12 研究所にて
目が覚めたとき、もう検査は終わっていたみたいで、瞼を開けると眩しい光が入ってきた。瞼と眼球の隙間から光がすり抜けてやってくるような感覚になり、しばらく目を閉じる。ゆっくり起き上がり壁にかかっている時計を見上げると、この研究室に入ってからすでに二時間以上経過していた。
「検査終わったよ」
沢井さんが僕の顔を覗き込んできた。人懐っこい感じににこっと笑う。
「随分ぐっすり寝てたね」
僕は思わず赤面する。すると「登、おまえ寝不足なのか?」と聞き馴染んだ低めの声がした。その方面を見ると、瞬、藍花、蝦宇さんが『入れ物』の前に並んで着席していた。なかなかシュールな絵面だ。
「瞬たちの用事は、もう終わったの?」
「終わるも何も、話だけさっさと聞かれてこの部屋に連れてきてもらったよ。梨橋はさらに、夢で見た少女のことについて研究員の人に調べてもらったみたいだけど」
「話するだけじゃなくて、私も調べてもらっちゃった。装置の術で脳波を読み取ったんだって。そんな長時間はかからなかったけど」
藍花はそう言い、自分の髪の毛を指でくるくると巻いた。すると、瞬がある方向にピシッと指を向けた。その方向には例の『入れ物』がある。
「この人形の話も研究員の人から聞いて、その後は何もすることなくしばらく待ってたんだよ」
「面白いよね、これ。まあ私は使おうとは思わないけど」
藍花がつんつんと『入れ物』を突っつく。一方蝦宇さんは『入れ物』からそっぽ向いて服の上から自分の腕をさすっていた。僕もどっちかと言えば蝦宇さんと同じ感情だ。
「玲未もこれ、触ってみなよ」
藍花のおどけた言葉に「嫌」と蝦宇さんは首を振り立ち上がった。
「ちょっとトイレ行ってくるから」
「えー、また?」
「あ、ちょっと待って」
すると沢井さんが呼び止めた。胸ポケットから取り出したボールペンをカチカチと鳴らす。
「蝦宇さん……だったよね。ちょっと待ってくれるかな。梶世くんの検査結果だけ先にちゃちゃっと報告しようと思うんだけど」
「ああ……分かりました」
蝦宇さんはそれを聞くと、素直に再び座った。長い足をきれいに揃えている。
「じゃあとりあえず僕が調べた、梶世くんについてのことを発表するね。まず……」
沢井さんが一枚の紙を持って言った、その時だった。
突然、ドアの外から「うおおおおおおお」と大きな雄叫びが聞こえてきた。少し高いトーンだが空気を響かせるような声だ。部屋の中にいる人は全員揃ってドアの方を見つめる。
「なっ、何……?」
僕は思わず声を漏らした。座っていた三人も、声がした瞬間立ち上がって数歩下がった。その後ドタドタと複数の人が走り回る音が聞こえる。
すると部屋の中にいる『アケビ』というネームプレートをつけた研究員が「あっ、もしかして」と緑がかった瞳で沢井さんの方を見た。沢井さんは少し顔を歪ませる。
「また発症したか……」
「おそらくそうだと……。ど、どうしますか」
「どうしたんですか?」
蝦宇さんが首を傾げる。沢井さんは少し迷ったような顔をした後「うちに原因不明の病をもった女性の患者さんがいるんだよ」と言った。
「原因を探究するためにこの研究所で過ごしてもらってるんだけど、時々妙な症状が出てね……」
沢井さんが言ったその瞬間、何とも形容できない金切り声が大音量で聞こえたと思うと、ドアが吹っ飛んできた。重厚そうなドアは、全く動くことのできなかった僕たちの上を飛んで、部屋の奥の方で叩きつけられた。
「危なっ……」
咄嗟に入り口を見る。そこには、息を切らしている、病服を着た五十代くらいの人が立っていた。背後には走り疲れた顔をしている別の研究員の姿もあった。きっと追いかけてきたのだろう。
病服を着ている人の、灰色の髪がかかっている顔がくっと上がった。かと思うと、髪の隙間から見える青い目がギラリと光った。
「珠李さん!」
沢井さんが叫んでその人に手を伸ばす。唾を飛ばす勢いだ。
「お願いですから落ち着いてください!」
しかし珠李さんは落ち着く様子を全く見せず、ずんずん部屋に入ってきた。僕らは慌てて部屋の隅の方に逃げる。心臓がバクバクしているのが脳に伝わってくる。
そんな中、珠李さんはターゲットを決めて狙いを定めたかのように一度ぴたりと動きを止めた。そして、その対象に向かって一気に襲い掛かった。
