10 夜の戯れ言

「また来たのか」


 その声に、ビルの入り口の前に立っていた女性はゆっくり振り返った。サングラスごしの目は少し血走っているように見える。


「全く来なかったかと思ったら、最近は立て続けに……。意味が分からん」


 赤髪の男性は右手を腰に当てて、そう吐き捨てた。月の明かりが男の右目を怪しく赤く輝かせる。コツコツと、男性が歩く足音が周りに響く。この辺りにほかの人気ひとけは全くない。


「まあ何にせよ、統治者の使いとして宝石を奪われるわけにはいかないんだ」


 すると「悪いわね」と女は唇をめくり、にやりと笑った。


「そんなんで来たんじゃないわ。もう別にいいの。もう終わりよ。明日……うまくいけば、終わる。だから……このふざけた街に別れを告げようと思って」


「は……?」


「ついでにあんたにも、せっかくだから会っておこうと思ってね。今日に限って来なかったらどうしようかと思ったけど、あたしが統治者の領域に入ろうとすれば、やっぱり来たわね」


 女性はサングラスを頭の上に掛け、流れるような手つきで自分の顔の輪郭をなぞった。長い爪が白い肌を這う。


「さあ、今がチャンスよ。あたしを殺さないの? トワの使いとして、あたしを殺さないといけないんじゃないの?」


 女性は煽るように両手を広げ、男性を見つめた。男性は行動を起こすような素振りは毛ほども見せず、ただ瞳孔を小さくした。何かに気づいたようだ。


「お前、まさか……逃げるのか。何も言わず、そのまま……」


 女性はフンと鼻を鳴らし、蔑むような眼をした。サングラスが剥がされ露わとなった紺青色の瞳が、妖艶に光る。


「さあ? 何のことやら。ただ、あたしは悪魔の女、デビル・レディよ。何においてもいくらかの卑怯さは当然」


 自らをデビル・レディと名乗った女性は、高らかに笑った。風が吹き、辺りに植わっていた木々が揺れて、葉にたまっていたと思われる水滴が一滴零れ、地面に跡をつける。


「……お前、最初からその気だったな。ということは、この前言っていたお願いとやらもその類か」


「何のことかしら?」


「どうして明日、うまくいけば終わるんだ。何が起こるんだ。そもそも、お前……どうして今更動き出した? どうしてこのタイミング逃げようと思ったんだ」


 怒涛の質問攻めに対し、デビル・レディという女性はニッと口角を上げた。軽く俯き、再びサングラスを目の位置に戻す。


「あんたってさ、力は強いくせに情報は遅いわよね。ま、それがラッキーだったんだけど」


「……悪かったな。お前が出現しない限り、俺は制限付きでしか動けない。いわば俺は、対お前兵器だ。ほかのことはトワ様自身がするから、情報を仕入れる暇も、仕入れる術も、持ち合わせていないんだよ」


「あら、本当に惨めな人。まあいいわ、あたし、もう帰るから」


「おい、お前っ」


 男性は唾を飛ばしながら手を伸ばした。この前と同じ、蔦が伸びていく術が発動される。ただし今回のものは前回のと比べ、威力がまるで違って強大だった。今回の蔦は、一度掴んだらもう二度と離さない、そんな威圧感を帯びていた。


「本当に逃げるのか。自分のしたこと分かってんのかっ」


「分かってるわよ。……だからあたしは悪魔の女なのよ」


「は?」


 蔦はデビル・レディへと向かっていく。それが彼女に到達する前に、彼女はパチンと指を鳴らした。すると、彼女の髪の毛の中に潜んでいた『悪魔の顔がついた黒い靄』が勢いよく飛び出し、蔦を押し留めた。数秒の後、蔦だけが霧散する。


 彼女の首筋には血管が浮かんでいた。夜風が冷たいはずなのに、一筋の汗も流れている。術に対抗して体力を消費しているのだろうか。


 デビル・レディはふうっと息を吐くと、改めて男性の顔を見た。


「安心して。逃げるって何の話? 極悪人のあたしは、のうのうと悠々自適に過ごすわよ。あたしが逃げるような女に見える? 悪魔の女なのよ」


「……世紀の大怪盗、悪魔の女デビル・レディ……か。そういえば、そんなやつがいたな」


 男性が独り言のように呟く。デビル・レディは彼の言葉にあからさまに顔を強張らせ、「目の前にいるじゃない、どういう意味よ」と言った。さっきまでは余裕のある表情を見せていたのに、一変している。一方、そんなこと知ったことないというように男性の口は動き続ける。


「統治者の物だろうが人間の物だろうが、宝石だろうが……あるときは命だろうが、見境なく奪い続ける最低最悪の悪魔。それが、お前……だっけ」


 デビル・レディは「……そうよ。それで、何が言いたいの」と何かに耐えるように拳を握りしめた。


「それが今やどうした。この前を振り返ってみろ。傍から見れば宝石を盗む大悪党だが、実際は言葉だけ繕って虚勢を張り続ける人。俺は情報は遅いが、直に見たものにはそれなりに自信があるんだ。そう、見れば分かる。お前の本心は、何となく分かっているつもりだ」


「……虚勢、ですって? あたしを見下してるの? そういうあんたも、前回の蔦の術とか、今回のとは違って全然本気じゃなかったじゃない」


 デビル・レディはひくりと眉を上げ、鬼のような形相をして言う。しかし男性は彼女の言葉を無視して続ける。


「そこまでして……お前は結局……何がしたいんだ?」


 男性の口から発されたのは、深く沈むような、それでいて辺りに広がるような、そんな低い声だった。


「お前が過去に、執拗に統治者の宝石を狙っていたのは……それが統治者たちが自分から発せられる光を使って生み出したものであり、それに溜まっている莫大な力を手に入れるため、だろ? そうまでして力を手にして成し遂げたかったことは、一体何だ」


