30 痕跡の白状

「……ちはそろそろ帰ったほうがいいんじゃないか? もう結構夜遅いよ」


 聞いたことのある声だ。僕は鉛のように重たい瞼を徐に開ける。狭かった視界がゆっくり広がり、ぼやけて見えていた世界にピントが合っていく。


 目の前にいる人物をはっきり認識した、と同時に意外性が込み上げてきて、思わず体を起こした。反射的に起き上がってしまった、と言うほうが正しいかもしれない。


「い、伊杷川先生?」


「おー、梶世くん、起きたか」


 先生の返事を聞きつつ、急に体を動かしたことによる節々からの激痛に歯を食いしばる。けれど耐えられず、「痛た……」と声を漏らした。


「登! 起きたんだな、よかった」


 弾んだ低い声が飛んでくる。開け放たれている扉の向こうから、短髪の男子がこちらに歩いてきた。


「瞬……」


「ちなみに、藍花も玲未もいるよー」


 瞬の後ろから藍花の声がし、二人が顔を覗かせた。まるで小動物みたいだ。僕は咄嗟に辺りを見渡す。状況を理解しようとしたのだ。


 教科書が立ち並んでいる茶色い棚。ノートと紙切れが放置されている、薄汚れた勉強机。ハンガーラックにかかっている、僕らの高校の制服のブレザー。扉の向こうに続くリビングルーム。


 全てにおいて見覚えがある。そして、今寝ている布団は、あまりにも自分の寝相にフィットしすぎていた。擦れている枕カバーも、完全に僕の物だ。


「え、ここって、僕の家……どうして……」


「悪いね、君のカバンから鍵を取り出して勝手に入ったよ。非常事態だったから」


 伊杷川先生はそう言うと、勉強机の上に僕の家の鍵を置いた。勉強椅子をベッドの近くまで引き寄せ、軋ませながら座る。


「ソウ……沢井から急に連絡が入って、家まで連れていってほしいと頼まれたんだ。自分は非術地方に入るためには手続きしなきゃいけないし、それに他にすぐにやらなきゃいけないことがあるから、家まで送ることができないってね。だから僕が、境界の門まで迎えに行って、ここまで連れてきたというわけだ。相変わらず人使いが荒いんだよ、ソウは」


「登の家は俺が知ってたからな。んで、そのままみんなで入らせてもらったよ」


 瞬が自慢げに言った。以前瞬には家に遊びに来てもらったことがあるから、場所を覚えていてくれたのは少し嬉しい。


「梶世くん、大丈夫?」


 不意に天使のような声が耳元でした。反射でその声の方を向くと、蝦宇さんが心配そうな顔をして僕を覗き込んでいるところだった。


「蝦宇さん……」


「沢井さんが治癒の術をかけてくれたみたいで、梶世くんの体調は安定してるらしいよ。原因もはっきりしてるし、病院には行かなくていいみたい。しばらく休んで、自分で大丈夫そうだなって分かれば動いてもいいみたいだよ」


「あ、そうなんだ。ありがとう、教えてくれて……」


「……何か、思い出したの?」


 蝦宇さんが囁くように尋ねてくる。一瞬にして、全身の体温が氷点下になるかと思った。布団をかぶっているのに、僕の体は冷たすぎる。サーモグラフィーで確認したら、僕の姿は真っ青にくり抜かれることだろう。そのくせ脳裏に蘇る光景はオレンジ色なのだから、頭がおかしくなりそうなのだ。


 何と返事をすればいいのか分からない。


「梶世くん? え……まさか記憶、全部戻った?」


「いや、全然。それは全然なんだけど、ちょっと……」


「登」


 うまく言えないでいると、瞬の声が飛んできた。さっきまでの明るいトーンとは一味違う。鋭いけど、心配してくれるような、優しい声色だ。


「無理してしゃべんなよ。自分の顔、鏡で見てみろ」


「……」


 それだけ僕の顔が、やつれているか、青ざめているということだろう。僕は無意識に自分の頬に手を当てていた。脂汗でも浮かんでいるのか、湿った感じがした。


 ふと気づき、窓の方を向く。外はもう暗くなっていて、窓に映る自分の顔を反射させて見ることができた。しかし、映って見えた顔がゾンビみたいに見えたので、僕は刹那にして窓ガラスから目を逸らした。


