48 一人の女性の物語②

「嘘……拳銃、偽物と交換しておいたのに」


 あたしは部屋の一室で、メモ用紙を見て愕然としていた。そこには、『レディったら、塔に銃を置いとくって言ってたのに、念のため見てみたら棚にしまってあったよ。持ってくからね。お互い頑張ろ!』とあった。紙を持っている手が震える。紙の擦れる音が脳を食うようだった。


「塔には偽物の銃を置いておいたのに……。どうしよう、このままじゃ、桜が梶世登を殺してしまう……」


 思わず紙をくしゃくしゃにする。あたしは家を飛び出し、軽く宙に浮きながら全速力で走った。こうすれば地べたに足をつけるよりも速く走れるのだ。術を使わなければ、術を持たない人間と同様、体は重力に従ってしまう。


 当日になってしまった。ついに、計画の決行日になってしまった。


 お願い、やめようよ、桜。


 ……。


 解決するための一番の手立ては分かっている。そんなこと前から知っている。


 だけど、そうするための勇気が出ない。


 逃れようと、何度も何度も悪足掻きをしていた。どうやったら、あたしの口から真実を話すことなく桜を止められるのか。あたしが一番つらいのは、桜があたしを忌み嫌う瞬間に立ち会うことだ。それだけは絶対にしたくない。その光景さえ見なければ、あたしはこの命がどうなろうと構わなかった。


 ……ちょっとだけ嘘だ。本当は、これからも変わらず、桜とともに一生このまま生きていきたい。でもそれは許されないから、梶世登のためにも真実を知らせなければならないから、あたしは命を犠牲にしてでも苦しみたくないのだ。


「どこに行くつもりだ」


 ハッとした、唐突に声をかけられ、心臓を掴まれた感覚に陥る。


 声の主は顔を見なくても分かる。あたしは足を止め、ゆっくり振り返った。顔を顰めてみせる。


「またあんた? 何なの、あたしのこと捕まえないくせに付き纏うの? うっとうしい」


 吐き捨てるように言った。しかしトワツカは一切表情を変えないまま、口を開く。


「何を演じているのか知らないが、声が震えてんぞ」


「……っ、演じてなんか……」


 言われたそばから声が震えてしまった。こいつの視線から離れたいのに、しっかりと捕まった。真っ赤な目に見据えられ、動くことができない。昔のあたしでは考えられない失態だ。トワツカに戦意があるなら、即刻負けている。


 もういっそのこと、彼に自分を殺してほしかった。今まで彼に殺されることだけは屈辱だと思っていたけれど、そんな思いもどこかへ吹き飛んでいた。どうすれば分かんない、このぐちゃぐちゃな状況からあたしを解放してほしい。


 けれど、彼はあたしに対して何もしない。前に会った時もそうだった。彼から殺意を感じたのはあの一時期だけ……そう、あたしがあの火事を起こして桜を手に入れてからのしばらくの期間だけだ。あたしが怪盗の仕事をやめてからは、接触すらしてこなかった。あたしが出向かないと、彼は来ない。


 トワツカは赤い瞳を光らせ、あたしに詰め寄った。


「お互い腹を割って話そうか」


「……」


「以前、お前が俺に話そうとしたお願いとやら、聞かせてもらうぞ」


 辺りにある木々が風に揺れてざわめく。あたしと彼しかいない空間が凛として生まれた。唇が震える。


「あ……」


 呻き声が漏れた。強がれない。もうこれ以上、彼の前で強気のふりができない。今の本当の姿……弱い自分を晒すほか、あたしのできることはなかった。


 気づいたら、あたしは口を開いていた。


「……お願い、助けて」


「何だ」


「あの子を、止めて」


 言った瞬間、膝の力が抜けてしまった。二度と立ち上がることができなくなっていても、何らおかしくないくらいに脱力した。笑ってしまうほど、あたしは脆弱になっている。


「……あの子、というのは浅西桜のことだよな。止めるというのは、何をだ。何を企んでいる?」


「……あなたって人は本当に、力は強いのに何も知らないのね」


「今俺をからかっている場合か。ちゃんと教えろ」


「からかっているつもりはないわ。……桜は、梶世登を殺そうとしているの」


「……は?」


 あたしは、あたしたちが立てている計画について全て話した。浅西桜が蝦宇玲未という姿になって、非術地方の高校に通っていること。そこには梶世登もいること。桜は梶世登の記憶を思い出させ、家族殺害理由を彼から聞きだした後、彼を殺そうとしていること。


