19 新たなる謎

 僕は道端にいた。何の変哲もない、中学校からの帰り道。一人でのんびり、ゆっくり歩いている。


 すると前方に、一人の女性がかばんを抱えてしゃがみ込んでいるのが見えた。肩で息をしていてとてもつらそうだ。


 僕は慌ててその人のもとへ駆け寄る。大人びて品のある女性は、こちらを向いて何か喋る。顔を俯かせながら口を動かしている。しかし、声が聞こえない……。


 情景が絵の具を混ぜたみたいに溶けた。次に浮かんだのは、赤髪を後ろで一つに結んでいる二十代後半くらいの女性。活発そうな表情で何かしゃべっている。でも先程と同様、無音だった。


 また景色が溶ける。次に見えたのも赤髪の女性だった。ただし今見える人は、さっきの人より年上に見える。でもそっくりな顔だ。親子、なのかもしれない。


 さらにまた、溶けていくように目の前が渦巻く。耳元でゴオゴオと轟音がする。渦巻いた視界がオレンジ色に染まっていく。


 次第に、景色がぼやけていく。


 待って、と僕は手を伸ばそうとした。しかし体は動かない。というより、この世界には体という概念がないかのようで、動かせない。


 訳の分からない状況の中、透明な体を揺らして僕は必死に考える。


 さっき見えた人たちは、一体誰?


 見えたあの光景は、一体何……?


           ・・・


 ハッとして身を起こすと、消毒液のようなにおいが鼻孔を刺激した。勢いよく体を起こしたせいで、頭の中が揺れる。僕は頭を押さえてしばらく動けなかった。


「大丈夫?」


 声がするまで近くに人がいることに気が付かなかった。樋高さんが、僕のいるベッドの隣のパイプ椅子に座っている。辺りを見渡して、ここが学校の保健室だということが分かった。


「びっくりしちゃったよ。持ってた紙が一枚なくなってたことに気づいて慌てて引き返したら、廊下に梶世くん倒れてるんだもん」


「ご、ごめん……」


 迷惑かけちゃったな、と僕は申し訳なく思った。多分樋高さんがここまで運んできてくれたのだろう。けれど、どうして倒れてしまったのか、理由が全く思い出せない。何だっけ、急に息ができなくなって……。


 それにしても、と僕は頭を抱える。


 さっき瞼の裏で見た光景を思い起こす。まさかあの少女以外の登場人物が夢の中に出てくるとは思わなかった。全員初めて見た顔……というか、もし初めてではないとしても、覚えていない。


 何だ? あの人たち、僕の記憶喪失に関わっているのか? 例の少女と関係があるのか?


 意味が分からない。もともと分かっていない事柄があるのに、追加でさらに謎が加わってしまった。闇がこれ以上深くなるなんて思っていなかったのに。それとも、あの人たちは闇を照らす光となる手がかり……に、なるのだろうか。


 分からない。一刻も早く、沢井さんに診てもらいたい。もしまた僕の脳内を画像化してもらうことができたら、藍花にも見てもらって……。


 ベッドから下りようと僕は体を動かした。すると樋高さんは「ちょっと」と焦ったように布団を掴む。


「まだ安静にしといた方がいいんじゃない? 保健の先生には伝えたんだけど、会議からしばらく抜けられないらしいし、せめて先生が来るまでは」


 その言葉に僕は思考を整理する。確かに今慌てて動くメリットはない。僕は素直に体勢を戻し、息を吐いた。


「……そういえば樋高さん、部活はいいの?」


「うん、顧問の先生には伝えたし、急に倒れた梶世くんを一人で放っておくわけにはいかないでしょ」


「そんな、いいのに。何かごめんね。ありがとう。……あ」


「何?」


 樋高さんに訊いておかなきゃいけないことがあったんだ。僕は樋高さんの瞳を見据えた。彼女の瞳はちょっと緑っぽい色が混ざっている。


「樋高さんが落としてた紙のこと……なんだけど」


「ああ、梶世くんの近くに落ちてたの、ちゃんと回収したよ。拾ってくれたんだよね」


「あ、うん、それで……ごめん、拾ったときに内容を見ちゃったんだけど、どうして樋高さんが、その……記憶喪失とかの内容の紙を……?」


 すると樋高さんは口元に手を当ててくすっと笑った。まるでその質問が来るのが分かっていたみたいだ。


「実はね、興味あるの、こういう分野に」


「え?」


「記憶喪失とそれにおける脳の機能の変化……。でも学校じゃこの分野、そんなに習わないじゃん? だから自分で調べてまとめてるの。いわば、趣味の範囲なんだけど」


「……すごいね」


 まさにすごいとしか言いようがない。学校の勉強の範囲を超えて、自分の興味のあることを自ら進んで調べているなんて。昔、自分の将来に必要だからと言って多くの言語を学んでいて、今はフランス語を頑張っているんだと言っていた誰かがいたけれど、その時と同じ尊敬の念が今も湧き起こる。