「つーか、登の両親はいつ帰ってくるの?」


 瞬が、机の上のノートを勝手に捲りながら話を変える。何か面白いものでも書いてあるのを期待したのだろうが、国学のノートが使い終わりそうだったので新品を用意しておいただけだ。つまり未使用。瞬は、つまらないとでも言いたげにノートをパタンと閉じた。風圧で、同じく机にあった紙切れが左右に揺れ動きながら床に落ちる。


 その様子を横目で見ていた先生は、その紙を拾うように前屈みになりながら口を開いた。


「そうそう。家には誰もいなかったし、梶世くんのご両親に連絡しようと思って、教師の権限で電話番号調べて電話したんだけど……二人とも出なかったんだよな。ご両親、携帯には出ない? 会社に直接かけたほうがいいかな」


「あ、いや……いいです。連絡は、しないでください」


 慌てて言い、僕は掛け布団を握りしめる。先生は「え、どうして?」と目をぱちくりさせた。


「母と父の仕事の邪魔になるだけですから。多分今日は二人とも帰ってきません。僕の体調はもう、平気です。それに、明日は日曜で学校休みですし、ゆっくりできるので」


 語気が強めになってしまった。少しだけ脳が揺れた気分になり、鼓動と共にしばらく痛みが頭に響く。伊杷川先生は何を感じたのか、小さく「……そうか」と言った。そして切れた話の端を探すように、拾い上げた紙をちらりと見る。


「ん?」


 先生が疑問そうな声を上げたので、僕は足を動かし体勢を整えながら「どうしましたか」と尋ねた。


「この子は……?」


 先生がみせてくれた紙は、初めてアイサ研究所を訪れたときにコピーをもらった、僕の夢を画像化してある例の少女が写っているものだった。そうだ、いつでも見ることができるように机の上に置いていたんだった。先生は僕の記憶喪失については知っているはずだけど、僕が見た夢については話していないので、どう返答すればいいのか悩み、口籠る。


 すると僕の様子を見た先生は、「いや、別に彼女のことを詳しく知りたいとかじゃないんだけど」と弁明し、目の近くまで持ってきてまじまじと見つめる。


「この子、どこかで見たことある気がするんだよ」


「え?」


 予想外すぎる話に、僕と瞬と藍花と蝦宇さんは同時に声を上げた。ここまできれいにハモれるなんて気持ち悪いくらいだ。


「せ、先生が? どうして?」


 蝦宇さんが先生に掴みかかるくらいの勢いで尋ねる。抑揚がおかしくなっている。そんな彼女に対し先生は顎に手を当てて悩ましい表情だ。


「いや……この子、というより、この子に似た誰かに会ったことがあるのかも……。数年前……。……いや、気のせいかな、ごめん」


 すると唐突に、携帯の着信音と思われるメロディーが流れた。僕のスマホではない。いち早く反応してポケットに手を突っ込んだのは伊杷川先生だった。ごめん、と言うように片手を顔の前で立て、椅子から立ち上がってリビングへと戻っていく。


「……どういうこと?」


 ポツリ、と雨の降り始めみたいに蝦宇さんが呟いた。


「伊杷川先生、見覚えがあるって……どうして?」


「さ、さあ……」


 僕としてはこう答えるしかない。自分の謎も解決できていないのに、他の人の事情なんて……。


 僕はそれより、意識がなくなる前に見たあの光景が胸を抉る。本当に心臓辺りがキリキリ痛くなってきて、そっと手を当てた。身を前に倒し、俯く。


「登っ、大丈夫?」


 藍花が咄嗟に僕の肩を掴む。


「……」


 大丈夫、と答えたかった。いつもの僕だったら、そう返している。しかし、口が動かなかった。


 僕は、大丈夫なんかじゃない。僕は、卑劣な人間かもしれない。僕に近づいたら、何か悪いことが起こるかもしれない。


「僕は……」


 言おうか。吐き出したほうが、楽かもしれない。前は、言うのが怖いと思っていたが、今やもうその領域を越えている。あんな光景を瞼の裏に見て、言わない方が気が狂ってしまう気がする。瞬には無理して話すなと言われたが、違う。今は、逆だ。この顔色の悪さは、自分の中にあの光景を留めているからなんだ。


「……何?」


 藍花が顔を覗き込む。つぶらな瞳が僕を見据える。僕のことを、何も疑っていない純朴な瞳だ。それを見て、余計に心が絞られる。口の中が乾燥していくのを感じながらも、僕は懸命に喉から声をつくっていく。