その対象に選ばれたのは、蝦宇さんだった。
蝦宇さんは声もあげることができないのか、真っ青な顔をして立ちすくんでいた。飛びかかってくる女性を目の前に、足を細かく震わせているだけだった。
珠李さんが蝦宇さんに今にも触れそうな瞬間、蝦宇さんは何かに驚いたように目を見開いた。
「えっ」
「蝦宇さん!」
僕は間一髪のところで蝦宇さんの体を突き飛ばした。勢いで吹っ飛んだ僕と蝦宇さんは机の角に思いきり体をぶつけてしまった。呻き声が出そうになるのを何とか堪える。何てこった、蝦宇さんを助けるつもりだったのに、蝦宇さんごと机に衝突してしまうなんて。
「ごっ、ごめん蝦宇さん、大丈……」
途端に、背後で殺気のような恐ろしい雰囲気を感じた。全身の細胞が震えるような、そんな感じ。
おそらく……珠李さんが標的を、僕に変えたのだろう。
「登! 後ろ!」
瞬が僕の後ろを指さした。分かっている。きっと珠李さんが僕に襲い掛かろうとしているんだ。
沢井さんの「何ぼーっとしてる! お前らも動け!」と周りにいる研究員たちに怒鳴り散らしている声が聞こえてきた。自分の危機だというのに僕は、穏やかそうな沢井さんでもこんな荒げた声を出すんだな、などと思った。
僕は、できる限り俊敏に立ち上がった。みんなから離れ、部屋の奥にある非常用階段への入り口に駆けていく。
これでこのドアが開かなかったらどうしようと思ったが、こちら側に鍵がついていたのでそれは取り越し苦労だった。素早く鍵を開け、僕は外に飛び出した。外には螺旋状の階段が設置されていた。
「梶世くん!」
部屋の中から追いかけるように沢井さんの声が聞こえてきた。
「大丈夫、珠李さんはこっちで何とかするから。でもまだ狙いは君になってるみたいだから、とりあえず上にのぼって逃げて!」
「わかりました!」と僕は叫んだ。声が少し震えてしまったが、気づかれただろうか。
とにかく僕は後ろを見ずに階段をのぼることに専念した。僕はあまり運動神経がない。中学の時はサッカー部だったけど、ほとんど試合に出られなかったほどの運動センスと体力のなさである。そんな僕だけど、自分の可能な限り、ただひたすら階段をのぼった。
しばらくしたら騒ぐ声が聞こえなくなった。もう大丈夫かなとほっとして、立ち止まる。手すりに腕を乗せ、その上に顔を置いた。
突然、目の前が揺れた。唐突の景色の歪みに耐えられず、手すりから崩れるようにしゃがみ込む。
『登……』
悲壮感が漂うけれどかわいらしい声が聞こえた。誰? 誰が僕を呼んでいる?
考えて最初に思いついたのは、例のあの少女だった。けど、姿は見えない。目の前は一色オレンジ色だった。
オレンジ色……炎? ライター……ポリタンク……。
ここは、どこだ? 僕は、一体何を?
息が苦しい。熱い。そういえば、あの時も……。
「登!」
はっと顔をあげる。視界に入ってきたのは、しゃがんでいる僕を見下ろしている瞬だった。息を整えている瞬が心配そうに僕の肩を持っている。階段を全速力で駆け上がってきてくれたのが一目で分かった。
「瞬……」
僕は焦点を合わせるように、瞬の顔の一点をじっと見つめた。僕の肩に乗っている瞬の手の力が強くなる。
「登、大丈夫か?」
「うん……。珠李さん、だっけ。その人は大丈夫なの?」
「人の心配より、まず自分の心配をしろよ。本当に大丈夫なんだろうな?」
心臓が、ドンと大太鼓を叩く。急速に口の中が乾燥していった。
「……大丈夫。久しぶりに走って、……ちょっと眩暈がしちゃっただけ」
僕の答えに、瞬は数秒無言になって僕を見据えた。耐え切れず、僕はやや目を逸らす。瞬は「……そっか」と言うだけで、追及はしてこなかった。僕は小さく息を吐いて、階段の柵の鉄格子を掴んで立ち上がった。ひんやりとした感触が指から伝わる。
「……あの、それより瞬、あの女性はどうなった?」
「その人なら大丈夫だよ。今、沢井さんが術をかけて大人しくさせてるって」
ほら、と言うように瞬が螺旋階段の下を親指で指し示した。沢井さんと珠李さんは階段の一段目に足をかけているところだった。沢井さんの手からは黄色く淡い光が発せられており、その光が珠李さんにも纏われている。彼女から先程までの乱暴さは完全になくなっていて、静かになっていた。
