29 唐突なきっかけ

「珠李さん! どうしてここに……」


 そこにいたのは珠李さんだった。真っ先に沢井さんが叫び、扉の向こう側にいた彼女に近づく。


 僕が前回来たときは、主に発作が起こった状態の彼女だったため、穏やかな顔でまばたきをする彼女はひどく新鮮だった。けれどとりあえず、扉な向こうにいたのが研究員の誰かではなかったためホッとした。彼女は灰色の髪を掻き上げ、長身の沢井さんを見上げる。


「いえ、あの……。研究員の方々が、侵入者はどこだと騒いでいらして、みんな上の階に行ったり外に出ていったり……。こっちにも部屋あるのになと思って、私もつい捜しに」


「珠李さんのそばに付いているはずの研究員は?」


「え? さ、さあ。すみません、何だかごちゃごちゃしてて、一人で移動してきてしまいました」


 小さく首を竦める珠李さんは、悪いことをしてしまい反省する子供のようだった。彼女は沢井さんよりも年上らしいのに、垣間見えるあどけなさが年齢差を埋めているように思える。


「全く……誰もいないところで発作が起こったらどうするんだ」


「す、すみません」


「あ、いや、違います! 珠李さんに怒ってるんじゃないです。珠李さんから目を離した研究員に怒ってるんです」


 慌てた様子の後、沢井さんは珠李さんを安心させるように柔らかい顔をした。沢井さんは珠李さんに対して少し甘い気がする。年上だからなのか、患者だからなのか。


「所長。きっと、この廊下に面している部屋は鍵がかかっていることが周知されているので、捜しても無駄だと思ったのでしょう。ほとんど私の管轄ですし、捜しに来にくかったんだとも思います」


 アケビさんは言い、自分の言葉に自分で納得したように頷いた。沢井さんは「なるほど。じゃあ、連絡しとくよ。侵入者問題はもう解決したから、通常の作業に戻れ、と」とスマホを取り出し、文字を打ち込み始めた。


 不意に、樋高さんが気まずそうに珠李さんから目を逸らす。その行為で逆に珠李さんは樋高さんに気づいたようで、ゆっくりと彼女の顔を覗き込んだ。


「あら、あなた……。例の、侵入者……」


「……すみません」


 すると珠李さんはふふっと笑い、口元に手を当てた。彼女は、沢井さんやアケビさんの顔を見て、何か察したような顔だった。


「何だか訳ありみたいね。別に咎める気はないわ」


 どうやら樋高さんがここに侵入したときに会っていたようだ。珠李さんの柔らかい言葉に、樋高さんは亀のように肩を窄める。何となくの直感だが、珠李さんは非常に高い術力の持ち主なのではないか、と思った。パッと人を見ただけでその人のことを瞬時に色々判断できるなんて、相当な能力だ。


