40 一人の少女の物語②

 何か辺りが眩しい。


 ハッと目を開けると、見慣れない光景が広がっていた。


 どうやら私は真っ白い部屋に置かれた真っ白いベッドの上にいるようだった。病院みたいな印象を受けた。体を起こして周りを見渡すと、少し離れたところで瑠璃色の長い髪を持った女の人が、細くて長い足を組んでカップに口をつけていた。いい香りがするので中身はきっとコーヒーだろう。


 私はこの状況が咄嗟には理解できなかった。どうして私はこんなところにいるのだろう。この人は一体誰?


 そして不意に、辺りが炎で包まれている光景が鮮明に思い出された。勝手に指先が震える。喉の奥が絞られる気分になり、私は口元を押さえた。


 女の人は私に気づいたようで、コーヒーカップを机に置くと立ち上がってこちらに近づいてきた。


「二日間ほどぐっすり眠っていたようだけど、体調はどう?」


 優しい声色で話しかけられたことで、少しだけ落ち着いた。そして、あのとき助けてくれたあの人だ、と気づいた。口を押さえていた手を離し、腕や足を見る。瓦礫の下敷きになった記憶はあるのに、全く怪我をしてない。あのとき感じた死にそうな痛みなど全然なかった。服は、白いTシャツとハーフパンツだった。


「あなたが助けてくれたんですよね」


 私は女の人を見つめた。あの窮地を救ってくれたなんて、感謝してもしきれない。なんとなく自分の声に違和感を持ったが、さして気にならなかった。


 私は息を大きく吸い込んだ。肺に取り込まれる新鮮な空気が美味しい。


「ありがとうございます」


「いえいえ」と女の人は微笑んだ。改めて見ると、彼女はスタイルが良くて顔も小さく、格好良い。思わず見惚れていると、彼女は不意に顔を曇らせた。


「でもそれより、あなたには受け入れなければならないことがいくつもあるから、それに耐えなきゃいけないわ」


 受け入れなければならないこと……?


 思考を巡らせ、心がキリキリと痛んだ。一つ、何となく予想がつくことがある。


「もしかして、家族の安否……?」


 女の人は少し上を向き「それもあるけど……」と言った。


「後で話すわ」


「後で……?」


 となると、本当に悪い予感しかしない。私は布団をぎゅっと握り締めた。


 すると、女性が長く美しい髪を靡かせながら私と目を真正面から合わせた。


「そういえば自己紹介してなかったわね。あたしの名前はデビル・レディ」


「デ、デビル……?」


 名前のインパクトが強すぎて、私は恩人だというのに思わず身構えた。女性は困った表情をする。


「そんなに引かないでよ、傷つくなあ。あたしが自分でつくった名前なのよ。気に入ってるんだから。ま、あたしのことはレディって呼んでくれればいいわ。あたし、可術地方の人で、術が使えるんだ。だからあなたを助けられたの」


「そうなんですか。ありがとうございます」


「あなた、名前は?」


「あっ、浅西桜と言います」


 桜、と指で空に書いた。レディという人は満足げに頷く。


「桜ね。そう、あたしは術使いだから、桜の体も術で治そうとしたのよ。だけど、体がとても傷ついててどうにもしようがなかった。術を使ったとしても、完治するには二年くらいかかる。だから、まだ治ってない」


「……?」


 言っている意味がよく分からなかった。この女性が術を使えると聞いて、体が負傷していないことに納得していたのに。


「え……でも私の体、傷とか治ってますよね? 痛みも全然ないし。術を使って治してくださったんじゃないんですか?」


「あそこに鏡があるわ」


 レディは唐突に部屋の隅にある姿見を指さした。彼女の青い瞳がゆらりと揺れる。


「怖いかもしれないけど、それで自分の姿見てみて」


「え……?」


 意味が分からなかった。私はとりあえずベッドから降りて鏡の元へ歩いた。


 そして鏡に自分の姿が映る。


「えっ……」


 私は絶句した。目の前には全く知らない少女がいたのだ。肩くらいの髪に、少しだけつっているシュッとした目。思わず鏡を触った。鏡の向こう側の子も私と同じタイミングで鏡に触った。


「どういうこと……」


 目の前の光景がまだ信じられない。私は浅西桜じゃないの? この子は誰?


