49 一人の女性の物語③
「……何言ってんの……」
吐息とともに言葉が漏れる。今にも雨が降ってきそうな空の下、あたしは『困惑』という一言では表せない感情に染まっていた。雨よ、早く降るなら降ってほしい。
「というかそもそも、何で、あたしに、なの……」
「もう、トワ様を倒せる者は、トワ様の術がかからない術使いの俺とお前くらいしかいないからだ。他の者では、攻撃する前に存在を消されて終わってしまうからな。確かに俺たちそれぞれ一人の力じゃトワ様には敵わないだろう。でもきっと、俺とお前の力を合わせれば、トワ様を倒すことができる。だから、協力してくれ」
協力、という言葉を聞いて、あたしはハッとした。そう言えば、前にトワツカに、何かに対して協力してほしいと頼まれたことがある。あのとき彼は、何に対して協力してほしいのか具体的には言わなかった。確かにこの内容だったら、迂闊には言えないだろう。
トワツカはあたしの肩をいきなり掴んだ。その手が震えている。振動が、あたしの体全体に伝わる。
「頼むから……トワ様を倒してくれ。浄化してくれ。このままでは、世の中がおかしくなってしまう」
「……」
「知ってるか。この前、トワ反対運動という活動をしている可術地方の一人の男性が、宝石を管理しているビルに一人で乗り込んできたことがあったんだ。トワ様は、その反対運動に対しては何も気にしてはいなかったが、ビルに乗り込んで荒らしにきたことには腹を立てたらしい。許容ラインを踏み越えた、と。さて、その男性は一体どうなったと思う?」
「……まさか」
「ああ、あっさり消された。……もう俺は、これ以上待てない。トワ様の横暴を見過ごせないんだ」
「……」
何回でも思う。どうしてこの人が、トワの使いなんかになってしまったんだろう。不適合すぎる。普通に生まれ、世の中で生きていれば、どれほど……。
「なあ、俺もずっと疑問だった。どうしてトワ様を倒しに来ない? お前は、いくら浅西桜に情が湧いても、トワ様のことはずっと嫌いだろう」
彼の質問に、あたしはそっと息を吐いた。
「……そうね、嫌い。それは昔から変わってないわ。自分の都合のいい世になるように術を使いまくっているのは知ってるし」
「じゃあどうして? 昔はトワを倒しに盛んに攻撃に来ていたじゃないか」
そう。あたしは、トワのことは大嫌いだ。桜の存在や家族を消したのもトワだし、登の記憶を消したのもトワだ。もちろん桜が苦しんでいるのはあたしのせいで、トワのせいだと言うつもりはないが、でも感情的に嫌いである。桜を苦しめる一端はトワにもあると思っている。
トワに攻撃しにいくことは、何度か考えた。桜はトワのことも恨んでいるから、あたしがトワを倒して統治者を代えることができれば、桜の心情も少しは軽くなるはず。そして、梶世登の殺害計画をやめるくらいに満足――いや、それはさすがに夢物語だとは思ったが、とにかく倒しに行くことは考えていた。
でも、たった一つ、懸念があった。
「……だって……トワを倒したら、あなたはどうなるの」
呟くように言う。すると、トワツカは思いもよらない言葉を聞いたという表情をした。
「は? 俺? 俺は……前も言ったけど、俺はトワ様と同じだけの命を与えられている。トワ様が消えれば、俺もともに消えるさ。この体もろとも消滅する」
やっぱり、とあたしは口を動かした。するとトワツカは何を勘違いしたのか、「ただ、俺が死んだところでトワ様は消えない。残念だが」と付け足した。あたしは首を振る。首を振っている間、あたしは思わず目をぎゅっと瞑っていた。
「そんなこと訊いてない。……やっぱり、あたしには無理よ」
「どういうことだ」
トワツカは、意味が分からないという顔であたしを見た。あたしは「嫌なの」と言った。
「あたしのせいで誰かが傷つくのはもう嫌なの。あたしがトワを倒したら、あなたも死ぬんでしょ。あたしにあなたを殺せって言うの……?」
心というものは、想像以上に厄介だ。もっと合理的に考えることができたら、トワみたいに全部自分の都合だけで考えることができたら、どれだけ楽なんだろう。きっと、過去のあたしも、相当楽に生きていたんだな、と今更ながらに思う。
このぐちゃぐちゃな気持ちを表現したいとき、あたしは、どういう言葉で説明すればいいのだろうか。
トワツカは目を見張った。瞳の奥がきゅっと小さくなっている。
「何を言っている? 傷つく? 俺だぞ……。トワ様の使いの者だぞ。俺が死のうが、悲しむ者は誰もいないし……何を言っている?」
「……あなたは、発言が色々と矛盾してるのよ。トワの使いなの? トワの使い失格なの? どっちなの?」
「……は?」
「あたしだって……もう、どうすればいいのか分からない。何が一番いいのか、あたしが何をしたいのか、もはや分からないのよ」
知らないうちに、あたしの瞳からは涙が流れていた。最近において涙腺が緩いことは自覚していたが、この人の前では見せたくなかった。あたしの涙なんて、何の価値もないのに。トワツカの真っ直ぐな瞳が、動揺したように震える。なぜか悔しさも出てきて、あたしは唇を噛み締めた。
