33 「嫌い」
「ねえ、どういうことなの? 登、最近全然玲未としゃべってないじゃん!」
藍花の吠えるようなダメ出しに、僕は俯くほかなかった。
とある日の朝休み、僕は藍花に連れられて渡り廊下にいた。開け放たれた空間で、朝の冷たい空気が直に僕たちを襲ってくる。秋ももうすぐ終わりそうだ。しかし藍花はそんな寒さなど気にも留めない風体で僕に詰め寄ってきた。
何度考えても、まだ分からない。あの時……樋高さんに好きな人を訊かれたとき、僕は何て言おうとしていたのか。
『僕が好きな人はね、さ』
『さ』……?
自分の中では、こんなに蝦宇さんが好きだと分かっている。分かっているのに、僕の中にある潜在意識が勝手にしゃべったかのごとく、口が動いていた。『えびうれみ』の名前のどこにも入っていない文字を、発していた。
「本当に何してんの? 玲未に『登と何かあったの?』って訊いても、特に詳しいこと言ってくれないの。ただ作り笑いの顔で『何もないよ』ってそればっか。登、玲未に何かしたの?」
藍花はまるで自分のことのように憤慨している。それほどまでに僕と蝦宇さんがしゃべらなくなったということだろう。何かが突き刺さるように心が痛い。
「……何かした、わけじゃないけど……。僕が蝦宇さんを避けてしまっているせいかもしれない……」
「避ける? どうして? こんなに仲良くなったのに!」
「……実は」
僕は目線を下に向けながら、ポツリポツリと話し始めた。樋高さんに好きな人を訊かれたとき、蝦宇さんとは違う名前を言おうとしてしまったこと、でも誰の名前を言おうとしていたのかは分からなかったこと。樋高さんに告白されたことは、彼女の気持ちを鑑みて話すのをやめておいた。
僕が言葉を発するごとに、藍花の顔が段階的に青ざめていく。彼女の二つ結びがそれに連動して震える。
「え、どういうこと? でも、登は玲未のことが好きなんでしょ?」
「うん、それは間違いない。でも、あの時、僕は確かに誰か違う人の名前を言おうとしてたんだ。……そのことがずっと心に残って、蝦宇さんの顔を、まともに見られない……」
「何それ、登のお馬鹿。そんなことで動揺して玲未に話しかけられなくなって、玲未を悲しませてどうすんのよ」
「悲しませる、って言われても……。蝦宇さんは僕なんかの行動で悲しむなんてしないよ」
「そこがお馬鹿だって言ってんの」
藍花は
藍花が息を吸う音がする。
「……分かったよ、私が玲未に話を訊いといてあげる」
「え、話?」
本気のトーンに、僕は顔を上げた。藍花の瞳は変わらず真っすぐだ。
「今日は部活ないし、放課後にでも訊いておく」
「訊くって、何を……」
「何で登と話さないの? って、もっと真剣に」
「……いいってば、藍花……」
僕は言い、再び俯いた。もう僕は混乱していて、正直何も考えたくはなかった。自分の抱えている問題が色々ありすぎて、何もかもを投げ出してどこかに行ってしまいたい。そんな気分だった。
自分の記憶のことでさえも、もう……。
朝の会が始まる前の予鈴が無機質に鳴る。藍花はもう僕に何も言わず、爪先を教室の方向に向けると、先にさっさと歩いて行った。僕もゆっくりながら藍花の後を追って教室に向かう。
「……あ、そうだ」
唐突に藍花が振り向く。表情はさっきとは違い、ほんの少し柔らかくなっていた。
「今日、秋祭りだね」
ああ、そうだった、と僕は頷いた。半分忘れていた。ずっと前から話題になっていた秋祭り。この辺りの地方の人は大抵参加する。可術地方との境界沿いで行われており、一説によると可術地方と非術地方の住民が争うことなく過ごしていけるように、と祈願するためのお祭りらしい。ただ多くの人はそんな祈念など関係なく、楽しむために参加している。僕だってそうだ。
「……とりあえず、もう登はお祭りのことだけを考えてなよ」
藍花の言葉に、僕は「……え?」と声を漏らした。
「登、分かりやすいんだよ。ぐちゃぐちゃに考えて、頭が混乱してるの見え見えだよ」