「……さあ、何でしょうね」


 彼女の声は震えている。男性は鼻を鳴らした。


「答えたくないってか。まあいい」


「……」


「……お前、俺と協力しないか?」


 唐突に、本当に唐突に男性は言った。デビル・レディは一歩身を退ける。いつもはしなやかな身のこなしで動くヒールの足も、今ばかりはふらついた。


「……何を言っているの?」


「俺はお前が、何に躊躇っているのか分からない。トワ様のこと、嫌いなんだろ? なのにどうして、行動を起こさないんだ」


「は?」


「もしお前が……」


「あたしが、何よっ」


 デビル・レディは男性を睨みながら言う。喋っていくうちにヒートアップしたようで、だんだん声が怒号のようになっている。しかしそれに対し男性は言うのを躊躇ったように口を噤んで少し俯いた。


「……言えないんだ。察してくれ」


「は……? 訳分かんない……ふざけないで!」


 デビル・レディが叫んだ。全身で叫ぶように、体を苦しげに揺らした。その勢いのまま男に殴りかかる。


 男性は軽い身のこなしでかわすと、赤い光を纏った右手を突き出した。同時にデビル・レディも青い光を巻いた腕を突き出す。眩い紫色の光が一面に散らばった。


 男性はふう、と息をつき宙がえりをして後ろの方に着地する。一方デビル・レディは光の圧に吹き飛ばされた感じに、後方に押し出されていく。足を踏ん張って何とか着地した。と同時に、瑠璃色の長い髪が顔にかかる。


 彼女の息が震えた音がした。前髪の隙間から輝く青色の瞳が覗く。海のように波打っていた。


「最後だからってあんたに会おうとしたあたしが馬鹿だった! 殺すか逃すかどっちかにしろっ! あたしを混乱させるようなことを言うな!」


 男性は黙ったまま、激しく叫ぶデビル・レディの様子を見ていた。頭に巻いてある布を直す。ちらりと見えた左目は右目とは違い、鈍く暗い光を放っていた。


 デビル・レディは自分が発した言葉に少し後悔したように、口元を押えた。そして男性をひと睨みする。


「……というかさっきから何? 『協力』とか、トワに背くようなこと言って。それをあんたが、あんたが言っていいわけ? トワに呪いの術とかなんか、かけられちゃうんじゃないの?」


 彼女が言うと、男性はなぜか悲しげに、口元に笑みを浮かべた。


「協力、と言っただけ。背く言葉はまだ言ってないさ。それに、俺はトワ様の一部だ。お前も知ってるとは思うが、誰しも、自身の一部からできたものに自身で術をかけることはできないからな。つまり、俺はトワ様の術にはかからない。だからトワ様が俺に呪いなどはかけられないんだよ、残念だったな」


「……へえ」


「ま、逆はできる。だがトワ様に術かけるなんて、そもそも俺だけじゃ能力が追い付かない。ついでに言うと、俺とトワ様は契約を交わしている。俺がトワ様にお仕えする代わりに、トワ様と同じ寿命を与えられているんだ。つまり、俺を殺したければ……」


「……んたは」


「は?」


 デビル・レディが何かを言いかけ、男性は顔をぐいと前に寄せる。彼女は口を動かし続けた。


「……あんたはトワの一部なのよね。なら……」


 彼女はここで言葉を切った。眼光を光らせ、勢いをつけるためかスッと息を吸い込む。


「何であたしを殺そうとしないのよ? あたしはこの世界の天敵よ。世界を平和に保つには邪魔な存在。トワからもそう命令されてるんじゃないの?」


 デビル・レディはヒステリックに叫んだ。青筋を立てて唾を飛ばす。


「別にあたしは特別あんたに殺されたいとか、そんなんじゃないわ。何だかんだ屈辱だもの。倒されそうになったら全力で逃げてやるし、対抗してやる。でもあんたはあたしを倒そうとしない。あんた本当にトワの使い、トワツカなの?」


「……俺は……」


 トワツカと呼ばれた男はそこまで言うと、再び言うのを躊躇うように唾を飲み込んだ。そんな様子を見て、デビル・レディは深いため息をついた。


「あたしがあんたに協力なんかするわけないでしょ。あたしとあんたは敵同士。ちゃんと分かってる?」


 デビル・レディはそう言うと、小さい声で「シニスター、帰るわよ」と言った。すると、彼女の頭にへばりついていた『悪魔の顔がついた黒い靄』――シニスターとやらが、次第に大きくなっていった。さっきトワツカの蔦の術を跳ね返した物体である。それはデビル・レディを黒く包み込むと、一気にすっと小さくなった。


 誰もいなくなった場所をじっと見つめ、その後、息を吐いて夜空を見上げた。月はもう、雲の下に隠れている。


「……俺は、もとからトワの使い失格なんだよ……」


 囁くように、トワツカは言った。


 俄かに彼は上着の内ポケットに手を突っ込んだ。そして黒くて小さい何かを取り出す。


 それは黒焦げになった、置物のようなものだった。手を開いたような形をしていることだけが辛うじて判別できる。トワツカはそれを見ると憂いを帯びた色の瞳をした。真っ赤だった夕日が、山の陰に隠れる瞬間のような、暗くて切ない色。


 トワツカは静かにそれを内ポケットに戻した。


 突然、彼の背後が眩しくなった。少しライトが灯ったとかそんな程度ではない。光源は小さいようだがそこから放たれる光はまるですべてを焼き尽くすようだった。


 トワツカはぎょっとしたように後ろを振り返った。そして、震える口を動かす。


「……ト、トワ様……」

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