桜を救いたい。梶世登も守りたい。トワツカも殺したくない。でもトワは倒したい。
あたしは涙を拭うことなく、ただトワツカと対峙していた。目を擦ると、白目に赤みが長いこと残ってしまう。だからあたしは、ただ涙が止まるのを待った。早いところ、この涙をなかったことにしたいのだ。
だから、雨、早く降ってほしかったのに。
「……悪い、混乱させるつもりはなかった。……ただ俺には、何がお前を混乱させたのか、よく分からない。俺にはまっとうな感性がないから、普通の人間の気持ちが分からないんだ」
するとトワツカがそう言って目を伏せた。形の良い鼻筋や唇が、あたしの目にくっきり染みる。心臓にズキンときた。
違う。あなたにまっとうな感性がないわけじゃない。ただ、あなたは自分を軽んじすぎているだけ。
「……分かった。もう、今はそれは考えるな。悪かった。ただ、お前がしなければならないこと、一つは確定している。分かっているな」
彼の赤い瞳が、あたしの青い瞳を貫く。
「……ええ、分かっているわ」
桜に真実を、自分の口から伝え、謝ること。
きっともう、桜から、下手だけどだいぶ上達してきた手料理をつくってもらえることも、楽しくしゃべりかけてくれることも、あの優しい笑顔を向けられることも、なくなるのだろう。それどころか、憎悪の視線を向けられ、軽蔑されるに違いない。
本当はそれが当たり前のはずなのにね……。
涙が止まらない。あたしの体内から水分が出尽くしてしまうのではないかと思うほどだ。くすんだ涙が、容赦なく土に染み込んでいく。
トワツカはゆっくりとあたしの前にしゃがみ込み、あたしと目を合わせた。唐突な彼の行動に、少し体を固くする。すると彼の赤い眼差しがあたしの目を見据えた。皮手袋に包まれた右手が伸びてきて、あたしの頬に触る。トワツカは親指であたしの目の下を強く擦った。
「俺の前で……泣くな」
トワツカはそのまま手をずらし、あたしの長い髪をあたしの耳にそっとかけた。
「涙を流すのならせめて、桜に対する
「……」
あたしは何も発すことができなかった。擦られた目の下が疼き、熱くなる。余計に涙が溢れてきそうになって、あたしは舌を強く噛んだ。口の中で鉄の味がじわりと広がった。
「俺はあんたを憎んでいる。当たり前だ、赦せるはずがない。だからせめてあんたは……自分の行くべき道を行け。道を違えるな。せめて、今のあんたの心を貫き通せ」
「……ええ」
「一生かけて、罪を償え。苦しむ道を選べ。あんたが、一番苦しいと思う道を選ぶんだ。それでもあんたは罪を償い切ることはできない」
……そうだ。あたしがしなきゃいけないのは、逃げることではない。
あたしが、一番苦しいと思う道を選ぶ。
それが、あたしが桜のためにできること。
それって何だろうと逡巡し、あたしは一つの結論に辿り着いた。
……そっか。あたしが一番苦しいのは、桜に嫌われること。見放されること。会えなくなること。
桜に、殺されること。
そう思った瞬間、一気に口の中が乾燥し、喉が締め付けられ、息がしにくくなった。自ら死のうと思ったときより数十倍、体の拒否反応が激しい。『全てを知った桜に殺されること』に、あたしが思う苦しみが全て詰まっている気がした。
これだ、これこそ、あたしへの最大の罰。
こんなこと言ったら、トワツカには怒られるかもしれない。何となくそう思った。だから、言わない。彼に心配をかけたくはなかった。
……本当に、本当にもっと早く、あなたと出会えていればよかったのに。
「楽なんてさせやしない。ずっと苦しませてやる」
彼は言い、あたしは頷く。
ええ分かってる。あたしは、苦しまなければならない。きっと、あなたが想定している以上の苦しみを自ら浴びにいくから、見ていて。
強気な心持ちに無理やり変換できたためか、自然と涙は止まってくれた。ただあたしは、一歩踏み外せば狂ってしまいそうなこの感情を、体の芯のほうで何とかコントロールして保っている状態であり、とても不安定である。
でも、今はまだ、崩さない。桜に全てを伝えて、謝るまでは。
「覚悟はできたか」
「ええ。心を決めたわ。あたしはもう、逃げない」
「ならば、早く浅西桜のところへ行こう。俺の裏切りを知ったトワ様が、俺に対して何かを仕掛けてくるかもしれんしな。何か起こる前に、早く」
確かに、急がねばならない。トワツカは自分の身の危険を冒してまで、あたしに全てをぶつけてくれたのだから。今トワがこの状況を見ているのかどうかは分からないが、あたしたちに直接攻撃はできないはずだし、何も起きていないうちに行動するのが吉だ。
トワツカは徐に立ち上がると「立てるか」とあたしに手を伸ばした。あたしはその手を振り払って自力で立ち上がった。膝の震えなど、もう止まっている。
「自分で立てるわ」
するとトワツカは満足そうに、優しく頷いた。
「そう、それでこそ、今のあんただ」
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