 話しながら、何とも皮肉なものだと思った。桜から頼まれていた『トワツカの行動を止める』という役割を、あたしは無視するつもりでいたのに、こうして彼と二人になっているなんて。


 話を聞いたトワツカは片眉をひくりと上げた。


「……梶世登が浅西桜の家族を殺した、と言った? どの口が言ってるんだ、殺したのはお前じゃないか」


「……」


 あたしは心の中で、そんなこと分かってる、と吐き捨てた。そう、頭が痛くなるほどに分かっている。


 トワツカは言葉を続ける。


「お前が浅西桜と暮らしている時点で、自分が犯人だということを秘密にしているのは当然知っていたが、まさか他人の犯罪にすり替えていたとはな」


「……うるさいわね」


「そうか、だからお前は焦って行動を始めたのか。その計画が実行されそうになってしまったから……。……今のお前には、その計画を実行するのはさぞ苦痛だろう。利用する目的で引き取った彼女のことが、とても大切になってしまった今となっては」


「……!」


 息が止まりそうになった。トワツカは鋭い視線のまま言葉を続ける。


「今のお前は、浅西桜を利用する気持ちなんてこれっぽちもない。そうだろ」


 いざ他人から言葉として指摘されると、心臓が震えてしまった。喉が詰まりそうになったのを、唾を飲み込むことで防ぐ。


 そう……。


 あたしは、デビル・レディ。悪魔の女。誰にも心を許さず、どんな残酷なことも平気でできる。そう決めたから、あたしは悪魔と名乗った。


 でも、気づいてしまった。


 あたしは……あたしは……。


 地面に蹲り、真っ黒な土を見た。息切れの漏れる口を開ける。


「……その通りよ。あたしには、もう、桜を利用だなんてできない。あたしは、桜を救いたい……」


「……」


「お願い……あなたの口から真実を伝えてほしい。それで、桜を何とかして止めて。お願い」


 あたしには無理だ。自分の犯した残酷な罪を、大好きになってしまった桜に伝えるのなんて到底無理だ。あたしの口からは話せない。でも、だからと言って桜が罪なき人を殺すのは嫌だ。


 だから一番いいのは、桜があたしと離れた場所のどこかで真実を知ること。桜が真実を知ったと分かり次第、あたしは桜と対面する前に死ねばいい。そうすれば、あたしはあまり苦しまずに済む。苦しみを最小限にして逃げることができる。


 一度、実行できるかもしれないと思ったときがあった。桜が、とある研究所に行くと言ったのだ。そこで梶世登の記憶が戻るかもしれないとのことだった。


 あたしは、またとない最高のチャンスだと思った。


 梶世登があたしのことを犯人だと知っているかは分からないが、とにかく彼の記憶が戻れば、少なくとも彼が罪を犯したわけではないことは分かる。それが分かれば、桜の彼への復讐心は止めることができるだろう。


 だからあたしは、桜が可術地方に入れるように術を使いまくった。蝦宇玲未という人物は本来は存在しない人物だから、戸籍などの書類を誤魔化さなければならない。桜の高校への入学手続きをしたときと似たような術を使い、何とか桜を研究所に行かせた。