「ごめんね、あなたの命を救うには、この方法しかなかったの」


 レディはそう言い、私の肩にそっと手を置いた。きっと肩の震えが伝わったことだろう。


「さっき言ったでしょ。桜の体はもう本当にボロボロだったの。だから術をかけて、あなたの魂には入れ物に入ってもらった」


「……魂? 入れ物?」


 レディは『入れ物』の仕組みについて詳しく教えてくれた。その内容は、後々アイサ術研究所に行って教わったことと同じだった。あのときは、自分と同じものが揃って並んでいるという事実に気分を悪くしたものだ。


 とにかく、レディは淡々と私の体と『入れ物』について話していった。一通り説明を終えたレディは私の顔を覗き込み、「意味分かる?」と尋ねる。


「意味は……何となく……」


 理解は追いつかないけど、と心の中で呟いた。


「あなたの本当の体は、今こんな感じよ」


 するとレディは指をパチンと鳴らした。直後、空中に靄がかかって画像が現れた。


 私が、焦げた制服を着たまま、透明なカプセルの中に閉じ込められて寝ていた。顔には切り傷や火傷の跡が多く残っている。


 私は思わず「ひっ」と声を上げて数歩退いた。目の前にこんな姿の自分がいて動揺しないはずがない。勝手に手が震える。


 レディは靄を払うようにしてその画像を消すと、私に向き直った。


「でももう術による治療に取り掛かってるし、二年もしたらちゃんと桜の本当の体は治るだろうから安心して。あたしの術の威力は保証する」


「安心って……。できるわけないです、ちゃんと教えてください」


「え?」


「私の家族はどうなったんですか。あの火事は、一体何だったんですか。どうしてあんな目に遭わなきゃいけなかったんですか……! 何かご存知ですよね、教えてくださいっ……」


 大きな声を出したわけでもないのに、喉が拉げてしまいそうになった。自分でも分かる、今の私は情緒不安定だ。でも、この気持ちはどうしようもない。


 私はレディの手を握りしめた。何だか手の感覚がまるで手袋をつけているようだったが、今はどうでもよかった。


「お願いします。教えてください」


 レディはしばらくじっと私を見つめた。数秒後、彼女は決心したように「じゃあついてきて」と言い、私を部屋の外へ連れて行った。


 鬱蒼とした木々の中に隠れるように建っている建物から出ると、私たちはある方向に向かって歩いた。しばらくして何となく、どこに向かっているのかが分かった。感覚的にここは可術地方側だろうだから若干景色が違うが、それでも見覚えがある。私の家の近くだ。


 不意に、あの悪夢のような光景が思い出され、口の中がまずくなった。私は歯を食いしばり、俯いた。前を見たくない。するとレディが私の腕を掴んで引っ張ってくれた。私は地面を見たまま、引きずられるように歩く。


「着いたわよ」


 数分歩いた後、レディがそう声をかけた。私は決心し、ゆっくりと顔を上げる。


 目の前の光景を見て、愕然とした。予想外の景色だった。


 何もない……。


 ただ、草原が広がっているだけだ。唯一、歴代の統治者の名前が刻まれている、庭にあった石碑だけが残っていた。他には何もなく、大きな広場のようになっていた。


「……どういう、こと?」


 私は声を漏らさずにはいられなかった。だって屋敷はあんなに燃えていたはずだ。それはもう、受け止める覚悟をしていた。あの火事を現実として受け入れる覚悟はしていた。それなのに、残骸も火事のあった形跡も何もない。だからといって、綺麗なままの家が残っているわけでもない。


「ここ……どうして、何もないんですか。だって、私の家が……」


 私はぽっかりとした空気だけが流れる草原を凝視しながら言った。悲しい感情よりも、戸惑いの感情が先行する。


「あたしにも、詳しいことは分からなくて、細かいことは推測でしかないんだけど……」


 レディは答え、ため息をついた。上着の内ポケットからサングラスを取り出して掛け、空を仰ぐ。


「とにかく、一つ言えることがあるわ。気をしっかり持って、落ち着いて聞いて」


 レディはサングラス越しに私を見つめ、私の両肩を力強く持った。その勢いで、まるでネジの外れたおもちゃみたいに、私の首がぐらぐら揺れる。


 聞きたくない。嫌だ、何も聞きたくない……!


「あなたの家族は、存在を消された」


 ……。


 空白が通り過ぎた。


『存在を消された』


 ソンザイヲケサレタ……? 何、それ……?


