50 止まらぬ涙

 ポツッ、と雨の降り始めみたいな音が響いた。僕は視線を巡らせてみる。どうやら雨ではなく、デビル・レディの頬に伝っていた涙が、木目の床に落ちたようだ。


「……レディ」


 桜が、喉の奥から捻り出すかのごとく声を出した。使い古された弦楽器の弦がもう間も無く切れるかのようにも感じられた。何かを思い出すみたいにぼんやりとしていたデビル・レディは、呼びかけに応じてゆっくり桜の方に顔を向ける。


「……どうしてもっと早く言ってくれなかったの。ひどすぎるよ、レディ」


「……うん」


「私、恨みたいよ。憎みたいよ。私の家族を殺した人なんて、地獄に落ちてほしいって思いたいよ」


「うん」


 彼女は静かに頷いた。乱れた髪の毛がくっついたせいで翳った口を小さく動かす。


「だから、あたしを殺してよ。あたしを苦しめて」


「……ねえ、本当にひどいよ。残酷すぎるよ……」


 桜はデビル・レディを見つめたままそう言うが、微動だにしない。彼女に近づくこともなければ、床に落ちている拳銃を拾おうともしない。トワツカがかけていた術は解けたはずなのに、体が固まって動けないみたいに見える。


 その床に落ちていた銃を拾ったのはトワツカだった。彼は、持ち味を確かめるようにグリップを数回握った後、桜の揺れる瞳を見つめる。


「……確かに、こいつの行く末を決める権利は浅西桜、お前にあるのかもしれない」


 彼は、手のひらを上に向け、その手の上に拳銃が置かれている状態にした。


「だが……だがな、俺は、何もしないことをお勧めする。お前がデビル・レディを殺したところで、お前も永遠に苦しむだけだ。もちろん、こいつのことを赦してやれとも思わないし、お前が俺のこと嫌っているのも承知の上で発言している」


 トワツカは一息にそう言い、真っすぐな眼光を桜に向けた。


 僕は、トワツカという人は不思議な人だ、とつくづく思う。


 トワ様に仕えるという役割を持っているのに、トワ様に背いたような言動を繰り返している。そして、デビル・レディとは敵同士であるはずなのに、彼女とは極めて奇妙な関係で結ばれている気がする。


 ……トワ様……。


 偉大なる統治者、トワ様について考えてみた。ここで出た話によると、トワ様は、僕の記憶を消した。桜の存在を消した。桜の家族の存在を消した。桜の家が燃やされた例の事件自体の存在を、消した。


 頭がおかしくなってしまいそうだ。トワ様は、可術地方の偉い人曰く『歴代で最も称賛されている統治者』ではなかったのか。それは見せかけで、実際は自分に不都合なことを消去していただけなのだとしたら、今まで僕たちが崇めていたトワ様とは、一体……。


 そんなことを思っていると、桜は僕から離れ、トワツカの手の平から銃を持ち上げた。僕はハッとして息を飲む。トワツカの頬もピクリと動いたように感じた。しかし止めることはせず、ただ黙って見ている。


 カチャリ、と銃を動かす音がする。


 桜はその銃の引き金に指をかけ、デビル・レディの顔面に向けた。


「……」


 沈黙が走る。


 デビル・レディは瞳いっぱいに涙を浮かべ、決心したように目をぎゅっと瞑った。


「……怖いでしょ」


 桜の声に、デビル・レディはおそるおそる瞳を開け、「……え」と呻くような声を上げた。すでに銃口は床に向いていて、引き金から指は外れていた。


「銃をこうやって向けられて、怖かったでしょ。銃なんて、特にさ、使ったことない人にとっては恐怖の塊でしかなくて……まあ、だから私は登の復讐の時に使おうとしたんだけど」


「……」


「レディが謝るべき相手は、私じゃないよ。お母さんやお父さん、広美さんに秀美さんだよ。……でもね」


「……でも?」とデビル・レディのカサカサの唇が小さく動く。すると、桜の目の縁がぼやけ、輪郭が曖昧になった。


「私も結局、レディと同じよ。そんなこと、偉そうに言える立場じゃない……」


 唐突に、桜が銃を叩きつけるように床に投げた。銃は二回ほど床で跳ね、壁際に回転しながら飛んでいく。その音の余韻が、耳の奥に溶けた。


「私は、謝られるような、そんな価値のある人間じゃないの……。私だって、登を殺そうとしたんだもん」


 急に自分の名前が出てきてハッとした。しかし、今の話を聞く限り、桜はデビル・レディにうまいこと操られてしまっていたのだろう。そんな桜とデビル・レディは、同じ……なのだろうか。