 あの日、あたしは死ぬつもりだった。全てが終わる予定だった。けれどその計画は失敗した。


 あの時死のうと思って崖の縁に座っていたら、桜から電話があったのだ。取らない予定だったのに、なぜかひどく嫌な予感がして、あたしは電話に出た。電話の向こうで聞こえたのは、あいつの記憶取り戻すの食い止めたよ、という言葉だった。すっと血の気が引いたのを覚えている。


『え……? 登の記憶を取り返すために研究についていったんじゃなかったの?』


『何言ってるの。自分の手で終わらせないとって言ったのはレディでしょ。阻止するために決まってるじゃない。私の手で思い出させなきゃ意味がない。ここまで調査頑張ってきたんだから』


 うまくいかない。何もうまくいかなかった。


 そして、時間が経ってしまった。もう、桜の復讐計画の決着がつこうとしている。


 今……あたしが頼れるのは、この人しかいない。


 お願い。あたしが直接桜に伝えるのは無理。あなたから伝えてほしい……!


 しかし彼は強い口調で「断る」と言った。全く躊躇う素振りも見せず、即座の返事だった。あたしの勇気は、あっけなく切り刻まれる。


「……何で」


「は?」


「……ねえ何でよ? あたし、最初からずっと疑問だったわ。あなたはあの火事の真実を知っているのに、どうして桜に言わないの? あなたは桜に真実を知ってほしいんじゃないの?」


 あたしは顔を上げ、トワツカの赤い瞳を見た。その眼光はスッと細くなり、あたしを見下ろす。


「真実は知ってほしい。だが、俺が何言ったってあの少女が信じるはずがないだろう。たいして対面したこともないのに、彼女は俺を目の敵にしている。まあ、俺はトワ様に仕えている者だから仕方ないが」


「……じゃあ、あたしからの直筆の手紙とかを桜に渡してもらって……」


「馬鹿か。あの少女は、お前が口で直接告白したとしてもすぐには信じないだろうよ。手紙なんて、俺の作り物だと言われて終わるさ。お前の教育がさぞかししっかり身についていることだろうな。さすが、デビル・レディの洗脳の術」


 彼の言葉終わりを聞いたとき、あたしは全身が竦み上がる思いだった。体全ての毛が立ち、震える。あたしは思わず「やめてよっ!」と叫んでいた。


「やめて……言わないで……」


「……」


「過去のあたしはおかしかったの、狂ってたの。……楽しんでいたのよ……桜が騙されるのを。あたしを信じ、裏切られたときにどんな表情をするか、……それが興味深かった。何て言うか、あたしは……人が嫌いだった」


 あたしは自分の手を見つめた。手のひらに付いた土がパラパラと風に乗って遠くに飛んでいく。


「……でも桜といるうちに、訳が分からなくなってきた。なぜか、裏切るなんてしたくないって思って、すでに騙している状況がすごく苦しく感じた。……本当に馬鹿。自業自得なのに」


 トワツカは黙ってあたしの話を聞く。トワの使いの者のはずなのに、あたしを捕らえる素振りなど全く見せない。あたしはそれに甘えて話し続ける。


「桜といる時間がただ楽しくて、それを手放したくなくなってしまった。桜を利用するのが、とてつもなく嫌だと思った。……過去に自分が犯した罪が、悪夢になった」


 よく同じ夢を見るのだ。あたしの手には拳銃が握られていて、目の前の闇の中に、四人の人間が倒れている。生ぬるいあたたかさと、鉄の匂いを感じる。かと思えば一瞬にして灯油の匂いに変わり、辺りがオレンジ色に光る。