「家族だけじゃない、あなたもよ。あなたも、もう世の中には存在しないことになってる。あたし以外、あなたのことを覚えてる人なんていない。もともとこの世界に浅西家なんてなかった。世界中の誰も、浅西家なんて知らない。それで辻褄が合うように、世界が変わったということよ」


 もともとこの世界に、浅西家なんて、なかった?


 それはつまり、例えば藍花に会っても、藍花は私のことを覚えてない、知らない、分からない、ってこと……?


 何? この人は何を……どうしてそんな、あり得ないことを言っているの?


「……そんなこと」


「ん?」


「そんなこと、あるはずないじゃないですか。何をおかしなことを言ってるんですか?」


 思ったことがそのまま言葉に出ていた。彼女の馬鹿げた話に、笑いすら込み上げてくる。そんな私に対し、レディは伏し目がちになった。長い髪の毛を風に靡かせている。


「……術の常識は、非術地方の人の常識をいつも上回るものよ」


「……」


「本当は、分かってるでしょ? ……ほら、拭いて」


「……何を?」


 言ってからハッとした。レディにハンカチを差し出されて気づいた。


 いつの間にか勝手に涙が流れていた。


 涙って、こんな無意識に流せるものなんだ、とぼんやり思う。しかしその後すぐ喉から何かが込み上げてきた。必然的にしゃくり上げる。


 私はレディからハンカチをひったくると目に強く押し当てた。よく見ると、このハンカチは私が制服のポケットに入れていた桜柄のハンカチだった。煤で少し汚れている。


 私は呼吸を落ち着けようと、わざとらしく深呼吸をした。そんな私を何とも言えない表情で見ながら、レディは話を続ける。


「禁断の術、っていうのがあるのよ。危険で、すごく難しい術。その中の一つに、存在を消す術がある。あなたの家族は……全員、亡くなった後にそれをかけられて、この世に存在したという証もなくなった。遺体すらない。あなたに関しては、死ぬ前にあたしが助けたから、存在こそは消されたものの、実体はとりあえず何とかなってるけど……」


 家族は全員亡くなり、その存在すらなくなった。


 レディの言葉がグワンと頭に反響する。眩暈もしてきた。私は俯き、小さく口を動かす。


「……っ、じゃあ、解いて……」


「えっ?」


 私はぎゅっとハンカチを握りしめた。ふと、このハンカチは私が身につけていたから消えずに済んだのかな、などという思考がナチュラルに浮かんだ。そんな自分をぶん殴りたく思いながら、私は言葉を続ける。


「あなたは術を使えるんですよね? そんな術、対抗の術みたいなので解いてください。お願いします」


 鼻声で、かつ早口になった。なぜか睨むような目つきになってしまう。レディは困ったように両手を広げた。


「待ってよ、解いたところであなたの家族は帰ってこないわ。そもそもトワの術に対抗するなんて、流石のあたしでも無理よ」


「トワ?」


 急に突飛な言葉が飛び出し、激しく動揺する。指の震えが止まらない。


「え、え……こんなひどいことをしたのは、トワ様だって言うんですか……?」


「その表現は正確じゃないわね。でも存在の消去に関わったのは間違いなくトワよ。禁断の術の中でも人の存在を消す術っていうのは難しくて、トワほどの力がないとできないのよ」


「そんな」


 声が喉にへばりついた。信じられない。今まで崇め奉っていた統治者トワ様が……平和な世界を創造してくれるはずのトワ様が……まさかそんな……。


「おそらくこんな事件を防ぎきれなかったことに恥を感じたんでしょうね。最強と言われている評判が廃ってしまうって。だから、なかったことにした」


「防げなかった……じゃあ、こんな事件を起こしたのは、一体誰なんですかっ」


 私は唾を飛ばした。さっきハンカチで頑張って押さえたと思っていた涙が、再び出てくる。粒がポロポロと空中に舞った。


 レディの瞳がスッと細くなった。


「名前は分かんない。でも、姿は見たわ」


「どんな……」


 私は訊く。すると、レディは意味深に目を逸らした。


「学ランを着た、そんな背の高くない、中学生くらいの男の子よ」


 ヒヤッと心が冷やされた。全身の筋肉が強張る感じがする。


 該当する人が一人だけ思い当たり、脳裏によぎる。


 ……登……。


 あの時の光景が蘇った。瓦礫に押し潰されているとき、登が私を見つけた時のことだ。


『登……助けて』


 必死に登に手を伸ばす。けれど登は、私の手を掴んではくれなかった。


 別に、あの時の登の行動を責めるつもりはない。自分の身の安全を優先させて、一人で逃げたのだろう。もう私は助からないだろうと踏んで。二人とも死ぬくらいなら、自分だけは――。その感情は、理解できる。悲しかったけど、それで登を責めたくはなかった。


 でも、もやもやした気持ちが湧き起こっていたのも、否定できない。


 登は、もしかしたら最初から、私を助ける気なんてなかったのでは……?


