9 消された存在

 翌日、教室に入ると、目の前には藍花が待ち構えたように立っていた。彼女は僕の腕を引ったくるように掴むと、教室の角へと連れていく。


「え、何?」


 尋ねるが、返事はない。よく見たら藍花はひどく強張った顔をしていた。いつも屈託のない笑顔をしているのに、これはおかしい。


「……藍花、どうしたの?」


 僕はドキドキした。もしかしたら可術地方に行くことが親にばれて揉めたのではと冷や汗が出た。そうだったら僕のせいだ。


「……ねえ」


 藍花の瞳に、いつもは見られないハイライトが入る。そして彼女から出てきたのは、予想外の言葉だった。


「登が夢に見た少女ってもしかして、髪の毛がふわふわで睫毛が長くて、私たちの中学のセーラー服着てる、かわいい女の子?」


 僕はその勢いに戸惑った。前に僕の言ったことを復唱しているみたいな感じだ。一体何のための確認なんだろう。前のときは、そんな説明じゃ分からないと言っていたのに。


「そうだよ。だから、そうだって言ってる……」


「私も見たの」


 被せるような唐突の言葉に、僕の言葉は掻き消される。藍花がどういう意味でそれを言ったのかがすぐには分からず、僕は硬直した。まるで自分が石像になってしまったかのように、動けなかった。


 そして僕が理解するより早く、藍花は少し震えている口を動かした。


「夢で、見たの。昨日の夜……寝てたら、見えたの。登が言ってたまんまの女の子が、目の前に現れて」


 藍花から感じたのは、彼女自身の気持ちを表すかのような、たどたどしい言葉遣いだった。


「え……」


 どういうこと? あの少女の夢は、僕の記憶について関わっているんじゃないの? 記憶を無くしてなどいない藍花が、彼女の夢を見るなんて……。


「藍花は、記憶喪失だったりしないよね?」と僕は念のために訊く。


「しない。してないはず」


「じゃあ、一体どうして……」


「……あの女の子は、登の記憶喪失とは関係なかったってことなのかな」


 藍花が呟くように言う。僕は「関係ない?」と素っ頓狂な声を上げた。


 でも、確かに「関係ある」と断言はできない。だって、僕の記憶喪失については何も分かっていないのだから。僕の知らない女の子の記憶だったから、記憶喪失の件に関係あると、勝手に思い込んでしまっていた。


 余計に分からなくなった。じゃあ、あの子は一体誰なんだ? 僕も藍花も関わっていて、どうして二人ともその子に見覚えがないんだ? それとも、関わってはいないのか? 関わりもないのに思い出すのか? どうして……。


「もし私たちに関わりがあるとしたら、きっと中学のときだよね、制服がそうだし」


 藍花が言い、取り出したスマホを僕に見せながらスクロールしていく。どうやら中学生のときに撮った写真を振り返り、その少女のことを思い出そうとしているようだ。ちなみに僕は、スマホを持ち始めたのは高校からなので、見返しても意味がない。


 中学でのスマホの持ち込みは禁止されていた。そのせいか、一瞥したところ私服の写真が多い。これじゃああんまり参考にはならないかな、と思ったとき、僕はふと違和感を覚えた。


「藍花、自撮り好きなの?」


「え?」


 藍花は眉を顰めた。じとっとした目つきで僕を見つつ、「別に、自撮りくらいするよ」と呟く。僕はゆっくり首を振った。


「そうじゃなくて、自撮りが……ほとんど全部一人でうつってるからさ。一人の自撮りを否定してるわけじゃなくて、写真に一人でうつるのは嫌みたいなことを前に藍花が言ってた気がしたから」


「一人? 私、一人で自撮りは撮ったことないよ。登の言う通り、一人で写真うつるの何か嫌だから、いつも友達と……」


 そう言い、藍花は写真フォルダの中の一枚を適当にタップする。


 その瞬間、藍花の瞳がハッと見開かれた。


 それは、藍花が一人で自撮りしている写真だった。背景には近くのショッピングセンターの前にあるペンギンのキャラクターのモニュメントがある。写真の右側には、人が一人入りそうな、奇妙な空間があった。


「何、この写真……」


 零れ出た藍花の声は、震えて消えそうだった。「撮った記憶ないの?」と僕は尋ねる。


「ない、というか……。いや……正確にはね、ここに行った記憶はある。モニュメントの前で写真も、多分撮った。でも私、こんなところに一人ではいかないし、単独で自撮りもしない。間違いなく、誰かと写真を撮った。でも、誰と一緒にいたか覚えてないし、うつってない」