 いつもそこで目が覚める。紛れもなく夢なのに、現実でもある。それがいつも、とてつもなく腹立たしくて、悲しかった。夢だったらよかったのに、と夢を見た後に毎回思う。


「大馬鹿よね、桜を地獄に突き落としたのは自分だっていうのに、今になって桜を助けたい、だなんて」


「……」


「でも、あたしは……昔のあたしに、どう頑張っても勝てない。どんな術を使っても、勝てないのよ……。だからあたしじゃ止められない」


 手のひらからはすっかり土が払われた。あたしは人差し指を立て、指の腹をそっと地面に押し付ける。過去に、桜の額に指を押し付けて術をかけたときみたいに。


「桜の復讐を止めようと思って、あたしは、桜に洗脳の術を再び使ってしまった。……でも、そうまでして、復讐をやめるように術をかけたのに、全然効かなかった」


 あたしは色んな意味で弱くなった。体力面も、技術面も、精神面も、全部。あたしはずっと過去のあたしに頭を押さえつけられている。過去の極悪の自分が強すぎて、今のあたしでは太刀打ちできない。


 ふと気づいたら、あたしは自分のことを思い返していた。


 ある時からいつの間にか、あたしは怪盗の活動をやめていた。何の罪もない人の家から物を盗むことに抵抗を覚えたのだ。桜の体を治すためのエネルギーが欲しくて唯一、統治者の宝石が保管してあるビルには侵入していたが、必要分集まった瞬間にそれもやめた。世間の一部では、デビル・レディは死んだ、とも言われていた。その通り、あたしは過去の自分を殺したつもりだった。


 どうせなら、梶世登みたいに、あたしも記憶喪失になればいいのに、とすら思った。そうなれば、あたし自身何も悪いことをした記憶はないわけだから、罪を『過去の自分』『今の自分じゃない自分』に押し付けられる。過去のあたしを全部忘れて、今ここにある思い出だけで生きる……そしたらどんだけ幸せだろう。


 でも、あたしは違う。いくら過去の自分を殺そうとしても、やっぱりあたしの中でそいつは生きている。消えない。あたしの中から、あの記憶が、経験が、消滅しない。


 梶世登のことを少し想起したためか、昨日の秋祭りのことが蘇った。


 梶世登と会った、あの日のことが……。


           ・・・


 その日は、ずっと前から桜と一緒に行こうと約束していた日だった。炎のトラウマで桜は花火が見られなかったから、花火が始まるまでには帰る予定で、桜は最後にフルーツ飴が食べたいと買いに行っていた。


 あたしとしては、この日までに何とか良い策を考え出さなければならないと思い詰めていた。けれど結局桜といるときは楽しくて、正直何も考えられなかった。しかしふと一人になって考えてみると、向こうには絶望しか見えない。あたしは階段に座りながら、辺りの賑やかな声をとても遠くに聞いていた。


 そんなときだった。


「すみません。落ちてましたよ、これ。あなたのですか?」


 あの時、あたしが落としていたハンカチを拾った少年。まさか、この人込みの中、彼に会うなんて思っていなかった。話しかけられるなんて全くの想定外だった。


 梶世登……。


 桜だけじゃない。あたしは、彼のことも利用した。偶然あの現場にいた彼を犯人に仕立て上げ、桜の敵意を向けさせた。あろうことか、昔のあたしはその状況を楽しんでいたのだ。


 桜からの憎悪など何も知らない無垢な瞳を見て、あたしは慚愧の念に堪えられなくなった。気づいたらあたしは、涙を流していた。懺悔の言葉は怖くて出なかったが、ただひたすらに涙が流れたのだ。梶世登は心底戸惑った表情をしていたが、それもまあ当たり前だろう。


 あたしは持っていた白くて丸い石を、彼に渡した。あたしがトワたち統治者の宝石が保管されているビルに侵入したときに、トワツカから慈悲でもらったやつだ。よく知らないものをなぜ渡したかなんて、あたしにも分からない。ただ何となくだ。何の効果があるかなんて覚えてない。


 その後すぐに桜の匂いがして、彼女が近くにいることが分かったから彼から慌てて逃げた。桜に、梶世登と話している姿を見せたくなかったのだ。だから急いで彼女を迎えに行った。桜からはあたしの匂いがする。近くに来ればすぐに分かる。