「……」
やっぱり僕は分かりやすいらしい。これが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、藍花が僕を安心させようとしてくれているのは理解した。
「まあそんなことがあったら仕方ないけどさ。今日はちょっと休憩しようよ」
「……そうだね」
「あと、さっき少し怒鳴ってごめんね。ついカッとなっちゃった」
藍花は再び前を向くと、今度は立ち止まらずに歩みを進めていった。
……藍花が謝る必要なんて、ないのに。
唇を噛み締める。僕は彼女の小柄な背中が遠のいていくのを、拳を握りしめながら見つめていた。
・・・
「玲未、どうして最近登と話さないの?」
弁当箱を教室に忘れたので取りに行こうとした矢先のこと。放課後の教室から突然藍花の声が聞こえてきた。僕はハッとして足を止める。というより、勝手に止まった。目の前でゲートが閉じられてしまったかのように。
そうだった。藍花が、蝦宇さんに話を聞くとか言っていた。やっぱり本気だったんだ。
僕は軽く唸った。話の続きが気になるが、盗み聞きはあまり褒められた行為ではない。それゆえ僕は、固まっていた足を動かし、この場から離れようとゆっくりと歩き出した。ゆっくり移動なのは、あくまで音を立てないようにするためだ。
「……どうして、って言われても……。そんなの、私の自由じゃない」
「登が玲未を避けるみたいなことして、傷ついたの? でもだからって自分の気持ちと反対のことしたらダメだよ」
「気持ちと反対? 何を言ってるの? 別にそんなんじゃないよ……」
蝦宇さんの掠れた声が教室の中から聞こえてきて、耳にざらつく。直後に藍花のもどかしそうな吐息が聞こえた。
「ねえ、じゃあ玲未ってさ、登のことどう思ってるの?」
再放送が起こったかのように、僕の足がもう一度止まった。ここから離れられない。
藍花……何て質問を……。
カサッと制服の擦れる音が聞こえてきた。蝦宇さんが椅子に座り直したのだろう。
「正直に言っていい?」と蝦宇さんの声。
ドクン、と心臓が跳ね上がった。盗み聞きは良くないと分かっていながら、無視することはできなかった。蝦宇さんが、僕のことを、どう思っているのか……。
「嫌い」
跳ね上がった心臓は、着地に失敗して地面に叩きつけられた。
……え……。
蝦宇さんの返答に、僕は愕然とする。
ショックで心が凍り付きそうだ。頭がうまく回らない。血の気が引くってこういうことを言うんだ、と悟った。
僕は確かに、人に好かれるような魅力の欠片もないとは自分でも分かっている。分かっているが、好きな人に「嫌い」と言われるほどだとは思わなかった。
確かに僕は最近ぐちゃぐちゃ悩んで動揺していて、蝦宇さんとあまりしゃべれないでいる。けれど、藍花の言葉もあったし、蝦宇さんとは悪くない関係を築いてきたと思っていた。今の状況を含めても、ずっと以前よりは仲良くなった、そう思っていた。というか今の状況は、仲が深まったことによる弊害だと感じていた。
……そう思い込んでいたのは僕だけだったのか。
「えっ……え?」
藍花も、まさか蝦宇さんがそんな返事をしてくるのは想定外だったようで、慌てた声を出した。
「何で……!? えと……そんなつもりで聞いたんじゃなかったんだけどなあ……」
「……ごめん、藍花は梶世くんと仲いいのに」
「というか……。だって登って普通にいい人じゃない? それに最近いっぱいしゃべってるじゃん。な、何で嫌い……なの?」
藍花の戸惑っている顔が目に浮かぶ。僕は斜め上の空中を見ながら、ずり落ちるように壁に背をつけてしゃがみ込んだ。
蝦宇さんは「違うの」と囁くように言った。
「これはあくまで私の問題だから。だから梶世くんと藍花がしゃべってても藍花のことを嫌いになったりはしないよ」
「そうじゃなくて……。何で登のこと嫌いなのって訊いてるんだけど……」
「……」