 藍花は脱力したように壁にもたれかかった。混乱しているのが、目に見えて分かる。僕だって同じ感情だ。複雑な迷路へ誘われ、迷い込み、出口が分からなくなってしまった。


 藍花は無気力に指をスライドさせていく。同じ日の写真はほとんど全て同じ感じで、藍花が一人でうつっていた。たまに、二人分の食事がうつった写真や、特に目立つものもうつっていない単なる景色の写真もあった。


 スライドしていくうちに、同じ日に撮った動画が見つかったようで、藍花は再生ボタンをタッチした。混乱から生じた手の震えがあったのかなかなか反応せず、何回目かでやっと反応していた。


 画面は回転抽選器による抽選会の様子を映していた。多分前の写真と同じ場所だろう。館内放送と人々のざわめきが耳に入る。奥の方に頭に捩じりはちまき巻いたおじさんがいるが、ガラガラと回す装置の前には誰もいない。


『お嬢ちゃん、いけっ!』とおじさんの濁声が響く。『当たりの玉、出ろー!』という藍花の声もする。声の響き具合からしてこの動画を撮っているのが藍花だろう。


 すると、あり得ないことが起きた。


 誰も何もしてないのに、抽選器がひとりでに回り始めたのだ。自分の意思を持っているかのように、ひとりでに。


「何……これ……」


 僕はそう言わずにはいられなかった。しかし画面の中の人々は、怪奇現象が起こっているというのに誰も騒ぎ立てない。


 抽選器の箱が一周すると、口からコロッと音を立てて白い球が出てきた。


『ああー、残念! はいティッシュね』


 何もないところにポケットティッシュが差し出される。するとすぐにそれは見えなくなった。まるで砂糖がお湯に溶けて跡形もなくなるように。


『うわー、――も安定のティッシュ、ふっふふっ』


 藍花の笑い声が聞こえる。その声とともに画面が上下にぶれる。そこで動画は終了になった。


「……」


 これは一体どういうことなのか。藍花に聞きたかったが、藍花だってそれは聞きたいだろう。藍花の顔色は蒼白になっていた。餌を欲しがる魚みたいに、口をパクパクさせている。


「……私……意味分からなすぎて頭おかしくなりそう」


「……僕もだよ」


「一人で物が動いてるんだよ? ティッシュが突然消えてるんだよ? ねえ……」


 藍花はスマホをぎゅっと握りしめた。窓の外で一群のカラスが羽ばたいていく。最後尾にいたカラスが窓枠の外に消えたくらいのタイミングで、藍花は「……思ったことがあるんだけど」と切り出した。


「……何?」


「あの、まずね。……私、今まで、この写真とか動画とかに対して、特に何も感じなかったんだよ。別に今回初めて写真とかを見返したわけじゃないもん。今までだって、見返してたと思う。でも、今みたいに変に思ったことなんてない。こんなこと初めて」


「うん……」


「今ね、自分の中学時代をしっかり思い返してみたの。そしたら私、中一と中二のとき、学校とかで一緒に行動してた友達がいなかった。常に一人で行動してたの」


「え、そうなの? そうだっけ?」


「でも、そんなはずない……。わかんないけど、私のそばに誰かいたはずなの。写真とか見てもそうだと思うでしょ。だから私、考えたの。ねえ、これってあれじゃないかな」


「あれって……?」


 藍花は躊躇いがちに目を伏せたのち、発言を決心したように顔を上げた。


「禁断の術その一、存在を消す術……」


「禁断の術……!?」


 脳裏に、図書館で見た書物の一ページが蘇った。


『 禁断の術  一、存在の消去

        二、悪魔化

        三、記憶の消去 』


「その子、術をかけられたってこと? その禁断の術を?」


「だって、そうとしか考えられない。……もし登の件がなかったら、ただの違和感としてスルーしてたと思う。でも、登だって禁断の術をかけられてるのかもしれないんでしょ? だったら、あり得るよね」