 こっちに向かって歩いてきた桜は、両手に計三本の飴を持っていた。竹串を掴んで左右にリズムよく揺らしている。鼻歌でも歌っているような顔だ。


「レディ! お待たせ!」


「桜……随分と買ってきたのね」


 あたしはドキドキしながらそう口を開いた。涙は引っ込めたつもりだが、気づかれたら困る。しかし桜は何かを察する様子もなく、楽しそうに話し始めた。


「なんか珍しいのがあって、楽しくなっちゃって……。ほら、お祭りで売ってるのって普通りんご飴じゃない? だけど見て。梨味と、桃味と、すもも味……。私、こんなの初めて見た!」


「そんなに食べきれるの?」


「レディにもあげるよ。どれがいい?」


「ああ、ありがとう……じゃあ、すもも味を……」


「はい」


 受け取る。すもも味の飴は、思ったよりも酸味があり、そしてほろ苦かった。あたしは飴の表面を齧り、欠片を奥歯でギリギリとすり潰した。


           ・・・


 殺させたくない。昔の狂っていたあたしから、桜も梶世登も守りたいのに。それがあたしの責務なのに。


 視界が現実の地面に集約される。あたしは目を伏せたまま、軽く顔を上げた。


「……ねえ、トワツカ。あたし、まだ疑問があるんだけど」


「……何だ」


「あなた、どうしてあたしを殺そうとしなかったの? トワから、あたしを殺せという命令は受けていたはずよね?」


 空はいつの間にか厚い雲に覆われていた。湿っぽい匂いが、あたしの鼻を掠める。トワツカも同じように感じたのか、鼻を軽く触った。


「殺そうとしたことはあるさ。お前が浅西桜の家族を殺したあのとき……俺は本気で、お前を殺そうと思った。俺の実力不足で無理だったがな。あの頃のお前は、世界でトワ様の次に術が優れていたと思う」


「……そんなこと言われても嬉しくない。というか、それを訊いてるんじゃないわ。あの時期のことじゃなくて、それ以降の話よ」


 あたしが怪盗として動くのをやめてからは、トワツカはあたしに全く接触しなくなった。フラフラと不用心に街を歩いていても、近寄ってこなかった。


 だから前のあのとき、トワツカに会うために、あたしは統治者の宝石が保管してあるビルに侵入しなくてはならなかった。来ないんだから、あたしが行くしかないのだ。宝石を盗む行動をし、交換条件としてあたしのお願い――『あたしの代わりに桜に真実を話してもらう』を聞いてもらいたかった。まあ、普通に失敗したけれど。


 トワツカという人物のことが、あたしは未だによく分からない。トワに仕えている者だからトワの味方のはずなのに、馬鹿正直にその事実を認めるのはどうにも違和感がある。トワはあたしの敵。でもこの人は何かが違う。トワに忠誠を誓う者には、どうしても見えない。……けれど、そう思ってしまうとあたしは混乱するから、こいつとは敵対関係だと自分に言い聞かせてきた。


「トワにとってあたしは、邪魔でしかないはず。術をかけられないから、自分の都合のよい世の中にするには、とてつもなく嫌な存在のはずよ。だから、あたしが怪盗として活動しようがしまいが、一刻も早く消すべき。そうじゃないの? そうやって命令されてないの?」


「……命令されている。もはや今は、専ら俺の仕事はそれだけさ」


「じゃあどうして実行しないの? トワの使いの者なのに」


「……理由は二つある」


 トワツカは革靴を踏み鳴らしながらあたしに歩み寄った。あたしを見下ろすその瞳は、どこか重く深い色が混ざっていた。


「俺は、二つのことを待っていた」


「待つ……?」


「一つは……お前が、浅西桜に真実を伝えること、だ」


「……」


 あたしはそっと閉口する。そして軽く目を逸らした。しかし急に、トワツカはあたしの顎を掴み、強引に目を合わせてきた。燃えるような赤い瞳にあたしの心臓は竦み、一瞬にして破裂しそうになる。