 トワツカも僕と同様のことを思ったのか、くっと頭を傾けた。


「……浅西桜。お前が梶世登を殺そうと思ったのは、デビル・レディの洗脳の術がかかっていたからで……」


 しかし桜は、首がもげるかと思うほどに激しく首を振った。


「そんなの関係ない。登を殺さなきゃって思ったのは、私。実行しようと手を進めていたのは、私、だから……」


 桜は僕のほうに体を向け、床に蹲った。彼女のふわふわの髪の毛が勢いよく地面に触れる。


「登……本当に、ごめんなさい……」


 びっくりした。僕は慌てて「桜、やめてよ、顔を上げて」と言い、桜の細身の肩をそっと叩く。


「僕は……僕は、結果論だけど、桜には何もされていないから。それに、桜は僕よりずっとつらい思いをしているんだから、そんなに自分を責めないで。……やっぱり僕は、壊れた桜なんて見たくないや。前に、興味あるとか言ったけど、もう絶対に見たくない」


「……」


「それに、謝らなきゃいけないのは僕もだよ。僕のほうこそ、あの時助けられなくてごめん。そしてあの後、桜のこと思い出せなくてごめん」


「梶世登……お前、とことんお人好しだな」


 不意にトワツカが口を挟んできた。僕は視線を彼の方に向ける。彼は呆れたようにフンと鼻を鳴らす。別にお人好しではないです、と言おうと思ったが、寸前でやめた。僕にはもっと他に、彼に言いたいこと……というか、訊きたいことがあるのだ。


「……あの、トワツカ……さん」


「敬称はいらないと言っただろ。何だ」


「あ、えっと……桜は……今どうなっているんですか。どういう状況なんですか」


「……と、いうと?」


「つまり……浅西桜という存在を、取り戻せているんですか。僕は桜のことを思い出しましたが、他の人は桜のことを……」


 桜は、桜としての存在を取り戻しているのだろうか。というか、僕たちはこれから一体どうなるのか。どうなってしまうのか。


 トワツカは、質問が下手な僕の思考をしっかりと読み取ってくれたらしく、ゆっくりと頷いて腕を組んだ。


「しばらくしたら周りの人たちも順々に思い出すさ。知らないか? 記憶の術と存在の術は密接に関わり合っているんだ。お前の記憶が戻ったことにより、この世に対する浅西桜の存在は現在進行形で復活しつつある。また、それぞれの存在はそれぞれに影響されあっているから、このままいけば、浅西桜の家族の存在も戻っていくかもしれない」


「そうなると、蝦宇玲未としての存在はどうなりますか?」


「残る。この世に、浅西桜と蝦宇玲未がどちらも存在していることになるはずだ」


「そうですか。よかった……」


 僕はほっとため息をついた。桜は悲しみを背負い込みすぎている。せめて存在を取り戻すくらいのことがないと、あまりにも不憫だ。


 すると蹲っていた桜が、暗い顔を上げた。涙で髪先が濡れてくっついている。セーラー服のリボンは外れかけていた。


「……私の、浅西桜としての存在が戻るのは、私の体を治療してくれ、『入れ物』を買ってきてくれ、登の記憶が戻る方法を考えてくれた、レディのお陰ではあるのよね……」


「お前の体が治療される原因となったのは、昔のそいつのせいだが?」とトワツカが口を挟む。相変わらず腕は組んだままで、壁に凭れて座り込んでいるデビル・レディに視線を投げた。桜は、重い荷物を持ち上げるように立ち上がり、伏せていた瞼をゆっくり持ち上げた。


「分かっているわ、そんなこと。ただ……言いたくなっただけ」


「……そうか」


「私は、存在を消された悲しさを知っている。だから私はもう二度と、存在を奪われたくない。それこそ、私が死んだとしても、私のことを思ってくれる人が欲しい」


 桜は、デビル・レディに背を向けながらそう話す。これからの決意表明のように聞こえた。体がわずかに震えている。僕は思わず桜に手を伸ばした。


「桜、帰ろう」


 桜のすらっとした綺麗な手を握る。とても冷たい。


「藍花も、きっと桜を思い出してる。絶対会いたいってなってるよ。瞬も、蝦宇さんの正体が桜って知ったらびっくりすると思う。僕も、桜とゆっくり色々話したいことがあるんだ。だから、帰ろう。ね?」


 僕は微笑む。普段の会話で出るような微笑みが自然と出た。桜は一瞬真顔になった後、真っ赤になっている目元をさらに赤くさせた。


「でも、私は……私は……」


「ん?」


「私は……」


 桜は何かを言いかけたがそこから言葉は出ず、伴って動作も固まってしまった。僕は彼女の手をただ握りしめる。彼女の氷のような手を溶かすように。


 僕は、桜の後方にいる二人に目を遣った。デビル・レディはずっと同じ体勢で座ったまま、魂が抜けたような表情をしている。一方のトワツカはそんな彼女を横目で見ていた。決して軽蔑したり呆れていたりしている目じゃない。あの二人の空間には、僕には到底入れない気がした。あの関係を理解しようとすることは不可能なのかもしれない。


