39 一人の少女の物語①
そう。私は忘れない。
あなたが犯したことを、私は一生忘れない。
思い知るがいいわ、私の、恨みを。
あのときの悲しみを、絶望を……。
・・・
「桜って言うの?」
それが初めて登にかけられた言葉だった。私はびっくりして思わず「へっ?」と間抜けな回答しかできなかった。でも登も、しゃべり慣れてるから私に話しかけたわけではなく、ついうっかり、という顔をしていた。何だか不思議な人だなと思った。
「いい名前だね」
登はそう言い、ふわりと笑った。
記憶の中に、その登の笑顔がこびりついて取れない。
梶世登という人物は本当に真面目で、「いい人」なんだなあという印象だった。身長はそんなに高くなく、何となくみんなから可愛がられるイメージ。普段はおとなしそうな子たちといることが多いが、どんな人とも対等に親しく話すことのできる人だ。
本人は「会話が苦手で」と言っているが、多分そんなことない。登となら気をつかって話さなくても自分のこと分かってくれている感じがして、気が楽である。現に自分の家のことを少し言ってしまったくらいだ。今まで藍花にしか言ったことなかったのに。
「桜?」
ハッとした。顔をあげると藍花の顔のアップが目に入ってきた。私は思わず仰け反る。
「わ、藍花っ、な、何?」
「もう放課後だよ。部活、行こ?」
「あ……うん、そだね」
すると何か思い当たったのか、藍花はポンと手を打つ。そして彼女は目をキラキラ輝かせた。私の肩を掴む。
「何か二年になってからすごくぼーっとすること増えたんじゃない? もしかして恋? 恋?」
私はぐいぐいくる藍花を手で制した。「な、何よ急に……」と顔を背ける。
「恋煩い、ってやつじゃないのー? 嫌じゃなかったら聞かせてよー!」
「や、だって私、今まで恋……とかしたことないからちょっとよく分かんないし……。そんなんじゃないと思う」
私は逃げるように支度を始めた。しかし藍花の瞳の輝きがさらに増していく。
「え、待って! 半分冗談だったのに、ビンゴなの!? そう言うってことは、気になる人はいるんだね!?」
「……」
「ほら、ほら!」
藍花が自分の耳をちょんちょんと触って耳打ちを求めてきた。返答を間違ったかもしれない。私は仕方なく藍花の耳に口を近づけた。
私から名前を聞いた藍花は「へえー!」と目を見開いた。
「そうなんだー! ちょっと意外だけど、いいと思う! あいついい人だしね」
「え、意外って何で?」
私は照れながら訊いた。こういう話をするのは初めてな気がする。
「えー、何となく。桜って美少女だし、芸能人みたいな人と付き合うのかなーなんて」
「私、別に美少女じゃないけど……」
「そっかー、登かあ」
藍花は私の言葉を完全に無視し、そっかそっかと頷いた。
「藍花、あのね、別に好きとかじゃないから!」
私はムキになって言った。しかし、一度口に出してしまうと何だかずっと心の中に登がいるような感覚になる。藍花が変なこと言うから本当に変な気分になるじゃない、と私は藍花を睨みたい気分になった。
一回、私と登が話しているときに藍花がやってきて、「お二人さん本当にラブラブだよね」と耳打ちしてきたときがあった。あのときは恥ずかしさで本当に叫びそうだった。叫びそうというか、叫んだかもしれない。
とにかく登のことに関わると私は馬鹿になった気がする。
ある日、サッカー部の試合を見に行くことになった。途中のバスの中で、藍花は「本当に行くとは思わなかったけど」と言った。
「え?」
「登、試合に出ないって言ってたのに。登だって来るなんて思ってないでしょ。むしろ来てほしくないんじゃないの? そもそも好きな人が出ない試合を見てて楽しい?」
「いいのよ」と私は言った。普通に考えたら藍花のような考えに行きつくのだろうが、私は違った。
「観戦しながら登にサッカーのルール教えてもらうの。それに登、来てくれたら嬉しいって言ってたじゃない」
飄々と言う。しかし本当は、ただ登としゃべりたいだけだった。藍花は口を横に広げる。
「……登のそれって建前じゃないの?」
「建前でも言ってたんだからいいの」
全く強引な女だったと思う。ともかく私たちは会場について、観客席を歩き回った。来ている人たちも少なかったし、登は部活Tシャツを着ていたからすぐに見つかった。
登の姿を見て、私は思わず足を止めた。
声を張り上げて、精一杯応援している。今まで私が聞いたことないくらいの音量だ。一切恥ずかしがることなく、堂々と応援している。
そんな登の姿に、私はなぜだか胸がぎゅっと締め付けられた。
登の周りにいる数名は、メンバー入りできなかったことにイライラしているのか、寝転がっておしゃべりしていたり、本を読んでいたりしていた。学校のサッカー部がそんなに優秀でないことは知っていたので、グダグダしていても特にお咎めなどないような緩い部活だろうとは思う。
