24 因縁

 樋高千夢は荒い息を繰り返していた。荒いが、一つ一つが短く、静かな呼吸だ。


 白くて四角い建物の壁を沿うように歩く。すると一つの窓が見えた。千夢は緑がかった瞳でちらりと中を覗くと、何かを決心したようにキャスケットの鍔を直し、息を吐き出す。


 コンコン、と軽い音が鳴る。千夢が、窓をノックしたのだ。


 しばらくすると、鍵の開錠される音と、カラカラと窓が開く音が続けざまに聞こえた。窓から顔を覗かせたのは、灰色の髪をした、青い瞳の女性――珠李志津代だった。


 千夢はすぐに壁の陰に隠れたが、志津代は一瞬にして彼女を発見したようで、顔を外に突き出しながら口を開く。


「……あら、どうしたの? どなた?」


 すぐ見つかったことが予想外だったようで、千夢は目を見開いていた。しかし、すぐに俊敏な動作に切り替え、窓枠を勢いよく掴む。そのまま体を持ち上げると、窓から中に体を捻じ込んだ。鍛えられた体だけあって、軽々しい動作だった。


「えっ、何?」


 志津代は掠れた声を上げ、咄嗟に身を引いた。ひどく驚いた顔をしている。窓から流れてくる風で、彼女の病服がはためいた。痩せた、骨ばった首筋が一瞬露わになる。


 千夢は無言のまま部屋の中に入ると、呆気に取られている志津代を置いて、そのまま奥へと駆けていった。


「ちょっと、あなた……」


 小さい悲鳴を後に残して、千夢は部屋の扉から外に出る。出た先には、数名の研究員が談笑していた。しかし飛び出してきた千夢を見ると、全員の顔色が白くなった。


「お、お前誰だ!?」


「珠李さんが中にいるはずなのに……、珠李さん、大丈夫ですか!?」


 一人は千夢に唾を飛ばし、一人は慌てて部屋の中に飛び込んだ。その他の人も思い思いの驚きの感情を口々に投げている。先ほど談笑していたざわつきとはまた違うざわめきが広がっていく。


「君、一体どうやってここに入ったんだ」


 研究員の男性が、千夢の真正面に立ってそう尋ねる。突然の侵入者に対しても冷静でいようとする彼の心持ちが透いて見える。千夢は顔に帽子の影を落としたまま、無言を貫いた。


「珠李さんの注意を引いて、彼女に窓でも開けさせたのか?」


「……」


「何が目的なんだよ、全く……」


 そう言い彼は、侵入者である千夢の腕を掴もうと手を伸ばした。


 そのゆっくりした手つきを見た千夢は、キャスケットの鍔を僅かに下げ、口元に若干の笑みを浮かべた。


 滑らかな動きで研究員の伸びた手をかわす。空中を切ったその人の手を今度は千夢が掴み、円を描くような方法で勢いよく離した。


「うわあっ」


 バランスを崩した研究員が、周りにいる人たちを巻き添えにしながら倒れていく。その隙に、千夢は研究員の輪から脱出し、さらに奥の廊下へと駆けていった。「侵入者だ!」「追え!」という野太い声や、術で出したであろう蔦が追いかけてくるが、彼女は気にした素振りもなく走り続ける。俊敏なる足の速さで、一気に距離を稼ぐ。


 組み入った廊下を駆け巡る。そして彼女は、細長い廊下で、左右の壁に並んでドアがついている場所まで来た。全ての扉が閉まっている。千夢は手当たり次第にといった感じでドアノブのレバーに触れていった。それぞれのドアノブはガチャガチャと音を立てるも、鍵が掛かっているようで開かない。彼女は顔を歪め、軽く舌打ちをした。廊下を真っすぐ言ったら行き止まりだ。