「でも梶世くんも図書室で勉強してるんでしょ? 今日も行く予定だったみたいだし」


「……勉強ってわけじゃないからなあ……」


 僕の調査なんて、ただのエゴでしかない。前に伊杷川先生に「調査も勉強の一環」とは言われたが、樋高さんのとはレベルが違う。苦笑いして頬を掻いていると、彼女は「でね」と続けた。


「その研究でも最先端を進んでいる沢井さんっていう人がいるんだけどね、可術地方の人だけど、いつか会ってみたいなーって思ってるんだ」


「沢井さん?」


 声が裏返った。話の流れからしても、沢井さんというのは僕がお世話になった沢井颯樹さんのことだろう。界隈ではそんなに有名な人なのか。


 僕の反応に、樋高さんはゆっくり僕を見た。真っすぐな視線だった。


「……ねえ、梶世くん」


「え……何?」


「梶世くん、記憶喪失って本当?」


 心臓を撃ち抜かれたような感覚に囚われた。樋高さんはスナイパーのように的確に僕を狙撃する。


「えっ……どうしてそれを?」


 こんな返しをしたらもう既に認めているようなものだけど、僕は尋ねた。


「どこで聞いたかは忘れたけど、そういう話を聞いたから」


「そ、そっか」


 僕の記憶喪失の件は、高校で僕以外には瞬、藍花、蝦宇さん、そして一部の先生方しか知らないはずだ。ということは、僕らが会話している内容がうっかり聞かれてしまったということか。確かに最近は所構わずしゃべっていたような気もする。


 というか、そこで納得した。だから樋高さんは僕にやたら話しかけてきてくれたのか。自分が興味のある分野の良い素材が、こんなに近くにいるのだから。


 ハッとする。樋高さんが食い入るように僕を見ているのに気づいた。


「あの三人のこと、疑わないの?」


「え?」


 唐突な言葉に、僕は戸惑った。手のひらでシーツを擦る。さっき記憶喪失だと言い当てられてから、挙動不審になってばかりだ。そんな僕のことを気にも留めず彼女は続ける。


「普通に考えたら、よく行動してる他の三人のうちの誰かがばらしたって思わない? だってあの人たちは知ってるんだもんね、梶世くんのこと。あの人たちを疑わないの?」


「疑うって、僕の記憶喪失のことをばらしたかどうか?」


「そう」


「いや、そこまで極秘ってわけでもないし……。僕が疑ったところで何にもならないからね。それに、あまり他の人には言わないでほしいとは言ってたけど、それでももし言った人がいるんだったら、それは並々ならぬ理由があったからだろうし、仕方ないよ。記憶喪失がばれたところで、せいぜい僕が悪く言われるだけ。他の人に害がないなら構わない」


「……随分彼らのこと信じてるんだね」


「信じてる……そうなのかな」


 信じてる、という言葉を当てはめるのは何だか違う気がしたが、別の言葉が浮かぶわけでもなかった。


 今日はいつもより樋高さんがよく喋る。僕を退屈させないようにしてくれているのか、ただ純粋に僕の過去に興味があるからそれを訊こうとしているのかは分からない。ともかく僕はソワソワしてしまっている。樋高さんとは挨拶はするが、長い間話したことはない。僕は喋るのが得意ではないので、少しばかり緊張しているのかもしれない。


 そんなことを思っている最中にも、樋高さんは「梶世くん」と次々に話を切り出してくる。いきなり話が変わるので、ついていくのが大変だ。


「見て、窓の外。あそこの木、いつの間にあんなに赤くなった? もうそんな季節?」


「本当だ。十月にもなればもう赤くなるんだね」


「私、季節の中だったら一番秋が好きかな。紅葉もみじ見るの好きなんだ」


 そう言って樋高さんは窓の外を眺め見る。そうか、もう楓の季節か、と僕も彼女に倣って外を見た。ちなみに僕は紅葉もみじではなく楓と言いたい派だ。別に、植物の分類がどうとか細かい区分を言いたいわけじゃない。そういうのは全然覚えてない。けれど、なぜだかは自分でも分からないけれど、楓と言いたいという謎のこだわりがある。


「僕は春かな。桜が好きだから」


 赤い葉が舞う景色を見ながら、僕はポツリと言った。


 と、その時、静かだった廊下から「登!」と大きな声が聞こえてきた。樋高さんと同時にその方向を向く。


 冷風が駆け抜ける廊下には、藍花が黒っぽい楽器を持って立っていた。クラリネットとかオーボエとか辺りだろうが、僕には違いが分からない。前に藍花が色々説明していた気がするけど、忘れてしまった。さっきから忘れてることいっぱいあるな、と僕は無意識に自虐的になる。


 藍花は眉を八の字にして楽器を握りしめていた。

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