 唐突に、僕の視線と珠李さんの視線が空中でバチッとぶつかる。すると彼女は、あ、という顔をして口を開いた。


「あなたが、梶世登さん……」


「え?」と思わず声を漏らす。彼女は深々と頭を下げた。


「あの、前回はすみません。私、発作が起きて何も覚えてないんだけど、どうやら危害を加えそうになったみたいで」


 前回この研究所に来たことがフラッシュバックする。僕は慌てて首を振った。


「いえ、そんな……! それに、もしお詫びをどうしても言いたいのなら僕じゃなくて蝦宇さんに」


 紹介するように蝦宇さんに手を向けると、珠李さんは焦ったように彼女に体の正面を向けた。何度も深く頭を下げる。


「ほ、本当にすみません。私、本当に……」


 何度も同じ言葉を繰り返していた彼女は、蝦宇さんの顔を見つめた途端、唐突に言葉を切り、ハッとした表情をした。じりじりと蝦宇さんに近づくと、何を思ったのか……。


 蝦宇さんにギュッと抱きついた。


「え?」


 当然のように蝦宇さんは驚いたように目を見開く。頬が桜のように紅潮する。


「な、何ですか!?」


「セイナの匂い……」


「セ、セイナ?」


「……ごめんなさい」


 珠李さんは時間をかけて蝦宇さんから体を離し、目を細めた。


「私の好きな匂いがして、思わず……。ごめんなさい、変質者だよね、こんなおばさんが」


「い、いえ……」


 さすがの蝦宇さんも照れたようだ。蝦宇さんは、珠李さんが部屋に入ってきてからずっと興味深そうに彼女の顔を見つめていたのだが、今は瞳を逸らしてまごまごしている。


 それより、セイナとは一体何なのだろう。そういう植物か香料でもあるのだろうか。蝦宇さんはまだ少し体の動きを固くしたまま「……このシャンプーの匂いかな? でもセイナなんていう成分入ってたかな……」と一人で呟いている。


「……セイナ……」


 いつの間にかスマホをしまっていた沢井さんも、彼女の言葉に反応するようにポツリと呟いた。僕は思わず沢井さんの白衣を引っ張り、「セイナって何なんですか?」と尋ねる。


「え? ……ああ、君は気にしなくていいよ」


「……そうですか」


 そう言われたら何も訊けない。僕は腑に落ちないまま、彼の白衣から手を離した。まあ、そんなことを気にしていても仕方ない。きっと僕には関係ないことだ。諦め、床に散乱している紙類を拾おうと屈んだところで、「あの、梶世さん」と声を掛けられた。珠李さんの声は、あらゆる経験を積んだような深みのある声だが、どことなく美しい。


「は、はい! 何でしょう」


「私、実はあなたとお話がしたかったの」


「え、なぜ?」


 言うと、珠李さんはふと目尻に寂しさのようなものを滲ませた。もちろん明確に分かる滲みじゃないが、彼女の感情がダイレクトに伝わってくる。何だか不思議な気分だ。


「私も梶世さんと同じように、過去の記憶がいくつか抜けているの。穴みたいにポコポコと。まあ、私の場合は病気が原因なのだけれど」


「そうなんですか」


 息が混ざったように答えた。意外だった。僕と同じで、記憶喪失に苦しむ人が目の前にいるなんて。


 いや、彼女はそれだけじゃない。病気、発作……。それに加えて記憶喪失だなんて、一体今までにどれくらいの苦しみを持って生きてきたのだろう。そう思うと、彼女の病服の襟元から見えるやたらゴツゴツした鎖骨が、視界に痛い。それでも目の前の彼女がそこまでつらそうに見えないのは、沢井さんたちの支えが大きいのかなと思った。


「私は、……忘れたことを思い出そうと発作が起きるらしくて、思い出すことができない。思い出そうとしてはいけないの。……だから、応援してるわ。梶世さんには記憶を取り戻してほしい」


「珠李さんは……病気だから、その治療に沢井さんの機械は使えないんですね」


「うん。病気による記憶喪失は、そもそも螺旋効果は関係ない。関係あるのは、術による記憶喪失だけだから……」


 そこでふと我に返ったように彼女は「あ、ごめんなさい」と僕に謝ってきた。何に対して謝っているのか分からず僕は身を起こす。


「屈んでる体勢のときに話しかけちゃって……。自分語りみたいなの一人でしちゃって、私ってば恥ずかしい」


 そういうことか、と合点した。僕は再び身を屈め、紙を一枚拾う。


「いえ、全然! ただ、部屋を片付けようかなって思っただけで」


 すると樋高さんが即座に反応して「あっ、ごめんなさい、片付ける!」と謝り、散らばったファイルをまとめ始めた。すると自然と部屋を片付ける流れになり、部屋の中にいる人がみんな部屋のあちらこちらに分かれる。すると、沢井さんがスッと僕の方に寄ってきた。


