20 意味深

「倒れたって聞いたけど、大丈夫なの?」


「藍花……どうしてここに?」


 僕が首を捻ると、藍花は「さっき保健の先生とすれ違って、それで聞いたの」と早口で言う。


「先生、急な会議が立て続けに入っちゃったみたいで。本当は先生が一旦保健室に戻ってそのこと登に伝えようとしてたみたいなんだけど、私ちょうど個別練で保健室の近くの教室行くところだったから、代わりに……。もし登の体調が酷そうなら会議抜けるとは言ってたけど、体調どんな感じ?」


「全然、今は何ともないよ」


「ならよかった。じゃあしばらく先生来るの待ってて」


 そう言うと、藍花はズカズカ中に入ってきた。そしてじっと座っている樋高さんに微笑みを向ける。


「千夢ちゃんが登をここに連れてきてくれたんだよね? ありがとう」


「……別に」


 樋高さんはなぜか白けたような顔を藍花に向ける。急に声のトーンが下がっている。さっきまであんなに楽しそうに喋っていたのに、「梨橋さんにお礼言われる義理はないから」などと言う始末だ。


 藍花は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに「それもそうだね」と笑顔を戻した。


 樋高さんの急激な態度変化に、目を白黒させずにはいられない。彼女は案外気分屋みたいだ。知らなかった。意外な一面である。


「あ、私しばらくここにいるからさ、千夢ちゃん部活戻っていいよ」


 藍花がそっと言った。側から見ても、樋高さんの機嫌をなるべく損ねないような口調をしたことが分かる。しかし樋高さんは片眉を上げ、じろりと藍花の顔を見た。


「私は大丈夫。梨橋さんだって部活でしょ? 楽器持ってるじゃん」


「でも私はここに来たばっかりだし、まだ部活時間はそんなに削ってないよ」


 藍花は少しだけ語尾を強めると「……それに」と僕に目線を流した。


「登とちょっと大事な話をしたくて、できれば外してほしいの」


 察した。僕の記憶喪失の件と絡めて、あれこれ質問したいのだろう。藍花は樋高さんが何も知らないと思っているので、この場では口ごもってしまうのだ。だから僕は口を開いた。


「藍花、でも樋高さん、知ってるみたいだよ」


「えっ? ……知ってるって、まさか」


 藍花が怪訝そうな顔をする。樋高さんはそれに答えるように素っ気なく「うん」と頷いた。


「梶世くんの記憶喪失のこと。知ってるよ」


「……どして?」


「どっかで聞いたの。どこだったかは忘れたけど」


「それって、登の話が広まってるって意味? 噂で聞いたの? いつ?」


「そんなに質問攻めしないでよ。覚えてないって言ってるでしょ」


 樋高さんは煙たそうに目を細めると、パイプ椅子の上で足を組んだ。一方の藍花はもどかしそうに唇を噛む。僕のことを心配しての表情なのだろう。その藍花を見て僕ももどかしくなる。