けれど、その中で登は輝いていた。正直、試合をしている人たちよりも目が奪われた。
「……桜?」
「……えっ?」
「登の近くに行かないの?」
私は藍花の顔を見てはっとした。どうやら登の姿を見てぼーっとしてしまったらしい。「あ、行く行く」と焦って言う。
登は私たちを見つけて、とびきりの笑顔を見せてくれた。その姿に堪らなく胸がときめいた。
いつの間にか試合の終盤になった。私たちの学校は、圧倒的大差で負けていた。
「あーあー、あと一分だよ」
藍花は腕時計を見ながら残念そうな声をあげた。私は帰り支度を始めたが、登は構わず応援を続けている。自分だけ帰り支度をするのが少し後ろめたくて、私は思わず声をかけた。
「登もそろそろ荷物まとめたら?」
しかし登は、私に微笑みかけたもののその場から動かない。私は首を捻った。
「先に準備しておいた方が早く帰れるのに……。試合終わった後に何か話し合いとかあるの?」
「いや、特には……」
「もう応援やめても、結果は多分変わらないよ?」
私は思わずこんなことを言った。しかし登は笑顔のままだ。そして、彼はこう言ったのだ。
「そんなことないよ。絶対何か変わってる。たとえスコアは変わらなくてもね」
何てことないように登は即答した。私にはそれが、息が詰まるほど衝撃だった。うまく言語化できないけれど、何というか、その一言で彼の性格が伝わった気がした。
この人すごい。本当にすごい。
見栄を張っているわけではない。彼は本気でそう思っているのだ。
すごい……。
そこから私は、もう登のことで頭がいっぱいになってしまった。
登の魅力を語るたび、藍花は、私のことがよく分からないといった風に少し呆れたように首を傾げていた。別に分かってもらわなくていい。ただ言いたいだけ。登の良さは私だけが知っていればいいのだから。
……。
しかし、そんな思いも粉々に打ち砕かれることになる。
登を信じた私が馬鹿だったのだ。まさか登があんなことをするなんて……。
しかしその時の私は、そんなこと露ほども知らなかった。
・・・
ある冬の日。
吹奏楽部の練習が終わり、私は帰路についていた。私の家の立地場所は特殊で、周りにほかの建物はない。木々が生えた小さい森のような道を抜けて辿り着くのだ。
私の家は、人々の地方の境界の出入りを管理する仕事をしていた。自宅はまさにその現場、地方の境界に凛として建っていた。ただし書類上は非術地方にあることになっていた。責任者であるお父さんも、その家族であるお母さんも私も、非術の人間だから当然ではある。
そして、自分で言うのも何だけれど、自宅はなかなか大きな屋敷だった。境界の出入り管理は権力のある仕事で、非術地方と可術地方を結ぶ神聖なものらしく、浅西家が代々受け継ぐことになっていた。ただお父さんはその仕事の傍ら研究者としての一面もあり、よく仲間と集まって、忙しそうに、けれど楽しそうにしていた。
私は本当にあたたかい人たちに囲まれて暮らしていた。お父さん、お母さん、さらに、浅西家に代々仕えてくれる
今だけでなくその当時も『術使いに近寄るのは怖い』みたいな風潮は一部あったが、私にはそういう背景があったから、可術地方の人など全然怖くなかった。お父さんだっていつもの研究所メンバーに一人可術地方の人がいたらしいし、怖いわけない。世の中の一部の人はどうしてそんなに恐れるんだろうと思う。
とにかく私は幸せに暮らしていたのだ。受け継ぐ仕事のための、何に必要なのか分からない教養関係とかお作法を習うのとかは少し厳しくて、料理は一向にうまくならなくて大変だったけど、それを抜きにしても楽しかった。恵まれていた。
それなのに……。
その家までの、学校からの帰り道の小さい森を歩いているとき、何だか変な臭いがした。焚火でもやっているような、そんな焦げた臭い。
どうしようもない不安に駆られた。冬だからもともと日が沈むのが早くて暗いのに、真っ黒な雲が空をどんどん覆っていき、ますます明かりがなくなっていった。私は不安を振り解きたくて、家に向かって走り出した。
しかし家に近づくにつれて逆に明るくなってきた。オレンジ色の明かりが木々の隙間から見えるのだ。私は震える足を精一杯動かして家の前に辿り着いた。
目の前の光景に愕然とした。
家は、憎たらしいほど鮮やかなオレンジ色での炎に包まれていた。大きな屋敷なのに、それを上回るさらに大きな炎が存在している。私は息ができないかと思った。煙が喉に入り込む。目に染みる。炎の熱さを全身で感じる。
私の家が。大切な家が……。
「どうして……」
呟かずにはいられなかった。何が起こっているのか、考えたくない。考えられない。頭の中が灰になっていくようだった。
だって、中には、仕事が休みのお父さんも、お母さんも、秀美さんも広美さんも、みんないる。大切な人たちが、みんな……!
