27 父娘

「父さん……」


 樋高さんがもう一度、確認するように呟いた。


 部屋の隅に蹲っていた藍花と蝦宇さんが顔を見合わせ、その後同時にアケビさんに目を向け静止する。瞬も彼を見て固まっている。僕だって同じだ。息を飲む。


 アケビさんが、樋高さんの父親……?


 二人はお互いがお互いの顔を見て、目を見開いている。するとアケビさんが全身で呼吸をするように息を吸い、吐き出した。


「……どうして千夢がこんなところに……」


「それはこっちのセリフだよ、父さん……。どうして可術地方にいるの? どうしてこいつの研究所なんかに……」


 僕はなぜか気になって、沢井さんの表情を見た。彼は、やれやれと言うような、あーあと言うような、そんな顔つきだった。先ほど叩きつけられた背中を自分でさすり、痛そうにしながら身を起こしている。


 沢井さんは徐に立ち上がると、眼鏡を掛け直した。


「アケビ……いや、樋高フウジ。僕は、君の要望を最大限叶えようとしたけど、もうこれ以上は無理だよ。諦めて、全て話した方がいい」


「所長……。……ああ、私に連絡して遠くの待ち合わせ場所に呼んだのは、千夢がここに来ているのを知っていたからなんですね。遠ざけてくれていたんだ」


「本当のことを言えば君が混乱するのは分かっていたから。苦肉の策だったよ、失敗したけどね。どうしてここに戻ってきた?」


「いや、スマホを忘れたのに気付いて……。って、何ですか、私の部屋。ぐちゃぐちゃじゃないですか」


「……待って、父さん、本当にどういうこと? ここ、父さんの部屋なの? ここで働いてるの?」


 樋高さんがよろよろと立ち上がる。さっきまであんなに激しく機敏に戦っていた彼女が幻影だったかのように、ふらついている。そんな、揺れた足取りのまま、彼女はアケビさんの服にぎゅっと頭を押し付けた。


「意味分かんないよ、説明して、父さん」


 怒ったような口調。けれど、愛しさに溢れたような声だった。ずっと会いたかった、ひたすらに会いたかった、という彼女の思いが聞こえた気がして、あまりの急展開にもかかわらず胸が締め付けられる。


 ふと、僕は一体どれほど前に父親に向かって「父さん」と呼びかけただろう、と思った。最近においてはそんな機会もちろんないし、少し前を遡ってみても、空白の一年以外の話ではあるが、ない気がする。同様に、母親に向かって「母さん」と呼びかけたことも、遠く前の出来事だ。


「父さんが急に消えて、連絡もないからっ……私っ……こ、この人が、父さんをどっかにやったのかと思って、私、私……」


 沢井さんを指差す樋高さんは、震えている。指先も、体も、声も、全て。


「……ごめん、千夢」とアケビさんは項垂れている。一方の樋高さんは止まらない。


「この人を懲らしめようとっ……私は、規律破ってまでこっちに戻ってきたの! なのになんで父さんもこっちにいるわけ? どうして私たちの前からいなくなったの? 私や母さんがどれだけ心配したか分かってるの!?」


「樋高さん」


 すると、芯の通った凛とする声が部屋に響いた。


 蝦宇さんだ。彼女のシュッとした瞳が樋高さんを捉えている。怯えていた気持ちに無理やり蓋をしているのか、足が少し震えている。それでも視線はまっすぐだ。


「樋高さんの気持ちは分からなくもないけど、怒るよりも前に、私たちに謝ってくれないかな」


「……」


「アケビさんと沢井さんの関係を見る限り、樋高さんの考えは誤解だったんでしょ? そうですよね、アケビさん。会話を聞く限り、アケビさんは、自分の意志でここにいるんですよね? 沢井さんに何かされたわけではなく」


「そうだよ」


 アケビさんははっきりした口調で言った。彼の本名は『樋高フウジ』らしいが、『アケビさん』に慣れてしまった僕にはその呼び名を変えられない。蝦宇さんが言う呼称を聞く限り、彼女も僕と同じようだ。今思えば、『アケビ』は『樋』の字と『木通あけび』をもじって付けた偽名ということだろう。気づかなかった。


 蝦宇さんがぎゅっと拳を握る。


「樋高さん。私、正直怒ってる。こんなことして……もし、梶世くんの記憶がぐちゃぐちゃになったら……もし、倒れたまま意識が一生戻らなかったら……。そういうの、考えた?」


 彼女の口から唐突に僕の名前が出たものだから、僕は反射でビクッと震えてしまった。てっきり、怒っている理由はさっき暴れていた樋高さんが怖かったからだと思ったのに。内側からじわじわと体温が上がるのが分かる。


 蝦宇さんが、僕を心配してくれている……?