「藍花……」


「だって、もしそれで登がみんなに悪く言われたら、登が困るじゃん」


「大丈夫だよ。藍花や瞬、蝦宇さんは分かってくれてるし。でも、心配してくれてありがとう、藍花」


 すると樋高さんが「私、話聞いてから誰にも言ってないよ。今見る限り広まってないみたいだし、大丈夫なんじゃない?」と付け加えた。


 藍花はまだ納得できてはいないような面持ちだったが、ゆっくり頷いた。そして、まだ喋りづらそうにしながらも僕へ身を乗り出し、開口する。


「登、倒れたって、もしかして何かを思い出したから?」


「うーん、よく覚えてないんだけど……急に息ができなくなって、そしたら目の前がぐるぐるし始めて……」


「息が出来なくなった? 何で?」


「……分かんない……思い出せない……けど、誰かに口を塞がれた……ような気もする……」


 僕の言葉に藍花は明らかに顔色を変えた。さっきまでも決して良い色相ではなかったが、僕の発言の後みるみるうちに蒼白になっていったのが、傍目からも分かる。


「誰かに塞がれた……? 誰に?」


「ごめん、それは分からない。それに、僕の気のせいかもしれない」


「気のせいなわけないでしょ。ねえ、本当に大丈夫?」


「今のところは。あっ、そうだ、頭によぎった光景があるんだけど」


「何?」


「例の少女だけじゃなくて、他に見知らぬ女性の姿が三人見えた」


 僕が三本の指を立てると、藍花は黒く細い楽器を持ったままベッドに手を付け、さらに身を乗り出した。彼女の二つに結んでいる髪が勢いよく揺れる。


「他に? また新しく? ど、どんな人?」


「全員大人の女の人だったよ。そのうち二人は赤い髪してた」


「ねえ、それ、沢井さんのところの行って、画像化してもらったほうがいいんじゃ……」


「……やっぱり」


 不意にぽつりと声が聞こえた。藍花がその言葉を発言した時点で反応するとは思っていた。樋高さんは僕と藍花を見据えて首を少しだけ傾けた。


「沢井さんのこと知ってたんだね、梶世くん。さっき私が沢井さんの名前を出したとき、反応してたし」


「あ、うん……」


「沢井さんに、会いに行くの?」


「うん、まあ、会えるのなら……。沢井さんにも都合があるだろうし、すぐにとは言えないだろうけど」


「いつもの四人で?」


「そりゃあみんなの都合が合えば、来てほしいとは思ってる」


 僕は藍花をちらちら見上げながらそう言った。藍花は「もちろん私は行くよ。登が来てほしくないって言っても行く」と、前回僅かに見せた躊躇いも何もなく言った。この様子だと、他に予定があってもそっちを蹴ってついてきてくれるくらいに感じる。俄かに藍花の口がぽっかり開いた。


「え、何? 千夢ちゃん、沢井さんの知り合いなの? 登、どういうこと?」


「あ、じゃなくて、尊敬してるんだって言ってたよ。自分の興味のある分野の第一線で活躍してる人だからって。だよね、樋高さん」


 僕は言い、自分の上に布団を掛け直した。廊下からの冷気が次第に部屋の中に入ってきている気がした。


「うん、そういうこと。ね、だからさ」


 すると樋高さんは唐突に立ち上がった。その反動でパイプ椅子が軋み、少し揺れる。


「私も、連れて行ってくれないかな、沢井さんのところに」


 急な申し入れだったが、今までの樋高さんの話を考えると妥当な要求ではあった。誰しも、尊敬している人に会えるチャンスが目の前に転がっていたら、食いつくだろう。


 というか、本当は僕から樋高さんを誘えればよかったのだ。沢井さんに会いたがっている人が近くにいると分かっていながら、その人の目の前で彼に会う話をするなんて、我ながら良くなかったと思う。沢井さんに会いに行くのが僕一人だったら、迷わず誘っていただろう。


 けれど、僕はいつもの三人についてきてほしいと思ったので、自ら進んでは誘えなかった。三人が樋高さんとそこまで親しいようには見えない。知らない間にそんな人が一人追加されて、みんながどう思うかが分からなかった。特に蝦宇さんは、何となく、そういうのが嫌いなタイプに見える。


 返答に困った僕の思考を察したのか、樋高さんは「安心して」と声を上げた。


「梶世くんたちの邪魔はしないよ。私はただ、沢井さんに会いたいだけ。君たちの仲間に加えてなんて、そんなこと言いたいわけじゃないから」


 すると「いいんじゃない?」と藍花が言う。正直、藍花自身気乗りはしてなさそうだったが、樋高さんの熱意が伝わったのだろう。


「玲未はそもそも来れるか分かんないし、来れるとしてもこんな熱心な人を無下にして『来ないで』なんて言う人じゃないから」


 藍花は僕と同じく蝦宇さんのことも考えていたようだ。僕は「そうだよね」と返答すると樋高さんを見上げた。


「分かった。じゃあ後で沢井さんに連絡とるから、日程決まったら……」


「今すぐ、連絡しれくれないかな」


 樋高さんの言葉が僕の声に被る。僕と音量は変わらないはずなのに、樋高さんの声の方が明瞭に聞こえた。


「え?」


「お願い、今すぐ連絡して」


「う、うん……分かった」


 樋高さんの必死さに負け、僕は手を伸ばし、ベッド脇に置いてあったリュックサックの中からスマホを取り出した。スマホ内に記されている沢井さんの携帯番号に触れ、耳に当てる。


 出るだろうか。複数回のコールを聞きながら、僕は沢井さんの多忙さを推し量った。すると不意に、無機質なコール音がざわめきに変わった。


『はい、沢井です』


「沢井さん、梶世です。この前の土曜日、訪問させていただいた、非術地方の……えっと、伊杷川先生の紹介で……」


 電話は不慣れで不得意だ。タジタジになりながらそう言うと、向こう側から『梶世くん!』と比較的明るい声が返ってきた。前回会ったときの最後の沢井さんの落ち込み度を見ただけあって、その声のトーンに少し安心する。