「僕は、二年前……もしかしたら……」


「待ってっ!」


 蝦宇さんが叫んだ。顔をクシャッと歪めながら、僕のベッドに勢いよく手をつく。


「まだ全部思い出してないんだよね? なら、何も言わないで! 憶測でしかないんだし。いいよ、沢井さんの機械で全部思い出すまで何も訊かないから。苦しいなら言わないで……!」


 今日は珍しく蝦宇さんが声を荒げる場面を何度も見る。きっと彼女は親切で言ってくれているのだろう。けれど、僕はもうギリギリだった。喉の奥が気持ち悪い。どうにもならなかった。それを察したのだろう、瞬が僕の肩を叩き「言いたいのか? だったら言いな。どっちにしろ無理はするな」と優しく話す。


 僕はゆっくり両手を重ね合わせた。手はじっとりと汗ばんでいた。


「……蘇る……光景があって……」


「どんな?」


「僕が……」


 息を吸い込む。空気が喉に突き刺さって痛い。早く、吐き出さないと。


「誰かの家に……火を……」


 火を、つけていた。


 言ってしまった。認めたくなかったことが、現実に露呈する。言葉はムクムクと起き上がるように様相を顕現し、僕を追い詰める。


 三人は、無言だった。唖然とした様子で僕を見つめている。それも当たり前のことだ。


 最初に静寂を切り裂いたのは蝦宇さんだった。彼女は「……どうしてそんなことしてたの?」と僕の瞳をまじまじと見つめる。息のような小さな声だった。


「……ごめん、そこまでは思い出せない」


「ねえ登、それは、火をつけた行為を思い出したの? そこの事実は確実に見えたの?」


 藍花が鋭い視線になった。僕は少しだけ首を傾け、「……ちゃんと見えたわけじゃないけど、でも、夢に見えた僕の行動がそれにしか繋がらなくて……」とボソボソ言う。もっとハッキリしゃべりましょう、なんて叱られるような声だ。


「それって、憶測ってことだよね?」


「まあ、うん……」


「ああ、なら大丈夫」


 すると、あろうことか、フワッと藍花は笑った。彼女の感情が理解できなくて、僕はまばたきもせず目を見開く。


「え……?」


「ちゃんと見えたわけじゃないんでしょ? なら、大丈夫。それ絶対登の勘違いだよ。登は人の家に火をつけるなんて度胸ないし、そんなことできない」


 藍花はなぜか威張るように胸を張った。細い息を吐きながら戸惑っていると、口々に瞬や蝦宇さんもしゃべる。


「そうだよ。登に限ってそんなことはできない。勝手にネガティブ思考に陥るのは、登の得意技だからな」


「そうそう、きっと勘違いだよ」


 分からない。僕は、そこまで庇われる価値のある人間ではないのだ。


「どうして……信じてくれるの?」


 うっかり、そう口走る。すると藍花は再び声を上げて笑った。


「何でかなぁ。私にも正直よく分かんないけど、そう思っちゃうんだよね。あ、でも昔、同級生の誰かもずっと話してたよ、登は良い人で素晴らしくて云々って。私、その人に洗脳でもされちゃったかもしれないね」


 おどける藍花のその言葉に、僕はだいぶ救われた気がした。というか、みんなが周りにいてくれるこの状況に、ぐっとくるものがある。いつも家にいるときには感じない、じんわりとあたたかい、迸る気持ち……。


「おーい、みんな」


 不意に伊杷川先生が戻ってきた。片手にスマホを持ちながら、頭を掻いている。


「ごめんごめん、僕はもう帰るよ。ソウ……沢井に呼ばれて、また境界の入り口付近まで行くことになったんだ。……久保木くんたちはどうするの? 帰るのなら家まで送っていくけど」


 瞬たちは目を見合わせる。どうするべきか迷っているようにも見えたが、藍花が「帰ろっか?」と微笑むと、瞬と蝦宇さんは首肯した。


「あ、でも車は申し訳ないのでいいですよ。私の家、ここからそんな遠くないですし」


 藍花は言いながら、僕のベッド脇に置いていた彼女の荷物を持ち上げた。藍花の家の詳しい場所は知らないが、僕と同じ中学の校区内にあるはずなので、彼女の言う通りそんなに遠くはないのだろう。


「俺も構いません。梨橋、家まで送るよ。蝦宇も」


 瞬の言葉に、藍花は顔を真っ赤にする。湯気が出てきそうな勢いだ。伊杷川先生はニヤニヤ笑っている。どうやら藍花の気持ちを知っているようだ。そういえば前に藍花が、先生にはすぐにばれたとか言っていたな、と思い出す。