 すると樋高さんは「梶世くんのことを考えないなんてことしないよ!」と即座に反論した。少しムッとしたような様相だった。


「だ……だって梶世くんは、記憶を思い出したいんでしょ? 私は……そりゃ、梶世くんを利用してしまったのは事実だけど、ついでに梶世くんの願いが叶えばと思って……!」


「私が言いたいのは、そういうことじゃないっ!」


 蝦宇さんがスカートを翻しながら樋高さんに近づく。あまり見ない彼女の張り詰めた表情に「玲未、落ち着いて……」と藍花が彼女に近づいた。


 不意に、沢井さんが樋高さんの肩を叩いた。彼女はびっくりした素振りは見せたが、少し前まで見せていた嫌悪の感情は表していなかった。どういう態度を取ればいいか分からないようにも見える。口を半開きにし、戸惑ったように彼を直視している。沢井さんは、逸らすことなく彼女を見つめ返した。


「その子の言う通りだよ、千夢ちゃん。むやみに強引に記憶を取り戻そうとすれば、混乱してしまうかもしれない。危険なんだ。だから僕は機械をつくったんだ。混乱させずに記憶を取り戻せるように。そうでなければ、その液を大量につくればいいだけだからね」


 そう言い彼は机の上に置いてある瓶を指差した。樋高さんが取り出した、例の術の液体だ。そして彼は膝に手を当て、樋高さんの顔の高さに視線を合わせる。


「だからもう、こんな無茶なことはしないで。みんなに謝って。そうしてから、アケビ……お父さんに怒ればいい。もちろん、共犯の僕にも怒ってくれ。ちゃんと話させるから。な、アケビ」


「……はい」


 アケビさんは決心したように首を動かした。沢井さんはハハッと笑い、「そうそう、怒るのは動きじゃなくて言葉でお願いしたいかな。千夢ちゃんの空手は威力がありすぎて、僕にはもう避けられないよ」と付け足す。


 樋高さんの顔がくしゃっと歪んだ。急に自分のしたことが現実味を帯びて降り注いできたと感じたのか、彼女の緑がかった瞳が海のように波打っている。


「……ごめんなさい」


 彼女はゆっくり俯く。


 音もなく、彼女の顔から雫が零れ落ちた。


 うん、と僕は頷いた。瞬もゆっくり頷き、蝦宇さんも喉を動かしながら、顔を小さく縦に振る。


「あの……私も、ごめんね」


 唐突にそう言ったのは、藍花だった。なぜ謝るのか疑問に思ったのだろう、僕含めその場にいる全員が彼女の方を向く。注目を浴びた藍花は、焦ったように二つ結びの髪を揺らした。


「わ、私……千夢ちゃんが、もしかしたら登の記憶喪失の原因に何か関わってるんじゃないかって思って……。ちょっと疑ってました、ごめんなさい」


「……私が、梶世くんの記憶喪失に? まさか」


 樋高さんは目を見開く。瞼の縁が濡れて揺らいでいる。そんなこと言われるなんて思いもよらなかったという表情だ。


「私が梶世くんに出会ったのは高校に入ってからだよ? 中学時代の彼には会ったこともないのに」


「でも、ほら……千夢ちゃん、登の記憶について拘ってたみたいだから……。登の記憶を奪ったのが、もし千夢ちゃんだったらどうしようって思って……。でも違うんだよね。千夢ちゃんの行動は全て、沢井さんに繋がるための行動だったんだよね。登は関係ないんだよね」


「関係ない。ただ私が勝手に利用して、巻き込んじゃっただけ……。そもそも、記憶喪失にさせるなんて高度な術、私なんかにはできない」


「そうだよね、うん。そういう話は聞いてた。だけど疑っちゃった。だから、ごめんね」


 藍花が項垂れる。樋高さんは口を開けたまましばらく黙っていたが、フイと横を向き、ぽつりと呟いた。


「……梨橋さんが謝る必要なんてない。悪いのは、全て私」


 しかし、そこに食い込むように言葉が挿入される。


「いや、悪いのは父さんだよ、千夢」


 アケビさんだった。彼は小さく手を挙げ、一歩前進する。


「色々話したいことがありますが……個人的な話になります。でも君らには聞く権利があると思うので……。興味なかったら聞かなくても結構です」


 彼はそう言い、僕たちをぐるりと見渡した。確かに僕たちは、僕の見た記憶について調べるためにここに来たのだ。目的にそぐわないと言えばそぐわない。しかしここまで来て何も聞かずに引き下がるなんてできない、と僕は思った。おそらく藍花も瞬も蝦宇さんも同意見だろう。


「聞かせてください」


 僕は言う。アケビさんは少し苦い顔をしながら「悪いね、巻き込んでしまって……」と呟く。


 そして、彼は話し始めた。

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