 彼らのさらに後ろには、白い顔をした蝦宇さんが寝そべっていた。ずっと同じ場所で、一ミリも動かない。やっぱり彼女は人形……『入れ物』だったんだ、と改めて感じた。


「……ねえ、登……」


 今まで固まっていた桜が不意に動き出した。僕にしか聞こえないくらいの、囁くような小声だ。声のトーンからして、さっき言いかけたことを言おうとしているのではなく、別のことを話すようだ。新たに何か僕に伝えようとしてくれている。


「……何?」


「言い訳みたいに聞こえるかもしれないけど、聞いてほしいことがあるの」


「うん。聞かせて」


 僕が頷くと、桜は静かに頭を掻いた。セーラー服の裾が僕のブレザーのポケットに触れる。


「私、登の笑顔を見ると、いつもすごく心がもやもやしたの。あまりにも純朴な笑顔だから……登の笑顔を見たときは多分いつも、ぎこちない対応になっていたと思う」


「……桜」


「殺さなきゃって思っても、本当は、本当は心のどこかで殺したくなかった。でもそんなときは、私のためじゃない、家族のために殺す必要があるのって、自分を納得させてきた。……馬鹿みたい。もっと自分の気持ちを見つめていれば、気づいていたかもしれないのに」


 一体彼女は何度泣けばいいのだろう。桜は何度目かの涙を瞳に浮かべた。ただ、今までの表情と比べて今の桜の顔はほんの少しだけ緩くなっている。そして悲しみや悔しさ以外の様相も含まれている。


「登……私は、ずっと嘘つきだった。私ね、中学の頃から、登に言えていなかったことがある」


「……?」


 真っすぐで潤んだ視線は僕に向けられ、トワツカとレディには完全に背を向けている。そして桜は、音が聞こえるくらいに大きく息を吸い込んだ。


「私は……私はね、登が……」


「梶世登っ、伏せろ!」


 突然、トワツカの大声が空間に響いた。鬼気迫る表情の彼が、部屋の奥の方から僕に向かって何かを投げる。


 急に物騒な現実に引き戻された気分だ。僕は慌ててしゃがむ。すると、トワツカが投げたその何かに、どこからか飛んできた黄色い光線がヒットした。投げられた物体は光線を跳ね返すと、床を抉るように落ちる。


「梶世登、それを持って盾みたいにしろ。早く!」


 トワツカの語調に押され、僕はその物体を拾い上げた。ぱっと見、何なのかが分からない。色は真っ黒……というか、焦げているようだ。一部溶けたり割れたりしているが、手の平を広げたような形をしているのは分かる。置物のようだ。


 戦慄が僕を貫く。この置物には、見覚えがあった。


「……これ、どうしてあなたが持って……」


「そんなことはどうでもいい。それはトワ様の術を跳ね返してくれるんだ。絶対に手放すなよ」


「は、はい……って、トワ様の、術……!?」


 僕は狼狽えた。桜も、何が起きているのか分からないといった表情で呆然としていた。デビル・レディも座り込んで壁に凭れたまま、目を見開いている。


 すると突然、その声は現れた。


『フン、まあこんな程度の術は、当たらぬか……』


 体全身に響き渡る声。心臓を捻り潰されたかと思った。塔の中にいる全員が、突然聞こえてきたその声に反応する。


 何、この声……。


 ただの声ではなかった。言葉が、心に浮かび上がるような感じがするのだ。文字の羅列を読むイメージ。声が大きいとか高いとかしわがれているとか、そういう声量や声質の問題が消失している。


『まあ、まともに当てる気なんてなかったからどうでもいいのだがな』


 再び誰かの呟きが心に浮かぶ。と同時に、メキメキッという体の芯に響くような音がしたかと思うと、天井の破片が崩れ落ちていく。落下してくる瓦礫もあれば、重力に逆らって上昇していく瓦礫もあった。崩れた破片は、部屋の奥で倒れている蝦宇さんの体を完全に隠した。


 開いていく天井の隙間から、目が眩んでしまうほどの強い光が差し込んできた。床に、僕たちの黒い影がくっきりと映る。


「この光は……一体……」


 思わずそう声を漏らす。すると、僕の視界の端でトワツカが胸を押さえながら数歩後ずさりした。そして彼は光を見上げる。


「トワ様だよ」


「……えっ?」


「これこそ……この光こそ……トワ様だ」

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