どうすればいい? 私は、何をすれば……。
奥歯がカタカタ震え、自制が効かなくなる。目の前の景色がやたらくっきり際立って見えるせいで、今いる世界がとても現実のものとは思えなかった。そっか、これは悪い夢なんだ、と膝の力が抜けたが、地面に膝をついたときに小石が皮膚に突き刺さり、強烈な痛みが走った。ハッとし、やっぱり現実だと再確認する。
落ち着け、私。まずは誰かに伝えなきゃ。
私は辺りを見回したが、もちろん誰もいない。今まで家が奥地にあることについて、隠れ家みたいで素敵だと思っていたが、初めてそれを最悪だと思った。学校に携帯電話を持って行っていけない校則も呪った。
「お母さーん!」
とりあえず叫んだ。しかし、炎の音が邪魔で、自分ですら全然聞こえない。しかも喉もすぐに痛くなる。火の粉が全身に飛んでくる感覚に襲われる。
しかし私は諦めなかった。
「お父さーん! 秀美さーん! 広美さーん!」
すぐに息が切れる。苦しい。汗が頬を伝う。そのくせ喉はカラカラになる。煙のせいで頭も痛くなってきた。
みんなはちゃんと逃げているのだろうか。私は一体どうすればいいのだろう。
いくら奥地でも煙が上がっているのが分かれば、誰かが消防を呼んでくれるかもしれない。しかし消防車が来る気配は今のところ全くない。ならば、私が引き返して、住宅地に行って誰かに連絡してもらうしかない。
でもみんなが中にいるかもしれないこの家を放っていくのは、見捨てるみたいで心が痛かった。しかし、みんなが中にいるんだったらなおさら救助が欲しい。
どうするべきか逡巡した挙句、私はくっと唇を噛み締めた。
「みんなお願い。無事でいて! 今助け呼んでくるから!」
というか、もうみんな逃げてこの家にはいないはずだ。きっとそうだ。安全な場所に避難してるに違いない。そう信じ込み、私は家に背を向けようとした。
しかし、その時――私の目は、一つの光景に囚われた。
遠目に見える、家の窓ガラスの向こうで倒れている一人の女の人。
「お、お母さん!?」
感情に心が支配され、理性が全く働かなかった。助けなきゃ……! と私は燃え盛る炎に向かって真っ直ぐ走っていった。
すると、上から何かが降ってきた。これもオレンジ色だ。オレンジ色の、大きな塊……。
何の音も聞こえなくなった。炎の音も、私が動く音も、何もかも。目はその塊から離れなくなって、私は上を見上げたまま動けなくなった。足が地面に固定されたみたい。すごくゆっくり落ちてくる。
ガッシャーン、という大きい音とともに、私は地面に叩きつけられた。音とともに時間の速さが元に戻る。
何が降ってきたのか分からない。屋根なのか、壁の一部なのか。下半身の骨が粉々に砕かれたんじゃないかというほどの衝撃だ。しかも熱い。熱すぎて痛いというのはまさにこのことだ。しかし、かろうじて頭には落ちてこなかったので何とか意識は保っている。
「だ、だ……れ、か……」
声を出す。自分でも、こんなの誰か届くわけないと分かる。明らかに、絶望的だ。
何でこんな目に遭うの……誰か、助けて……。
動かない体の痛みに必死で耐えながら、涙が出てきた。止まらない。
泣いたって仕方ない。涙で火が消えるわけがないのだから。
でも、もう死ぬんだ私は、と思うと、つらいだけでは言い尽くせない。心も焼き尽くされそうだった。だから、泣くしかなかった。
誰か、お願い、助けて……!
