23 侵入者

 可術地方に入ると、前来た時と変わらずデモ隊の声が響いていた。「みなさん、協力してトワを倒しましょう!」「我々はずっと二十九人で活動しております! まだまだ人が足りません!」「よろしくお願いします!」……しかし、今の僕たちにはその声に耳を傾けている余裕はなかった。僕たちは小走りで研究所に向かっていた。


 もはや本来の目的を忘れかけていた。自分が見た女性の姿は一体何だったのか……それは今日にはまだ分からないかもしれない。とにかく、今は樋高さんだ。


「……ねえ、こんなこと言いたくはないんだけどさ」


 不意に藍花がそう言ってきた。走りながらの言葉なので、ところどころ息が切れている。


「何?」


 返事をする僕の言葉も切れ切れで、語尾が上がっていた。しかし藍花はそんなこと知ったことかという風に話し続ける。


「今回の件……登が倒れたとき、誰かに口を塞がれたかもって言ってたよね」


「あ、うん……」


 そう答えながら、僕は藍花が言いたいことを理解した。そして僕の想像通り、藍花は言葉を繋げる。


「その誰かって、千夢ちゃん……なんじゃない?」


 僕は黙った。理由はさっぱり分からないけど、薄々そうじゃないかとは思い始めていたからだ。そう考えていた以上反論できなかったけれど、認めたくもなかったので、返す言葉がなかった。


 そんな僕の態度に気付いたのか、藍花は軽く俯くと小走りのスピードを上げた。


 目の前にアイサ研究所が見える。相変わらずの存在感だ。僕たちは足を動かす速度を緩め、息を整える。


 すると、出入り口の扉が音もなく開いた。中からは、胸に『アケビ』というネームプレートを付けた男性が出てくる。彼は僕たちを視界に捉えると、おや、というような表情をした。のそのそとこちらに向かってくる。


「君たちは、この前も来てた子たちですよね? 沢井所長が迎えに行ったはずですが……」


 サッと蝦宇さんが藍花の後ろに隠れる。おそらく、この前藍花が言っていた「アケビという研究員が玲未の顔をよく見てた」という言葉を気にしてのことだろう。今見た感じでは、そんな怪しい感じは伝わってこないけど……と思う。だから僕は気にせず返答することにした。


「そうなんですけど、一緒にいたはずのもう一人の女の子がいなくなっちゃって……。沢井さん、慌てて捜しに行っちゃったんです」


「はあ、なるほど……」


 アケビさんは何かに納得したように頷いた。僕は首を傾げる。


「……どうしたんですか?」


「いや、先ほど所長から連絡があって。ずっと作業してたのでしばらくその連絡に気づかなかったんですが、ようやく気付いて電話に出た瞬間、至急来てほしいところがあるって怒鳴られて……。その場所というのはずっと向こう側なんですが」


 そう言い彼は研究所の奥側を指差した。研究所を中心として境界の門とは反対側の方角である。彼がちょうど研究所から出てきたタイミングでなければ、僕たちとはすれ違わなかっただろう。


「所長は君たちを連れてくる予定になっていたはずですから、何でそんな連絡が来たのか不思議に思っていたんです。でも、そういう緊急事態があったのなら納得です」


「多分、沢井さんはその子を追っているんだと……」


「そうですよね。きっと私にも協力してほしいことがあるのでしょう。……ところで君たちはどうするんですか?」


「とりあえず研究所で待たせてもらおうかと」


 僕が言うと、アケビさんは俄かに出入り口の扉のところに戻っていく。手を翳すと、音もなく戸は開いた。


「研究所の入り口は、研究員ではない君らでは開けられませんよ。ほら、どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 僕はペコリとお辞儀した。僕に倣って瞬も藍花も礼をする。藍花の後ろに隠れて様子を窺っていた蝦宇さんも、親切な行動に少し心を許したのか、顔を出して頷くように軽く礼をした。


「じゃあ私は、所長に言われたところに向かいますので。君らはここで待っていてください」


 アケビさんはそう言い残すと、駆け足で去っていった。


 研究室の中は、以前と同じように割と静かだった。少し意外だ。一人の少女が突然いなくなったことは、この研究所内には伝わっていないのだろうか。でも確かによく考えたら、さっきのアケビさんも何も知らない様子だった。沢井さんがあんなに慌てるくらいだから、研究所の人たち総出で捜索でもしててもおかしくないのに。沢井さんはなぜか黙っている。