 そんな思いも、どこか片隅にあった。でも、そんなことないって、信じたかった。信じたかったけど……。


「まあ、何であたしが犯人の姿を目撃できたのかとか、色々疑問はあると思うけど、それは一旦部屋に戻ってからにしましょ。疲れたでしょうから、ゆっくり休むといいわ」


「……すみません」


 蚊の鳴くようなになった。この女の人は、どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。別の意味の涙も溢れそうになった。でも、いつまでも甘えるわけには……と思っていると、まるで私の考えを見透かしたかのように「大丈夫よ」と口を動かした。


「あたしだってこんな可哀想な人放っておけない。桜、これからはあたしの家で暮らすといいわ」


「え、でも」


「他に何か、ここから生きていける当てでもあるの?」


「……ないです」


「でしょ。おいで、帰るよ」


 レディが歩き出す。彼女の優しい言葉に、私はとめどなく涙を流しながら、家に向かう彼女の後ろを追った。


 家に戻ってきた。改めて見ると、私の家ほどじゃないけれど、やや大きな屋敷だ。それなのに周囲の木々のせいで隠れ家みたいになっていて、一見そこに住処があるようには見えない。


 私は入り口の扉の前で息を吸い込んだ。


「……お邪魔します」


「そんなに固くならないでよ。今日からあなたの家よ」


 レディそう言い、私の額に人差し指を当てた。触れられた部分から私に熱が流れていくように感じた。どういう意図があるのかは分からなかったが、涙は止まらなかった。


「……はい。……本当にごめんなさい。迷惑しかかけてなくて」


「馬鹿ね、悪いのはあなたじゃないんだから、あなたが謝る必要なんてないのよ」


 レディは言い、私に微笑みかけた。絶望の渦中にいる私の前に現れた、唯一の光だった。


 これからどう生きればいいのか、何をすればいいのか、私には正直分からなかった。けれど、この女性がいるなら何とかなる――なぜかそう確信した。


           ・・・


「訊きたいこと、いっぱいあるでしょ? まずあたしは何から話せばいいかしら」


 レディはそう言うと、背の高い椅子に腰掛け足を組んだ。すらっとして長い足が露わになる。


「じゃあ……レディさん」


「呼び捨てでいいわ。敬語もいらない。何?」


「あ、えっと、レディ……じゃあ最初に質問なんだけど、レディはどうして、火事の現場を目撃したの?」


「それを答える前に」


 レディは細い指を一本立て、私の眼前に出した。なぜだろう、いちいち仕草が妖艶に感じる。


「まず大前提として言っておかなきゃいけないのは、あたしはトワが大嫌いということよ」


「大嫌い……」


「あなたにも分かったんじゃない? あんな大変な事件を術を使ってひた隠しにする奴よ。トワだけじゃなく、トワを許容しているこの世界も嫌い。だからあたしは、この世界を変えたいと思ってる」


 私はコクリと頷いた。レディの言っていることは理解できた。もしこれを聞いたのが、悪夢の事件が起きる前の、トワを崇拝していた時だったら、全く理解できなかったかもしれない。


「世界を変えるためには、何かしらの行動が必要なわけ。あたしは、とにかくこの世界を壊したかった。だから、……あたしは怪盗になったのよ」


「怪盗……?」


 私はおうむ返しをした。そんな言葉、テレビや映画の中だけの言葉だと思っていた。具体的なイメージが咄嗟には湧かない。


「怪盗って、物を盗んだりする人……のこと?」


「そうよ。……幻滅した? 優しく接してくれた人が、実は犯罪者だった、なんて」


「いや、それは全然」


 理由が分かっているので、怪盗と言われても犯罪者という言葉には結び付かなかった。怪盗というか、むしろ革命家とかに近いのではないか。


 レディはほっと胸を撫で下ろした。


「桜がそう言ってくれてよかった。まあとにかく、あたしはあの時、トワを討伐すべく活動してたのよ。火事を見たのは、まさにあたしが可術地方と非術地方を移動していた途中だった」