 すると、あるドアのレバーが限界まで下がった。千夢はハッと息を漏らし、前につんのめりながらも停止する。


 彼女は、その扉を開けた。新しそうな見かけに似合わずギ、ギ、ギと軋んだ音がする。


 中は、書類のたくさん詰まった棚が置いてあった。数枚の紙がファイリングしてあるものや分厚い書物など様々が収納されていた。部屋の主は慌てて出ていったのか、回転式の椅子が机とは反対方向を向いて乱雑に止まっている。


 千夢は、棚からファイルや書物を引き抜くと、無造作に辺りに散らしていった。子供がおもちゃ箱をひっくり返すときのように、何の躊躇いもなく。どこからか飛んできた血色の紅葉が散る窓外の景色を背景に、千夢は物をばらまき続けた。


 ガシャン、と何かが床に落ちる音がした。千夢が床に目を遣ると、茶色く角張ったペン立てが転がっており、中から飛び出したと思われる文具が散乱していた。おそらく彼女が取り出した書類にでも引っかかって落ちたのだろう。


 千夢は素早くしゃがみ込み、落ちた物の中から鉄製のはさみを拾い上げた。同時に、彼女が床にばらまいた書類の一つを手に取る。


「……せいぜい苦しめ、沢井颯樹……」


 彼女は小さく、そう呟いた。


 鋏の刃が、書類に向かって伸びていく。


           ・・・


「樋高さんっ、待って!」


 叫んだ。遠くの方の部屋、扉の陰から僅かに見える樋高さんは、明らかにビクッと体を震わせた。その場で固まったようにも見える。今のうちに、と僕は部屋の中に飛び込んだ。


 樋高さんの右手を掴む。焦った息遣いのような声とともに、樋高さんがよろめいた。僕の力が強かった訳ではなく、おそらく精神的なものから来るよろめきだろう。そんな彼女を支えつつ、僕は鋏を奪い取った。少々強引になってしまったが、刃物を振り回されたら僕も樋高さんも危ないから。


「だめだよ、樋高さん。何してるの」


「……梶世くん……」


 樋高さんは目に見えて分かる冷や汗をかき、目を見開きながらそう言った。持っている書類が雪崩落ちそうなくらいに左手が震えている。


「答えて。樋高さん、何してるの」


「……何、って……それは……」


 やや怯えた表情をしている。いつも強気の顔の彼女ではない。一度、昼食の時間に教室でぶつかってきた時に彼女が見せた表情に似ている気がした。


「登! 急に走って何なんだよ!」


「大人しく待ってようって言ったじゃん!」


「梶世くん、待ってよっ」


 すると僕を追いかけてきてくれた瞬、藍花、蝦宇さんが次々に到着し、僕の背後に立った。部屋の入り口をみんなで塞ぐ形になる。


「ち、千夢ちゃん……?」


 藍花の揺れた声がする。樋高さんは苦々しい表情になると、キャスケットの鍔を持って窓の外に飛び出そうとした。


「待って、樋高さん!」


 すると、ガン、という音と共に、樋高さんが腕をぶつけたかのような素振りをした。肘の辺りを押さえている。僕は困惑した。窓は開け放ってあり、樋高さんはその空間に手を伸ばしたのだから、何にぶつかったのかが分からなかった。困惑したのは樋高さんも同様らしく、目があからさまに泳いでいる。


「僕の術だよ。千夢ちゃんを逃さないためのシールドを張ったんだ」


 唐突な声だった。爽やかで、だけど張り詰めている。


 ひょこっと窓から顔を出したのは、沢井さんだった。「ふー、間に合ってよかった」とため息混じりに言いつつ、窓枠を越えて部屋に入ってくる。タタン、と靴が着地に合わせて軽快に鳴った。


「絶対に狙いはこの研究所だと思ったから、真っ先に術をかけたよ。外からは入れるけど中からは出られない膜を張る術をね。術が研究所全体を覆うまで時間がかかりそうだったから焦ったけど、間に合ったみたいだね」