 不意に、向こうの廊下の窓から見える景色が気になった。前回来た時はすぐに個室に案内されたから気づかなかった。中庭とでも言うのだろうか、建物の中心部にあるその庭に、赤い楓の木が聳え立っていた。木から剥がれた赤い葉っぱが、空中をゆらりゆらりと舞っている。


『私、季節の中だったら一番秋が好きかな。紅葉もみじ見るの好きなんだ』


 ふと樋高さんの言葉が思い起こされた。無意識に僕の足はその方向に進んでいく。


「登? どうしたんだ?」


 瞬が尋ねてくる。僕は指を差して、歩みを止めないまま「あの楓を見に行こうと思って」と言う。


「わ、本当だ! すっごく綺麗な紅葉!」


 藍花も声を上げ、僕についてきた。すると瞬も「紅葉……? あ、本当だ」と歩き出し、蝦宇さんも「ま、待ってよ」と追ってくる。


 見たところ、たくさんの部屋からこの中庭を眺めることができるようになっているらしい。楓の木だけでなく、他にもあらゆる木や植物が植わっている。もしかしたら研究で使うのか、あるいは術を使って育てているのかもしれない、と感じた。


 それぞれの木には、ネームプレートのようなものが掛けられていた。その木々を管理している研究者の名前が書いてあるようで、楓の木は僕も知っている『アケビ』さんだった。


 その近くには『サワイ』と名が入っている札の大木もあった。黄ばんだ葉っぱが付いており、黒っぽい実がついている。何の木か僕自身では分からなかったが、ネームプレートの研究者名の下に『椋木むくのき』とあった。名前は知っているが、意識してこの木を見るのは初めてかもしれない。その隣にもう一つ、熟し過ぎたような紫っぽい実がついている木があり、それにも沢井さんの名があったが、木の名前は消えかかっていて読めなかった。


 中庭をぐるっと見てみたが、僕の好きな桜の木は見当たらなかった。何となく残念な気分で、視線を楓に戻す。


 するとその時、遠くの方が急に騒がしくなった。


 複数人が同時に大声を上げ始めたように思える。何かが倒れるような音もする。遠くで起こっている出来事のようで、若干聞こえづらいが、間違いなく何か騒ぎが起きている。


 突如耳に届いた喧騒に、僕の瞳は、楓が見える窓から声の発生源の方角へと須臾にして移る。


「な、何……」


 咄嗟に音のしたほうに行こうとすると、「待てよ」と瞬が僕の腕を掴んだ。


「瞬、聞こえなかった? さっき、向こうで大きな音が……」


「聞こえたよ。でも、大人しく待ってたほうがいいと思う。特にお前は」


「でも、誰か困ってる人がいたら……」


 しかし瞬は強張った顔のままだ。彼の口が、「もっと自分のこと考えろよ」と動く。真剣な声色に僕はそっと口を閉ざした。


「いいか、登。下手に動いてお前が変なことに巻き込まれたらどうするんだ。無意識に正義感がはたらくのは良いけど、もっと自分を大事にしろ」


 本気のトーンだった。言葉の節々から、瞬が僕を心配してくれているんだと感じる。僕は軽く目を伏せ「そっか。ごめん」と言った。ただ、自分を大事にするなんて器用なことは、僕は一生できない気がした。


「もしかしたら珠李さんじゃない? また発作が出ちゃったとか」


 少し張り詰めてしまった空気を戻すように、藍花が口を開く。続け様に蝦宇さんが「そうそう」と頷いた。


「きっと研究員の人たちが何とかしてくれるよ。だから私たちは、楓でも見てのんびりここで待ってよ?」


「……そうだね」


 確かに、大人しく待ったほうがいいのかもしれない。蝦宇さんの言葉に僕は頷きながら、ぼーっと辺りを見渡す。


 ある光景が、目に飛び込んできた。


 視界が一瞬スローモーションになった気がした。


 少し先に、横に伸びた長い廊下と合流している地点がある。その隙間から見えた、走っている、人影。


 ショートカットの髪、その上に乗っているキャスケット、そして――やたらと良い背筋。


 この姿、明らかに見覚えがある。


 いつの間に? どうして、どうやって、ここに?


「樋高さん!?」


 足が、勝手に動いていた。

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