「移動?」


「もちろん手続きなしで不法に、だけどね。術で空を飛んでたんだけど、そうしたら下に妙な人が見えて」


 一気に緊張した。手のひらから冷たい汗が滲み出てくる。そうやって話されたら、妙な人というのは一人しか思いつかない。


 ……登……。


「一人の学ランの男の子がね、大きな屋敷の隅っこで何かしてたの。あ、屋敷っていうのは桜の家のことね。それで、ちょっと怪しかったけど、あたしは不法に移動してたし人にバレるわけにはいかなかったから、そのまま何もしなかった。でも少しした後、再び戻ったときには、もう屋敷は完全に燃え上がっていて……」


「……」


「ごめんね、あのときあたしが咎めていたら、もしかしたらこんなことには……。でも、まさかあんな優しそうな顔の子がそんなひどいことをするなんて、思わなかったから」


 レディはパチンと指を鳴らした。すると空気が揺らめき、私の目の前にぼんやりした映像みたいなものが写る。さっき私の体がどうなっているのかを見せてくれたときと、ほぼ同じ術を使っているようだ。それは次第に焦点を合わせていき、数秒後にははっきりしたものになった。


 そこにあったのは、一人の男の子の顔。


 間違いない。嘘であってほしかったが、間違いなかった。


「見て、こんな子だったの。ね、家を燃やすような子には見えないでしょ」


「……登……」


「え?」


「梶世登。彼、私の……同級生……」


「うそ、知り合い?」


 レディは口元に手を当て、パチパチとまばたきをした。少し後、気まずそうな顔をする。


「……じゃああなたには、余計に酷な現実を突きつけることになるわね」


 彼女は目を伏せ、腕を組んだ。窓の向こうで強い風が吹いた音がする。


「でも、あの……彼は非術地方の人ですよ。術を使えない人でも、あんな大きな炎をつくれるものなんですか」


 私は訊いた。こんな反論、余計に自分の心を抉っていくと分かっているのに、気づいたら言葉にしていた。


 予感通り、レディは即時に頷いた。


「もちろん可能よ。火をつけるなんて、誰でもできるじゃない。まあ、術を使うよりも時間はかかるとは思うけどね」


「……」


「そう、いつのまにか炎が上がっていて、それを見てあたしが愕然としてるとき……まだ近くにその男の子はいたの。そして、燃え盛る屋敷を目の前にして、笑ってた」


「笑ってた……」


 想像できない。あんな優しかった登が、私の家が焼けるのを見て、笑っていた?


 私は膝の上に乗せていた手をぎゅっと握り締めた。自分が座っている椅子がギシッと嫌な軋み音を立てる。


「さすがに止めようと思って、あたしは彼に近づこうとしたの。そしたら彼、玄関の方まで歩いていって……。見てみたら、瓦礫に潰された桜がいた」


 レディはふぅ、と一つ息を吐いた。


「桜の方に向かってるようだったから、助けるつもりなのかなって思って、あたし安心したの。あの怪しい笑いは見間違いだったのかもってね。でも、あのあと彼は桜に向かって『さよなら』って言って、どこかに逃げていった」


「……」


「だからあたしは急いで桜の元に駆けつけ、桜を救ったってわけ。本当はあの少年を捕まえたり、火事を抑え込んだりしたかったんだけど、家はもう手遅れのようだったし、桜の介抱が第一優先だと思って……」


 レディは掛けていたサングラスを外し、近くの机の上にカタリと置いた。言葉は途切れ、しばらく沈黙が流れる。レディの手が、手持ち無沙汰のように机を規則的に叩いた。


 私は完全に脱力していた。心が死んだ、とはまさにこのことだと思う。


 登は、どうしてそんなことをしたんだろう。


 信じてたのに……信じてたからこそ、憎い。怒りと悲しみのマグマが腹の底から噴出してきているのが分かる。


 登、教えて? どうしてそんなことをしたの?


 私のこと、家族ごと殺したいくらい嫌いだったの? それとも何かの口封じ? それとも、……。


 レディがそっと私に近づいてきた。見つめられ、美しすぎるその青色の瞳に吸い込まれそうになった。彼女は私の額に優しく人差し指を当てる。


「ねえ、桜……」


 彼女の整った形の唇が、小さく動く。次にその唇が動いたときには、今後の私の人生を決める大事な一言が放たれていた。


「絶対、あいつに復讐しにいこうね」


 額がぼんやりと温かくなる。私は、ふくしゅう、と声を出さずに呟いた。


 その単語に、拒否の感情は湧かなかった。

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