「……桜!?」
耳馴染んだ声がした。聞くと胸が締め付けられる、優しい雰囲気の声。胸の奥が、ドクン、と脈打った。
でも、こんなところにいるわけない。私の家なんて知らないはず。知っていたとしても、中になんて入れないはず。
でも、この声は……。
痛みに耐えながら、私は顔をあげた。
目の前には、学ラン姿の……登がいた。
何でこんなところにいるのか全く意味が分からなかったが、そんなことはどうでもいいほど、一瞬で救われた気がした。まさにヒーローだ。ピンチの時に駆けつけてくれる、かっこいいヒーロー。涙がさっきより次々にあふれてきた。
「のぼ……る……」
「……の、……たの」
登の口がパクパク動く。しかし、周りの炎が叫ぶ音がうるさいうえ、負傷のためか耳鳴りがひどくなってきて、全然聞こえなかった。登は汗を垂らしながらただ口を動かし、私の上に乗っかった瓦礫に手をかける。
「登、何……て……? 何言ってるか……全然、分かん……ない……」
「ま……、……すけ……」
登は再び何かを言うと、私を押しつぶしている瓦礫に触れていた手に力を込めたようだった。横目で見てもわかるが、瓦礫には明らかに火がついている。しかし登は構うことなく火の上に手を置いている。
私はもう、この人に縋るしかない。
「登……助けて」
そう言うと、登は私の目をじっと見つめた。彼は私の目を見ながら、口を開く。
「ぜ……る」
真っすぐすぎる目が、私を貫いた。登の汗がポタポタ落ちて、地面に跡をつくる。
しかし登は、そのまま静止していた。
登……?
彼が何をやっているのか、私には分からなかった。瓦礫に手をつき、私を見ながら汗を垂らしている。ずっとその状態で、全く動かない。
「が……むこ……か……いだ」
するとまた登がしゃべりだした。次第に耳だけでなく目の調子も悪くなってきた。目の縁がぼやけてきて、辺りにチカチカした光が入ってくる。登の口の動きも、あまり見えなくなってくる。
「い……がわ……も……ぬ……ぼく……にげ……」
再び声の断片が僅かだけ聞こえた。と同時に、地面を蹴って方向転換する、ザッという足音が聞こえた。耳鳴りがひどくなっているのに、その音だけは明瞭に聞こえた。そして、走っていくような靴の音もして、それはだんだん遠くなる。
視界に映る、ぼやけた人影が、小さくなっていく。
え……?
助けに来てくれたヒーローが去っていく姿に、私はパニックになった。見えた希望の光が、一瞬にして掻き消される。
待って、登、どこに行くの。私を置いていかないで。お願い……!
しかし、そんな私の思いを嘲笑うかのように、次第に肩のあたりまで熱くなってきた。目が霞んでよく分からないが、そこまで炎が来ているのだろう。熱い、痛い、くらくらする。もう限界だった。
もう……終わりだ。
すると、空の方から何かが落ちてくるのが片隅にぼんやり見えた。私にとどめを刺してくれるのかな、と目を閉じたが、そうではなかった。
ズサッと人が着地するような音が聞こえたのだ。私に届いた新たな痛みはない。薄く目を開ける。
目の前には、全体的に青っぽい人がいた。
その人が私に向かって手を伸ばしたのだろうか、よく見えないが何か動作をした。すると急に体が軽くなった。気づいたら私の上に乗っていた瓦礫がなくなっている。
びっくりしている暇もないまま、私は見知らぬ人に抱えられた。
「大丈夫?」
落ち着いた女の人の声だった。近くに火の手があるのに、ひんやりとした声質に思えた。耳元でしゃべってくれるので、一応しっかり聞き取れる。
「あ……」
「すぐに治療してあげるから、待ってなさい」
「待って……。の、登が……」
「あたしに掴まっててね」
女の人は、私の言葉を遮ると、何と空中にふわりと浮かび上がった。飛び上がる……術? 可術地方の人なのかな、なんてことを回らない頭でぼんやり思った。
私はそのうちに、解放感と上空の冷気を感じて意識を飛ばしてしまった。
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