「片付けを終えたら、今日はもう解散にしようか。時間も遅くなってるし、千夢ちゃんとかの……色々しなきゃいけないことがあるから」


 そう耳打ちし、僕に爽やかな微笑みを見せてくる。僕は「はい」と頷いた。彼は転がっていたペン立てを拾い、丁寧に中身を入れていく。


「本当に悪いね、梶世くん。色々巻き込んでしまって」


「いえ。沢井さんが謝ることではないですし、今回は特に、僕が頼んで押しかけてしまったので。本当に、いつでも大丈夫です」


「今回の来訪目的は、前に画像化した子とは別の人を思い出したっていう話だったよね?」


「はい」


「了解。じゃあ今度梶世くんが来るときまでには、記憶が回復するかもしれない機械も修復させておくよ」


 言うと、沢井さんは壁際にまで転がったボールペンを拾いに離れていった。


「あっ、じゃあ私も片付けを……」


 すると珠李さんもそう言い、いそいそと動いてくれた。病人だというのに何だか申し訳ない。声を掛けようとしたら、彼女は瞬時に僕の言いたいことを察したのか「純粋に、私も片付けしたいだけよ」と口角を上げた。


 しばらく僕たちは部屋の整理に没頭した。アケビさんの部屋とのことなので、彼の指示に従ってもとの配置に戻していく。


「これはこれと纏めていいのかな……」


 珠李さんがそう言ったとき、僕は机の下に入り込んだ書類を掻き集めていた。そのため彼女の顔は見えなかったが、声の位置的におそらく机の上の書類でも整理してくれているのだろう。


 すると、頭上からしていたガサゴソという音が止まった。何かを持ち上げる音も聞こえる。


「あれ……この瓶は……?」


「だめだっ、珠李さん!」


 びっくりした。沢井さんの大声は、インパクトがある。頭を机の裏に勢いよくぶつけてしまい、痛みがジンジンと走った。顔を顰めつつ、何があったのかと机の下から這い出る。


 コツン、と飛んできた何かが鼻先に当たった。直後、顔全体に冷たい液体がかかる。


 え……?


 何かが、顔にぶちまけられた。そして、ひどく嫌な予感がした。


 足元に転がった何かを見る。それは、小さな細長いガラス容器。……そう、樋高さんが持ってきていた、術を液化したというもの……。


 その瓶は、中身がほぼ入っていない状態になっている。そのことを認識した瞬間、ポタッと顔から垂れた液が地面に一滴落ちた。


 つまり、僕の顔面に…… 螺旋をのぼってるような感覚に陥らせる術の籠った液体が……。


『むやみに強引に記憶を取り戻そうとすれば、混乱してしまうかもしれない。危険なんだ』


 沢井さんの声が蘇る。今の状況はどうなんだ? セーフ? アウト? 吸い込むとダメなのか? 飲み込むとダメなのか? 危険って、どのくらい危険? ハンカチで液の成分を吸った時は、ちょっと気絶くらいで済んだけど……。


 口は半分開いてしまっていた。すなわち液体も口の中に入ってしまっているわけだ。


 僕は床に膝をつけたまま、どうすればいいかを尋ねるべく沢井さんに手を伸ばした。動きたいのに体が強張って立ち上がれないうえ、しゃべると唾を飲み込んでしまいそうだった。しかし彼は珠李さんしか見ていない。さらに他の人たちも、僕が机の陰にいて見えないせいか、何の反応も示さなかった。


 珠李さんは瓶を掴んでいた手の形のまま固まって、沢井さんを見つめ返している。彼女の表情を見るに、彼の大声にびっくりして小瓶を落としてしまったのだろう。それが僕に当たったわけだ。


 沢井さんはまだ昂っているようで、大きな声が続く。


「この液体は術による記憶喪失にしか効果はないはずだけど、万一のことがあったら大変なんです! 発作がまた起こったら、あなたが苦しむんです! お願いですから、そういうのをむやみに触るのはやめてください! ましてや、蓋を開けるなんて……」