『ごめんねー、まだ機械修復できてないんだ。もうちょっとかかりそう!』


「すみません、忙しいでしょうに……」


『いや、これは僕の研究でもあるからね。それで、何の用だった?』


「あ、はい。実は、今日……」


 僕は今日あったことをつらつら説明した。すると沢井さんは電話からでも明白に分かるくらい驚いたようだ。声にならない息継ぎが電話口から漏れてくる。


 説明し終えると、沢井さんはふぅーっと細長い息を吐いた。


『……なるほど、じゃあまた画像化したいよね、梶世くんが見たっていうほかの人たちも』


「すみません、突然……。沢井さんの研究分野とずれているのなら、もちろん遠慮します」


『いや、僕は君自体にすごく興味があるから、研究させてもらっているんだ。頼むのはこっちだ。僕としても協力させてほしいな。いつ頃来れそう?』


「僕より沢井さんの都合を優先させてください」


『悪いね……。そうだなあ、となるとやっぱり土曜日の午後かな。と言っても、前回よりは時間が取れないかもしれない』


「構いません、本当にすみません」


 ここで、樋高さんが僕の耳元に口を近づけてきた。沢井さんの声は割と大きかったので周りにも漏れて聞こえていたのだろう。会話のタイミングを見計らったようだった。


「以前行った人数よりも一人増えますが、大丈夫ですか、って訊いてくれない?」


 僕はこくりと頷き、まさにそのまま「あの、以前行った人数よりも一人増えますが、大丈夫ですか?」と尋ねる。電話していると何だか他所事を考えている暇がない。周りのことをそのまま受け取ってしまう。


『何人でも構わないよ。あ、門をくぐるときに必要な身分証明書は忘れないように、とは言っておいてね』


「はい」


 前回も手続きには身分を証明するものが必要だった。ただ沢井さんが出迎えてきてくれたので、そこまで複雑なものではなかった。沢井さんが可術地方側から門を開ける手続きをしてくれたため、僕たちは門番に身分証を見せるだけで良かった。門を開ける際には、正式な理由と許可証が必要になる。沢井さんみたいな人がいなければ、僕らはそう簡単に可術地方に入れない。


『じゃあ、土曜日、この前と同じ昼の二時に。門の前で』


「はい、ありがとうございます」


 沢井さんが電話を切ったのを確認してから、僕はスマホを耳元から離した。机の上に置き、自分の体勢を整える。背もたれに体を預けて座っていたはずだったのに、いつの間にかずり落ちて寝転びそうになっていた。


「えっと樋高さん、聞こえてたかな。土曜日の、午後二時……」


「うん、聞こえてた。ありがとう、梶世くん」


 食い気味に樋高さんは言った。嬉しそうにショートカットを揺らし、唇に笑みを湛えている。そんな自分の表情に今気づいたのか、彼女はパッと顔に手を当てると、自分を落ち着かせるように呼吸をした。しかしそれでも、嬉しそうな顔は拭いきれていない。


 やっぱり樋高さんは気分屋のようだ。こんなに短い間で表情がコロコロ変わるなんて。


「そうだ、私やっぱりそろそろ部活行くね。梨橋さんが保健室いてくれるなら安心だし。土曜日、本当に楽しみにしてる」


「え? あ……うん。運んでくれてありがとうね」


 彼女は僕の返答を聞きつつ、そそくさとパイプ椅子を畳んで部屋の隅に立てかけた。


 すると保健室を出ようと背中を向けて歩いていた樋高さんが、急に振り向いた。彼女の瞳が意味深に光る。


「ねえ、梶世くん、梨橋さん、二人は……魂と肉体だったら、どっちのほうが大事だと思う?」


「えっ、どういうこと?」


 唐突に始まった質問に、僕は動揺を隠せない。藍花も訝しそうな表情をしている。心理テストみたいなものだろうか。


「姿は変わらないけど魂が変わってしまった人、もしくは姿は変わったけど魂は変わらなかった人……。例えば君の友達がそのどちらかになってしまった場合、どっちの方がいい?」


「え……魂が変わらない方がいいかな……」


 心理テストであれば、深く考えず直感で答えた方が良いと聞く。僕は出来るだけ素早く答えた。


「私も……かな」と藍花も言う。悩みながら答えたようには見えたが、おそらくこの質問の答えに迷ったのではなく、樋高さんの質問の意図が汲み取れなくてそのような表情をしているのだろう。


「だよね。君らならそう言ってくれるって思ってた。安心したよ」


 樋高さんは言うと、再び僕たちに背を向けた。僕はその背中に違和感を覚えた。さっきまで顔は嬉しそうだったのに、その背中はひどく重苦しく見える。


「人は魂が本質なのに、魂を守ろうとしたら倫理がどうのこうの言われる……これっておかしいと思わない?」


 彼女のその言葉は、まるで、彼女の背中が語ったような言葉だった。


 僕と藍花は何も言えぬままだった。そのうちに樋高さんは保健室からスッと出ていき、ただ足音だけが残されていった。


 魂と肉体が切り分けられる……これ、どこかで聞いた話だな……。


 僕が顎に手を当て考えていると、黒い楽器をぎゅっと胸に抱いた藍花がぽつりと言う。


「なんか千夢ちゃんって、謎めいてるよね……」


 同感だ。彼女はずっと、意味深な行動をしている。


 僕は樋高さんが帰っていった残像を把握するかのように廊下を見た。すでに静まり返った廊下には、早くも天井の白い電灯が付き始めていた。

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