「ねえ、玲未!」
「私、梶世くんのこと信じてないから」
蝦宇さんの声が耳に突き刺さる。あまりにも直球の言葉が連続で、ずしん、と心に響いた。
「え……玲未……何で……」
「藍花も聞いたでしょ、誰かの家に火をつけてたかもしれないっていう梶世くんの言葉。藍花と久保木くんはそんなの気にしなくていいって梶世くんに言ってて、私もそれに便乗したけど、本当は私、そうは思わなかった。絶対にひどいことをしてるじゃんって確信した。二人がそこまでして登を信じる理由が理解できなかった」
「……」
「私は分かるの。……登って本当に、外面だけはいいよね。急に私の名前を褒めてきたり、自分が出てない試合なのに僻み嫉み全くなく必死に自チームを応援したり、でも部活には進んで精力的に取り組んでたり、私を助けてくれるそぶりをしたり……」
「は、はあ?」
「でも、そういうのは一つのことで全て崩れる。その後はもう、全部、全部うすっぺらに思えるの。登の言動は信頼できない。信じちゃいけない」
「い、いつの話してるの? 私でも覚えてないよ、そんなこと! そんな……登にしてもらったこととか、登の話とか、登との思い出とか、私よりもしっかり覚えてるじゃん! それなのに、どうして嫌いだなんて言うの? 冗談でしょ?」
「私が、冗談を言うと思う? この状況で……」
思わない。僕は心の中でそう答えた。藍花も、本気で冗談と思って言っているわけではないだろう。
「……玲未、じゃあ何で、その記憶喪失の件を調べるのを協力するって言ったの? 登のこと嫌いだったら、普通やらなくない?」
「藍花のことは好きだから、藍花との時間を削りたくはなかったの。つまり、登への嫌いと藍花への好きを天秤に掛けたら、藍花への好きの方が大きかった……ただそれだけ。それに記憶喪失の内容には興味あったからね」
蝦宇さんはあっさりと言った。彼女が易々と言葉を発するほど、僕の心は深く抉られていく。
藍花は返す言葉がないようだった。はたして僕は、このままこの会話を聞き続けてもよいのだろうか。これ以上聞きたくない気持ちと、最後まで聞きたいという気持ちが捻じれて絡まる。
結局僕は、動く気力がなかった。ただ脱力しており、会話から僕の耳に入り込むという状況だった。
「……藍花、本当にごめんね。気分悪くしたよね。そうなるの分かってたから今まで言わなかったの。みんなが信じてる四人の絆にも傷をつけることになるし」
「……み」
「でも大丈夫だから。藍花が口を噤んでくれるなら、私は最後まで演じ続けるよ。まあ、今の言葉で藍花が私のこと嫌いになったんだったらもうそれで仕方ないかな。まだ私と仲良くしてくれるんだったらこれからも……」
「玲未!」
藍花が大きな声を出した。ガタッと机が動く音もした。やや早口になっていた蝦宇さんの言葉が切られる。
藍花の声は、ギリギリ絞り出すような声質だった。
「じゃあその涙は……何?」
えっ、と僕は知らぬ間に立ち上がり、教室の窓から中の様子を窺おうとしていた。しかし摺りガラスになっているため分からない。
「……登なんて大嫌いだもん。それ以上訊かないで」
か細い声。すると急にバタバタと影が動きだした。僕は慌てて教室の隣の男子トイレの中に身を潜め、陰から様子を見ようとした。その瞬間、蝦宇さんが髪の毛を乱しながら教室から飛び出してきた。蝦宇さんの目元は赤くなっていた。
「ちょっと、玲未!?」
藍花をよそに、蝦宇さんは向こう側へ駆け出して行ってしまった。奥にある階段を下りる足音がとても速い。その音が聞こえなくなると、僕はトイレから徐に出た。
教室の前では藍花がぼんやりと突っ立っていた。僕が歩いてくるのに気付いたのか、はっとしたようにこちらを振り向くと、僕の顔を認識して泣きそうな顔をして口を押えた。
「登……! もしかして、聞いてたの……?」
「……うん」
僕は全身で息をするようにしながら答えた。どんな表情をするのが正解なのか判断できず、咄嗟の苦笑いで誤魔化す。