「久保木くん、そ、そんな、別にいいのに」


「嫌?」


「嫌なわけないけど、あ、でも玲未も、だもんね。玲未も一緒に帰るんだよね?」


「帰るは帰るけど、私は家族が近くまで迎えにきてくれるから……。ごめんね、二人で帰って」


 蝦宇さんは自分のスマホを掲げたのち、手を合わせる。「えっ、そ、そっかー……」と藍花は視線を明後日の方向に飛ばしていた。


「じゃあ梶世くん、お大事にね」


 しばらくの後、先生がまとめるように言い、みんなは僕の家から出ていった。さっきまでの賑やかさが嘘だったかのように、辺りは静まり返る。不揃いなアナログ時計の音だけが響いている。


 この家では静寂のほうが当たり前なのに、なぜか心がポッカリ空いてしまう心地になった。


 僕以外誰もいなくなった部屋を見渡し、本当に色々あった一日だった、と僕は肩で息をつく。


 今日はどっと疲れた。一日を振り返るように、僕は記憶を巡らせる。


 まず、まさか樋高さんが可術地方の人だったなんて思わなかった。


 樋高さんと彼女のお父さんの姿が脳裏に鮮明に蘇る。


 二人は会えて、本当に嬉しそうだった。


 樋高さんの行動は、すべて父親に会いたかったから、という理由があってこそだった。そう考えると心に刺さる。もちろん樋高さんからは色々されたけど、それを上回る感服があった。僕にはない気持ちだから尚更だ。


 僕はなるべくゆっくり立ち上がり、キッチンへ向かった。


 冷蔵庫を開ける。昨日作っておいたカレーが入っていたので、僕は鍋を持ち上げて火にかけた。両親が帰ってくる前に作っておいたのだが、量が減っていないということは、昨日親は二人とも外食をしてきたようだ。


 食事の準備をしながら、僕は戸棚の上にひっそりと置いてある封筒をぼんやり眺めた。中には数枚の紙幣が入っている。生活に必要なお金だ。僕は、何も知らない子供ではないし、生活するためのお金さえあれば生きていけるのだ。


 両親は、僕に不自由はさせないようにしてくれる。快適に過ごせるよう、姿を見せずに支えてくれている。僕は、それはありがたいことだと分かっており、恵まれているんだと理解している。


 食器を取りに行こうとしたとき、電子レンジに肩がぶつかって、上に乗っていた紅茶の茶葉が入った缶を転がした。ティーパックで簡単に淹れることのできるやつだ。ゴン、と地面に叩きつけられた後、滑るように遠くに行く。


 拾おうとしてふと、昔誰かの家にお邪魔させてもらったときのことを思い出した。その家はかなりの豪邸だった気がする。よくある偏見で、お金持ちの人は傲慢、みたいなものがあるが、そんなことは全く窺えなかった。


 普段から、その誰かからよく両親の話を聞いていて、とても尊敬している口ぶりだった。その人の話から、きっとあたたかい家庭なんだろうな、と思っていたけど、想像通りあたたかかった。家の中のあらゆるところから、その子が大切にされているんだと感じられた。


 その時に頂いたのが、温かい紅茶だった。一口飲んだだけで、胸の奥がじんわりして、心の内にある何かが溶けていくようだった。僕がいつも家でどれほど温かい料理を食べても、決してそうはならなかったのに。そこでいただいた紅茶は、桜の葉をブレンドした少し珍しい茶葉を使っていて、フワッと香ったあの匂いも、心の何かを溶かしていく要因の一つだった。


 いいな、と思った。純粋に、無意識に、そう感じていた。


 どうして今こんなことを思い出したんだろう、と僕は苦笑いする。思い立って、紅茶を開封する。カレー鍋の隣ですでに沸かしていた熱々のお湯を、セットしたティーパックに注ぎ入れた。


 飲む。ただ熱かった。あまりにも当然の結果が得られ、僕は苦笑いする。舌の先を火傷して痛い。感覚が麻痺したのか、その後いくら飲んでも味がしなかった。


 こんなに熱いのに、胸はじんわりとなどしない。


 僕は、再び苦笑いをした。紅茶から目を離し、カレー鍋のお玉をかき混ぜる。


 自分がつくった渦の中に、吸い込まれていきそうな気分になった。

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