「……沢井、お前……」


 樋高さんは沢井さんをギロリと睨んだ。そして左手に持っている資料を床に叩きつける。なるべく散らばるように意識したみたいだった。


「……えっ、ちょっと待って、樋高さん、沢井さん……」


 交わされた二人の会話についていけない。どこから訊こうか悩みあぐねた結果、僕はまずこう質問することにした。


「二人は、どういう関係……?」


 徐に樋高さんが帽子を外した。壁に凭れかかり、腕を組む。一度閉じたのちに開けられた瞳は、刺すほどの鋭さを帯びていた。


「もういいや、ここまで来たら一緒だ。こうなったらこいつに嘘並べられないように、私がみんなに真実を話してやる」


「こいつ」と言った時に樋高さんは沢井さんを思い切り指差した。一方の沢井さんは表情を変えず、余裕の心で流しているように見える。


 もう、訳がわからない。


「どういうこと……? 樋高さん、沢井さんのこと尊敬してるんじゃ……」


「するわけないよ。色々嘘ついたし、嘘ついた上でも尊敬してるなんて一言も言ってないよ」


「あれ? ……そうだっけ」


「それじゃ、話してごらんよ」


 そう言って会話に入ってきたのは沢井さんだ。樋高さん、僕、それに瞬や藍花や蝦宇さんの顔を一通り見てから、再び樋高さんを見据える。


「千夢ちゃんは色々誤解してるようだから。僕が聞いて、訂正する」


「……」


「別に、警察を呼ぶまでもないと思ってる。荒らされたのは確かだけど、それ以外は被害ないみたいだし、安心していいよ。この部屋には術をかけていて、外に騒ぎが聞こえないようにしてるし、他の人が誰も入ってこれない状態にもなってる」


「よくもそんなにペラペラ言えるな、お前……」


 沢井さんに対して樋高さんの語調はずっと強い。詳しいことはまだ分からないが、樋高さんは沢井さんを恨んでいるのだろう、と何となく察した。


 でもどうして沢井さんを……?


 すると、樋高さんが沢井さんから僕に視線を移す。僕に向けられる視線は少しだけ和らいだような気がした。彼女の口元が小さく動く。


「ごめんね、色々嘘ついて。私、梶世くんたちのこと利用した」


「利用?」


「梶世くんが沢井と知り合いってことを、いつかの昼食のときにたまたま聞いちゃって……。それで私、うまくいけば沢井に接触して、復讐できるかも……って思ったの」


「……復讐……?」


「分かってるかもしれないけど、梶世くんが倒れるようにしたのは、私だよ。これ使ったの」


 樋高さんは前触れもなくポケットから何かを取り出し、勢いよく机に置いた。中身が雫を撒き散らして揺れる。それは、透明な液体が入った小さな瓶だった。


「術が凝縮されている液体、だよ。これをハンカチに染み込ませて、梶世くんの口に当てたの」


 術? 凝縮? 液体?


 頭がパニックになりかけた時、ふと以前の沢井さんの言葉を思い出した。彼が術について楽しそうに語って止まらなくなっていたあの時だ。


『例えば、可術地方の人は、術の効力が含まれるように凝縮した液体などをつくることができる』


 つまり樋高さんは、これを僕に作用させて、僕に術をかけたということ……。


 彼女はショートカットの髪をふわりと揺らした。


「術を使える人に頼んで作ってもらったんだ、これ。術の内容は、平衡感覚を失わせる……螺旋をのぼってるような感覚に陥らせる術」


「ら、螺旋……」


 さっきから、樋高さんの言葉をただ復唱するだけの機械になってしまっている。それくらい、頭が追いつかない。理解しようとする思考を、驚きの思考が邪魔する。


「梶世くんが記憶喪失っていうのは知ってたし、沢井のこと調べてるうちに、螺旋が記憶を取り戻すための鍵っていうのは学んだから……。螺旋感覚に陥る術を使えば、君は……何かを思い出すとまではいかなくても、倒れるだろうなって思った。それと、何かあれば君は沢井のところに行くだろうってことも、予想はできた」