「ご、ごめんなさい。どんな効能がある術の液体なのか知らなくて、……」


 飲み込まないようにしないと、と思えば思うほど、口の中にどんどん唾が溢れてくる。異物の侵入に対抗して口内が反応でも起こしているのだろうか。


 辺りの会話が次第に籠って聞こえる。目の前がぐらぐらしてくる。脇の下から汗がどんどん流れていき、冷たくなる。そのくせ目の前が熱い。


 体が制御できない。僕は、頭から床に倒れ込んだ。ゴン、と鈍い音がする。


「梶世くん? ……梶世くん!?」


 蝦宇さんの声……。


 彼女の声を合図にバタバタと四方から人の集まる音がする。僕の周囲に人が寄ったのだろう、頭の周りで「登!?」「どうしたの、しっかり!」「梶世くん!」とぼんやり聞こえてくる。


「も、もしかして、私が落としたのが、梶世さんに……」


 珠李さんの言葉も、全部夢の中で聞いているみたいだ。耳に布でも巻かれているかのような感じだし、さらに耳の奥からは、ゴオオという響きも届いてくる。それだけじゃない。自分の息遣いも聞こえる。


 数日前に口にハンカチを当てられたときに見た景色と、似ている。しかし今回は、それよりもひどいかもしれない。心臓の鼓動と共に、脳が揺られるようになっている。激痛だ。


 ハアッ、ハアッ


 僕はどこかを走っている。熱い辺りの中、必死に足を動かして、急げ急げと何かに囁かれている。早くしないと。とにかく走れ。そう思っているのに、後ろが気になって振り向く。


 一面オレンジ色だ。火の粉が宙に舞い、煤が目に染みる。


 大きな、大きな炎がそこにはあった。


 屋敷とも呼べるような広大な家が、それよりも大きな炎に包まれていた。


『登……助けて』


 微かに声が聞こえる。ああ、まただ。また、あの子の声。かわいらしく、どこか懐かしいような響き。


 唐突に、涙を湛えながらいくつもの瓦礫の下に横たわっている少女の姿が、眼前に浮かび上がった。


「!」


 衝撃的な光景に、息が詰まる。彼女はセーラー服を焦がしながら、倒れた状態で僕の方に向かって手を伸ばしていた。それを見て、体の末端から徐々に冷たくなる。一方、頭は燃えるように熱くて痛い。


 早く、助けなきゃ……。


 現実の僕はそう思っているのに、見えている世界の僕はなぜか、炎に背を向ける。そして、再び急かされるように走り出す。その方向に動きたくないのに、動いてしまう。


 これは夢だ。分かっているのに、現実との境界が分からなくなる。これは何だ?


 もしかして……。


 もしかして、これが、僕の過去?


 過去の僕の行動が、今見えているもの?


 これが、失われていた記憶の一部……?


 パチッと何かがショートするような音と光を感じた。さっきまで走っていた僕は、気づけば止まっている。場面が急に転換したようだ。今度は炎の前で、僕はそれを仰ぎ見るように突っ立っている。


 カツン、と足元に何かが触れた。立ち尽くしたまま、目線を下げる。


 そこにあったのは、蓋が外れて倒れている赤色のポリタンク。


 手には、安っぽいライター。


 今まで脳裏にあった画像が、鮮明な動画になって映し出される。


 ショックで頭が真っ白になった。喉から気持ち悪いものが込み上げ、吐きそうになる。


 嘘だ……。


 本当に、僕が……火を……。


 分からない。信じたくない。けれど、足元にポリタンク、手にライターがある例の光景を抜きにしても、少なくとも僕は……。


 僕は、炎から、逃げていた。


 炎の中に、一人の少女を取り残して。


「……そんな、ダメだよ! 絶対、ダメ……」


 どこからか、蝦宇さんの声が微かに聞こえた。夢の狭間に聞こえた、現実の声。縋ろうと、掴もうとする。


 しかし、僕の手は届かない。


 その瞬間、視界が闇に塗り潰された。

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