 そんなまさか、と思った。こんな立て続けに、禁断の術だと思われるものがまた一つあらわれるなんて。そんなことあり得るのか……。


 でも、この写真や動画で起こっていることは、術で誰かの存在が消されたせいだという説明が一番しっくりくる。そして僕はある考えに辿り着いた。


「じゃあ、それで……その術で消されてしまったのがもしかして、僕や藍花が夢で見たあの女の子……?」


 脳裏に蘇ってくる。ふわふわした髪、長いまつ毛、微笑んだ口元。


「……私は、そう思った」


 藍花はこっくり顔を動かす。体が強張っていたのか、機械みたいな動きだった。言葉も途切れ途切れだ。


「だってその子、私たちの中学のセーラー服だったでしょ? 私たちの同級生、だったのかも。というか、ずっとそばにいた、私の、友達……」


「……」


「でも、何で? もしそうなら、何でその子は存在を消され、どうして私たちは今……何で今、その子を思い出しかけてるの?」


 疑問符だらけの言葉。もちろん僕が答えられる質問なんてない。藍花も、僕が答えを知っていると思って言ったわけではないだろう。


 僕は耳の後ろ辺りが熱くなっているように感じた。心拍数が高まった時、決まってこうなってしまう。僕は落ち着こうと、ゆっくり息を吸い込んで吐き出した。途端に朝の教室のざわめきが耳に入ってくる。ああ、朝ってこんなに教室うるさかったっけ、と変な懐かしさすら感じた。


「……ねえ藍花、気になったんだけど、さっきの動画もう一回見せてくれない?」


 少しだけ鼓動を整えてから、僕はそう言った。さっきの動画で気になることがあったのだ。藍花からスマホを受け取ると、僕は再び動画を流した。


『うわー、――も安定のティッシュ、』


 ここで僕は一時停止をした。鼓動を整えたと思ったのに、さっきの藍花と同じで、指が震えて危うく停止ボタンを押し損ねるところだった。


「藍花、これ何て言ったの?」


 ちょうど聞き取れないのだ。藍花が何かを言ったことは明白であるが、言葉が一切分からない。最初の語の母音の断片すら聞き取れない。


「……分かんない。人の名前だとは思う。だから、多分その子の名前……」


 藍花は首を横に振り、目を伏せて小さくため息をついた。僕もつられて息を一つ吐く。


「訳が分からないね……」


「本当に……。でも、可術地方の研究者の人なら、何か色々知ってるよね? 私、このこと、登の研究のときについでに相談してもいいかな」


「うん、した方がいいと思う。僕の記憶喪失に関係してる可能性も、もちろんあると思うし」


「……誰かが禁断の術をかけたのなら……何のために……? 誰がこんなことを……」


「……」


 すると、後ろから「どうしたの?」と声がした。こんな気持ちじゃなきゃ心躍る声なのに、と僕は振り返った。蝦宇さんが微笑んで「おはよ」と言った。


「二人きりで……、教室のこんな隅っこで、何見てるの?」


 いつもだったら朝から元気な藍花だが、今日は覇気がなく、無言で蝦宇さんにスマホを差し出した。そんな様子を見て蝦宇さんも、雰囲気が普通じゃないことを嗅ぎ取ったのか、黙ってスマホを受け取った。


 藍花が提示していた動画を一通り見終えた蝦宇さんは「何これ……」と声を震わせた。


 その後藍花が、僕らが立てた仮説を説明する。すると蝦宇さんはさっきにも増して瞳を揺らした。スマホに釘付けになったまま、黒目を振動させている。


「こんな動画……こんなのってないよ……。信じられない。……存在を消された人が、こんな……」


 蝦宇さんはそう言い、目を潤ませた。そこまでいくとは思わなかったので僕も藍花も少し慌てた。


「えっ、玲未、ごめん、私そんなつもりじゃ」


「蝦宇さん、ハンカチ……いる?」


 蝦宇さんは無言で首を振ると唇を噛み締めた。そしてゆっくりとした手つきで藍花にスマホを返す。


「だって、ひどすぎるじゃない。消された子の気持ちを考えると、やりきれないよ」


 芯のあるような真っすぐな瞳が震えている。蝦宇さんのその目に、僕は思わず見とれてしまった。蝦宇さんは、やはり優しい。


「玲未、優しいね」


 藍花も僕と全く同じ感想を言った。藍花も蝦宇さんのがうつったのか、少し涙声になっていた。


「危ねっ、遅刻するかと思ったー……。あれ、登たち、何してんの?」


 突如、瞬の声も飛んできた。その言葉の内容で時計を見上げると、いつのまにか後数分で朝のホームルームが始まるという時間になっていた。僕は急いで動画を見せ、概要を説明する。瞬もやはり驚いたようで、腹の底から出したような「え」という声とともに、その動きが止まった。チャイムが鳴らなければ、ずっと固まっていただろう。


 その後いつもと変わらず授業を受けたが、全く頭に入らなかった。授業中当てられなくて本当に助かった。放課後になるとさすがに藍花も蝦宇さんもそこそこ元気を取り戻していたようだが、表情のどこかにやるせなさが見え隠れしていた。


 それも仕方ない。新たな謎が浮上したのだから。


 でもそんな術をかけるなんて、本当に、一体誰が、何のために……。


 あの少女の笑顔が、脳内で再生される。僕は言いようのない不安に苛まれていた。

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