しばらくすると、彼女は糸が切れたように膝からガクンと崩れ落ちた。その体を受け止めた沢井さんは、彼女を抱えると部屋の中へ入っていった。
「術って間近で見るとやっぱりすげーな。……というかちょっと恐怖。俺らは使えないんだし、攻撃されたらどうしようもないよな」
瞬が独り言のように言う。沢井さんの術は慈しみに溢れていて全然恐怖は感じられなかったが、悪意を持った人に攻撃されたら恐ろしいのは確かなので「……まあ、確かに……」と強張った頬のまま苦笑いした。
「全く、散々な目に遭ったな、登」
落とすようなため息をついた瞬は、僕の方に顔を向けながらゆっくりと階段を降り始めた。僕も後ろをついていく。頭は熱くなっているのに、手はずっと冷たいままだった。
僕たちが部屋に戻ると、珠李さんは先ほど僕が寝転がっていたベッドの上に横たえられていた。穏やかな顔をして眠っている。
「悪いね、迷惑かけてしまって」
沢井さんがどこからか持ってきた、上質で高級そうな毛布を珠李さんにかけながら言った。そして僕の方に振り向く。
「もう落ち着いたみたいだから。本当にすまなかった」
「いや、全然大丈夫です……」
僕は条件反射のように答える。瞬が『全然大丈夫』なわけないだろ、とでも言いたげにこちらをちらりと向く。僕は「えっと……どういう症状なんですか、この方は……。大丈夫ですか」と沢井さんに質問することで瞬への対応を誤魔化した。
沢井さんは小さく首を振る。肩が重そうな動きだった。
「まだ原因はよくわかってないんだけど、たまに自我を忘れてさっきみたいに暴走してしまうんだ。意志とは反して失踪してしまうこともあって、そのせいで自分の赤ちゃんも育てられなくなって、生涯孤独の状態に……。色々苦労をしてきた……みたいでね。何とかしてあげたいと思ってるんだけど……」
沢井さんは一つ息をついた後、「ともかく、皆すまなかった」と再び謝ってきた。
「珠李さんの部屋の近くに研究員はもちろんいた。本当だったら彼らで止めなきゃならなかったんだ。あとできつく言っておくよ」
「いえ……」
「とにかく」と沢井さんは僕ら四人に向き直った。切り替えが早い人なのか、誤魔化すのが得意な人なのか、さっきまでの焦っていた顔が嘘のように、標準状態の顔に戻っている。
「梶世くんの検査結果を報告するね。いや、非常に面白いデータが取れて感謝している」
ああ、そう言えば僕の記憶の調査をしていたんだった。一悶着があったため、調べてもらったのが遠い過去のことのように思える。
「面白いデータってどんなものですか」
僕は訊く。すると沢井さんは「まず、君の記憶の喪失についてだけど」と僕たちの前に紙を差し出した。その紙を覗き込んだが、細かく字が書かれていてさっぱり理解できない。
「分かんないんですけど」
瞬も僕と同様の気持ちらしく、片眉をあげてそう言った。沢井さんは僕らの顔を見て苦笑する。
「ああごめん。結論から言うと、梶世くんの記憶喪失の原因は間違いなく術の力だ」
案外あっさり言われた。ああ、やっぱりそうなんだ、とストンと何かが落ちる感覚だった。
「記憶がハサミで切ったみたいにその部分だけきれいに切り取られていることが分かった。これは術の力特有だ。病気や事故ではこうはならない」
では一体どこでそんな術に僕はかかったのだろうか。誰に、どういう理由で。
……やっぱり、あの火事が、関係して……。
「それと、梶世くんの現在の記憶から、一人の女の子の姿を画像化することに成功した。梨橋さんもその女の子の夢を見たと言っていたので、別室で彼女の脳も調べさせてもらったが……全く同じだったよ」
沢井さんは机に置いてあった紙をぺらりと持ち上げる。僕はハッとした。
「君らが夢に見たと言っていた子は、この子で合ってる?」
慌てて沢井さんが持っている二枚目の紙に飛びついた。瞬や藍花、蝦宇さんも勢いよく覗き込む。
そこには……。
間違いなく、夢で見たあの子がいた。
それは、儚い空気を纏いながらも凛としている、セーラー服の少女がこちらを向いている画像だった。
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