「何が、真実を伝えるのがつらいからあなたが伝えて、だ。ふざけるな。甘ったれるなよ……デビル・レディ」


 トワツカの語調が唐突に強くなる。勢いに飲まれ、あたしは髪を乱したまま、その場で固まった。


「俺は、お前が浅西桜に真実を伝えるのを……そして、心の底から、全てを投げ出す覚悟で、全力で彼女に謝ることを、ずっと待っていた。……俺がお前を殺して何になる。俺だけが全ての真実を知っている? 全ての真実を知っているのは、お前も同じだ。お前が言わなきゃ意味がないだろ。浅西桜に対して罪悪感を持っているのなら、せめて逃げずに、苦しみながら、真正面から謝らなければならないだろ!」


 トワツカの顔が、鬼のような形相になる。頬は引きつってピクピク震え、どんな硬いものも突き刺すような鋭利な眼光を灯している。あたしは彼のその声色で、一瞬呼吸を忘れた。


 彼は数秒あたしを見つめると、ゆっくりとまばたきをしてあたしの顎から手を外した。彼の強張った顔がほんの少しだけ弛緩する。


「……俺は、お前たちが梶世登を殺す計画を進めているなんて知らなかったから、それはそれは呑気に待っていた。何やらお前が動き出したから、こうして俺も腰を上げてやってきたわけだが……。お前が逃げようとしていると察し、俺は愕然としたよ」


「……」


「俺は、お前が過去の自分を憎んでいるのは分かっていた。だからこそ、待っていたんだ」


 咄嗟に言葉が出なかった。彼の言葉は、あたしの心の隙をついて、芯のほうまで入り込んでくる。言葉が真っすぐだから、心の奥底にストンと落ちるのだ。


 この人は、どうしてこんなに……。


 あたしは細く息を吐いた。


「……ねえ、訊いていいかしら?」


「またか、何だ」


「どうしてあなたは、トワの命令に従わないの?」


「……」


 トワツカは無言だ。視線は逸らすことなくあたしを見ている。あたしは唾を飲みこみ、彼を見つめ返す。


「不思議なのよ……。偉大なる統治者・トワに仕えし者が、トワの言うことを聞かない。それどころか、あたしを説得しにくる始末。……どうして?」


 あたしと彼の間に、風が通り抜ける。それが合図だったかのように、トワツカは……悲しそうに、微笑んだ。あたしは思わず声とも言えない小さな呻きを発した。彼のこんな表情、あたしは初めて見た。


 彼の赤髪と、頭に巻いている布が、ゆっくりそよぐ。


「……さあ、なぜだろうな。俺にもよく分からない。……ただ、俺もお前と似たようなものかもしれない」


「……あたしと?」


「俺は別に、トワ様の術で生み出された怪物とかじゃない。ただ、この世に偶然、トワ様の誕生と全く同時刻に生まれ落ちたという理由で、トワ様に使者として選ばれただけなんだ。言ってしまえば、ただの人間さ。術の使える、ただの人間。……お前と同じで、弱いんだよ、本当に」


「……」


「俺は、目覚めたときから自我を確立していた。ありとあらゆる知識がすでに俺の脳にインプットされた大人の状態で俺の人生は始まったんだ。それも全部トワ様がしたことだ。トワ様の術で子供時代を省略され、世の中から存在を消され、トワ様のしもべとして……言わば転生させられた。……まあそういう意味ではトワ様に生み出されたと言っても正しいが……」


「……トワの術で、って? あなた、トワの術にはかからないって言ってなかった?」


「それは、この姿の体が生み出されてからの話だ。トワ様は、俺をこの年齢で止め、理想の状態に俺の体をつくってから、自分の一部にしたんだ。俺はトワ様の一部になったことで、理性の中にトワ様の命令に従うことが組み込まれ、トワ様からの術にはかからなくなった。トワ様と同じだけの命を与えられた」