「僕、タイミングの悪い時に来ちゃったね……」
「……どの辺からいたの……?」
「藍花が蝦宇さんに、僕とどうして話さないのか訊いたところから」
藍花は眉間に皺を寄せて、何かに耐えるようにしながら「ごめん……」と喉から声を出すように言った。
「登に最低なこと聞かせちゃったね。本当に変な質問しちゃった。私はただ、登と玲未がもっとしゃべれるようにしたかっただけで……。まさか玲未が、登のこと嫌いなんていう告白をしてくるとは思ってなかった」
そう言った後、藍花は再び「本当にごめん……」と目を伏せた。僕はゆっくりかぶりを振った。
「藍花のせいじゃないよ。蝦宇さんが僕のこと嫌いなのは僕が原因だから」
「……」
藍花はもどかしそうに頭を抱えた。爪が立って頭皮に刺さっている。
「さっきの玲未は……だいぶひどかったと思う。何であんなこと言ったんだろう……」
「……ううん、嫌いな人いるのが普通だよ。むしろ今までよく耐えてたよな、蝦宇さん……。申し訳なかったな」
「違うんだよ、登。きっと違う」
「え?」
「だって、玲未さ!」
叫ぶように藍花は言った。この空間に、冷たい空気の中に、響き渡る。
「登にしてもらったこと、すごい覚えてるじゃん。登、私の知らないところで玲未の名前を褒めたりなんてしてたの?」
「……いや、僕自身も全然覚えてないよ。確かに素敵な名前だとは思うけど」
「ほら、登自身も覚えてないことを玲未は覚えてるんだよ。私は……玲未が登を嫌いなようには、見えない。強がって、無理やり自分は登のこと嫌いなんだって思いこませようとしているようにしか、見えないよ……」
藍花の声は、最後の方は消え入りそうになっていた。
「私わかるよ。玲未は登のことが好き」
「……藍花、気休めでもありがとう」
藍花は首を振る。ブンブンと音がするくらい激しい動作だった。
「本当なんだもん。私、腑に落ちないし悔しい。嫌いだなんてあり得ないのに。玲未がそんなこと、思っているわけないのに」
必死な顔だった。そんな顔を見て、僕は何だか申し訳なくなってきてしまった。そこまで庇われるほどの価値が、僕にあるとは思えない。
「……いいよ、もう。ありがとう、藍花」
「じゃなくて、本当に……」
そこまで言うと、藍花はお腹の底から絞り出すような深いため息をついて、両手で目の下を擦った。
「私、明日玲未と会ってもしゃべれる自信ないな……。今日のお祭りも別々でよかったよ」
「……あ、お祭りね」
また忘れかけていた。僕は藍花を見て「二人きりにしてあげるから、任せといて」と固かった口角を上げて笑ってみせた。その言葉に、藍花は対照的に眉を下げる。
「……いーよ、もう、そういうの。何か疲れちゃったし。久保木くんといられるだけでいいよ、ありがとね」
語尾で、藍花はほんの少しだけ微笑んだ。僕はゆっくり目を伏せる。
「……うん」
「あのね、登はいい人だよ。絶対悪いことなんかしてない。それは自信もっていいから」
「……一部記憶がないけど? もしかしたら本当に悪いことしてるかもしれない」
「してるわけないよ。登にはできない」
藍花が断言する。僕は何も返事ができないままその場に立ち尽くしていた。
すると、不意に気になったように「登は何しにここへ?」と藍花が尋ねてきた。
「あ……忘れ物を取りに」
「そう。じゃ、私は着付けとかあるし先に帰ってるね。七時に、駅で」
「うん。了解」
藍花は手を振ると教室を駆け足で出ていった。教室にはただ静かな空気が残される。僕は自分の席の横にかかっていた弁当箱を手に取った。
野球部の太い声と、放送部の発音練習の声、合唱部の歌声、それからバトン部の練習音楽がごちゃ混ぜになって、不協和音となり聞こえてくる。それらはまるで、僕のひび割れた心の隙間に入り込んでくるようだった。
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