブレザー姿の少年。二人とも真っ白い顔色で、ピクリとも動かない。


「登、起きろよ! 登……」


 瞬が少年――梶世登の肩をゆすった。反応は全くない。彼がゆするのに合わせて首がぐらぐら揺れるだけだ。それを見て瞬は息を飲み、肩から手をゆっくり離す。


 そして彼はその手を、登の首筋に移動させた。直後、ぎょっとした顔で手を引っ込める。彼は地面のほうに目を向ける。赤い液体が薄く広がっていた。


 瞬はぎゅっと目を瞑り、後ろを向いて立ち上がる。震えた手でポケットに手を突っ込み、スマホを取り出した。


 彼の一連の流れを見ていた千夢は、まるで貧血を起こしたかのようにふらついて地面に座り込んだ。呪文のように口からは言葉が漏れる。


「……嘘でしょ、梶世くん、梶世くん……」


 一方の藍花は、倒れている少女の肩を揺すった。


「ねえ、桜……起きてよ、桜……」


 少女――浅西桜も登と同様、無反応だ。精巧な人形みたいに、美しい輪郭がそこに存在しているだけ。温もりは一切ない。


「桜、私、覚えてるよ。桜のこと、ちゃんと覚えてる。だからさ、目を開けてよ……」


 藍花の涙が、桜の白い肌の上に降る。すると、スマホでの通話を終えた瞬が、恐ろしく掠れた声で「……梨橋」と呼びかけた。


「……何?」


「桜っていうのは……その人の名前? 梨橋や登の、知り合い?」


 ゆらりと瞬は藍花に近づく。その拍子に手からスマホが滑り落ちたが、彼は気にも留めなかった。


 藍花は頬を濡らしながらこくりと頷く。


「そうだよ。私たちがずっと忘れていた子。私の親友。夢の中に現れていた人」


「夢? ……あっ、本当だ、前に画像で見た女の子……」


「さっき会ったの。幻覚なのか幽霊なのか全然分かんないけど、私、桜に会った」


 そんな藍花の言葉に、瞬は戸惑った顔をほんの少しだけ覗かせた。しかしすぐに「うん、そっか」と相槌を打つ。


「それで思い出したの。私、とっても大事な親友のことを忘れてた」


「うん……」


「でね、聞いたの、桜に。トワ様が、自爆したんだって」


「……えっ、トワ様……?」


 すると千夢も「じ、自爆……!?」と会話に介入してきた。顔は涙で乱れており、充血しきっている瞳を二人に向ける。


 藍花が目を擦りながら「千夢ちゃん、何か知ってるの……?」と尋ねた。千夢は僅かに口を開く。


「……前に授業でも先生がちらっと言ってた気がするけど、統治者が自爆すると、そのとき……一定範囲を全て無に帰す術をかけることができるの」


 ガシャン、と近くで塔の一部が崩れる音がし、辺りに粉塵が舞う。しかし三人はお構いなしに、その場で顔を見合わせる。


「……え、千夢ちゃん……無に帰す術って、一体……」


「その範囲内にある術や物……全てを一掃し、全てを消失させる。その範囲では術も使えないし、死んだら存在も消える」


 その言葉を聞き、藍花はハッとしたように目を見開いた。空中で中途半端に固まった手が震え出す。


「確かに桜、言ってた……。最後にトワに術を、存在を消される術をかけられた、って。じゃあ桜も登もその術にかかったってこと? ……でも、私は桜のことも、登のことも覚えてるよ。そんな術をかけられたのなら、どうして?」


「……分からない。私も、術とか統治者とかにそこまで詳しい訳じゃないから。けど……それに対抗する何かが、起こったのかもしれない。術は複雑だから……。でもとにかく、梶世くんたちに術が介入しているのは、間違いなさそう……」


「……どうして、分かるの?」


「だって多分、塔が崩れたときに、こう……なったわけでしょ。術が介入してないんだったら、梶世くん……冷たくなるのが、早すぎるもん……」


 千夢は言うと、再び嗚咽を上げ始めた。登の固まった手に触り、ゆっくりと撫でる。まるで温めているみたいだ。それを見て、藍花も桜の手を取った。大切そうにぎゅっと握りしめる。


「……なあ」


 すると瞬が声をかけた。言ってから、ズッと鼻水をすすり、雫を湛えた目の縁を拭う。


「蝦宇も……探さないと。救急車とかは呼んだけど、その前に」


 藍花はふるふると首を小刻みに振った。徐に顔を上げる。風が、その藍花の潤んだ瞳から涙を攫っていった。


「違うの。桜が、玲未なの」


「え?」


「玲未は入れ物。中身は同じ。この子が玲未なの。ずっと側にいて……。桜が、玲未なの」


 藍花は繰り返し同じことを言う。そんな彼女の背中を、瞬は優しくさすった。「そっか……」と小さく呟く。すると不意に千夢が立ち上がり、夢遊病患者のようにフラフラと歩き出した。


「……おい、樋高?」


「……蝦宇さんが、あそこに」


 千夢の虚な声を聞き、瞬と藍花も立ち上がって彼女の後を追う。言葉通り、目線の先には腕を変な向きに投げ出した蝦宇玲未の姿があった。瓦礫の隙間に挟まっている。ただし桜や登とは違い、付近の地面は赤く染まってはいなかった。そして、彼女の顔の一部は欠けていて、その破片が辺りに細かく散らばっていた。


「……」


 藍花は涙を止めないまま、時間をかけて玲未の側にしゃがみ込んだ。瞼を閉じている顔をまじまじと見つめ、ぽつりと「玲未……」と呼びかける。


 重たい空気が辺りを包み込む。塔の倒壊がようやく収まってきたのか、パラパラと細かい粒がどこかに降り注ぐ音だけが聞こえてきた。


 しばらくの後、遠くから救急車などがやってくるサイレンの音も加わった。三人はバラバラのタイミングでその音源の方角に顔を向ける。


 ふと、千夢が別のところに目を遣る。


「ねえ、あれ……何?」


 彼女は呟く。その声を聞き、藍花と瞬は同時に、彼女が指差した方向に目を向けた。


 千夢が指差した先には、倒れている登と桜がいた。ただし、千夢の人差し指は、二人の上部を指していた。


 そこに浮かんでいたのは、光の泡だった。


 それらはいくつもできると重なって大きくなり、しばらくして弾けた。光の粒が、空中に浮かんで、太陽に反射して煌めく。


「……」


 誰も、何も言うことができなかった。言葉を奪われてしまったように、口は開くが声は出ていない。


 光は上へとのぼっていく。厚い雲に穴を開けるかのように、天へ向かっていく。


 それまるで、魂が浮遊し、溶け合って輝いているようだった。


 その光景は、息を飲むほど美しかった。

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