 彼は淡々と言うが、あたしはぞっとした。トワというやつは、誕生してすぐに、もうそんなことをしていたのだ。トワツカは、自分は世の中から存在を消されたと言っていた。きっと彼は、自分がどこで生まれたのかも知らないし、本当の名前も知らないし、両親も知らないのだろう。そこまではあたしと同じだが、彼の場合は知らないというか、もう……ないのだ。あたしと桜の不幸の部分を全部取り入れたみたいな境遇ということだろう。


「……まあ、そこがトワ様の甘かった部分と言うか……。今の俺の中には、理性などというものはあまり残っていない。ほとんどが感情さ」


「……感情……」


「トワ様は、平気で残虐なことをする。お前だって知ってるだろ。人の存在をいとも簡単に消去し、自分の都合のよい世の中に変える。それを見て、俺は……何でだろうな、世の中の人間の方に同情しちまった。トワ様の行為がすごく嫌だと思った」


 トワツカはため息をついた。その息は薄暗い辺りに広がりながら溶けていく。


「トワ様は……今までの統治者とは、多分明らかに違う」


 彼は、頭に巻いてある布を直しながら言った。


「今までの統治者は、いくら反逆する者たちを目の前にしても、きちんと人間に対する慈悲の心は残っていた。だがトワ様は、人間に対して残虐な行為をすることに、躊躇いを感じないようなんだ。誕生した直後から、ずっとその感性を持ち続けている」


「……」


「理由は簡単だ。統治者の形である擬幻体っていうのは、高エネルギー体、あるいは亡くなった人の魂で構成されているんだが、トワ様は、高エネルギーが集結したほうのタイプなんだ。……それも、負のエネルギー」


「負の、エネルギー……」


「世のためじゃない。自分のために、全ての統治を行うんだ。でも世の中の人々は、そんなの気づくはずもない。だから俺だって、最初は……忠実にトワ様に仕え、トワの使いとしての仕事を全うしてきた」


 トワツカは自嘲気味に笑った。さっきせっかく髪に巻いている布を整えていたのに、すぐに崩れて皺が寄る。


「皮肉な話だよな。もっと昔……俺とお前が初めて会ったときとか、お前がトワ様を消そうとしてるとき俺はトワ様を守ろうとし、俺がお前にトワ様を倒してほしいと思ったときお前にはもうその気がないようだ」


 さらりと、……本当にさらりと、彼はそう言った。


 あたしは一瞬、耳を疑った。


 いくら統治者に背く、珍しい使いの者だからといって、ここまでとは思わなかった。こんなの、史実では聞いたことない。


 でも気のせいじゃない。だって、はっきり言ったんだから。


「え……? トワを、倒してほしい……、って言った?」


 トワが人間に対して非道な行いをしないよう、画策するだけじゃない。そのまた先の次元だ。主人を倒してほしいと言っているのだ。


 彼は別に、うっかり間違ったことを言ったわけではなさそう表情だった。むしろ、やっぱり気づいたな、みたいな意味深な笑みを見せてくる。なぜかあたしのほうが緊張し、心配になってしまった。何であたしが彼の心配しなければならないのかと思いつつ、口を開く。


「ね、ねえ……いくらトワの行動が好きじゃないからって……その言葉はまずいんじゃないの……。どうかしてるわ。今までの言葉も、統治者に仕える者としては普通にアウトだけど、それは段違いに……」


「ああ、とてつもなくまずい。いくら俺がトワ様から術をかけられないからといって、こんな発言をして俺の身がどうなるか分からない。だけど、もう言うしかないんだ」


 ザッとトワツカが地面を踏み鳴らす。一瞬、彼の隠れた左目がちらりと見えた。右目とは明らかに違う鈍い光の赤色だった。


「そう……今から言うのが、二つ目……もう一つの『待っていたこと』だ。俺は待っていたんだ、お前が……トワ様を倒すときを。俺はお前に、俺と共にトワ様を倒してほしい。そして、新たな統治者に、変えてほしいんだ」

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