「……あの、記憶のことについて大量に書いてた紙は……」


「ああ、あれは私が、梶世くんの興味を引きつけるために頑張って書いたものだよ。沢井の話を自然に持ってくるきっかけにも使えるし。沢井の話をすれば、私が君らに同行する理由ができる。ごめん、私は全然勉強熱心なんかじゃないんだ」


 あのとき僕が感心していたのを分かっていたのだろうか、樋高さんはばつの悪そうな顔をした。


 つまり、まとめると彼女の一連の行動はこうだったらしい。


 樋高さんはある日の放課後、僕と藍花と瞬が教室で何かを話しているのを目撃する。話の内容をそっと窺うと、なんと僕が記憶喪失だということだった。彼女は話を聞くと、僕たちと鉢合わせないよう慌てて逃げた。


 そう、あの日……。瞬が『誰かが今、慌てて向こうのほうに走っていったような』『髪が短めのスカート履いてるやつってことは分かったけど』と言っていたが、その誰かとは樋高さんだったのだ。


 そして彼女は、僕と瞬の昼食時の会話で、僕たちが沢井さんの知り合いだということを知る。何とかして沢井さんと接触したかった樋高さんは、ある計画を行うことにした。


 それこそが、『梶世登を沢井颯樹のいる研究所に行かせ、自分はそれについていく』状況をつくる計画だ。


 彼女は術による記憶喪失について、あらゆる情報を検索し、紙に何枚もまとめた。そして学校でわざと僕にぶつかり、書類を落とし、僕を人気ひとけのないところに誘い込み、僕を気絶させた。その後、保健室で僕を介抱しつつ、沢井さんと会えるように話を誘導した。


 あとは、当日こっそり可術地方に入るだけ。被っていた帽子は、やはり沢井さんが迎えにくることを危惧してのものだったらしい。


「とにかく門さえ開けば、個人の手続きをしなくても物理的には可術地方に入れる。個人の手続きよりも前に門自体が開くのは分かってたから、隙を見て無断で入ったんだ。……勝手にいなくなってごめんね」


 樋高さんはそう言うと、前髪を弄び始めた。


「何でもよかった。とにかく、沢井を苦しめたかった。研究室にこっそり侵入して……。本当は、ただ部屋を散らかすみたいな簡単なことだけじゃなくて、機械を破壊したりしたかったんだけど」


 彼女は薄く笑う。瞳に少し入っている緑が妖艶に光った。


 彼女の言葉に対し、色々疑問点は残る。とりあえず、僕はまず気になることを一つ訊いてみることにした。


「沢井さんと会うために、どうしてこんな面倒なことを? 樋高さんと沢井さんの間に何があったのかは分からないけど、わざわざこんな手の込んだことをしなくたって、僕に頼んでくれれば、沢井さんと会う場をつくれたのに」


「そうなると『私が沢井と会う』状況になるでしょ? そうすると否が応でも私に焦点が当たる。それだとダメだった。あくまで私は誰かの付き添いでいたかった。沢井は私のこと知ってるし、私の名前を沢井に出してほしくなかったんだ。だって、会う前に沢井が私のこと知ったら、逃げるかもしれないから」


「……」


「そもそも私は、可術地方に入るのを禁止されている身。手続きした時点で一発アウト、即退場。だからこうして、君らを隠れ蓑にして、手続きせずに強引に入るしかなかったんだ」


「え? どうして?」


 それも訊きたかったことだ。先程の話の中で、樋高さんは門の中へ入る手続きをしないことに拘っていた気がしたのだ。それが分からなかった。確かに沢井さんにばれないうちに可術地方に入り、研究所に侵入したかったのなら、手続きをしている時間はなかったのかもしれない。けれど、時間がある可能性だってある。その場合なら、手続きしたほうが合法で安全だ。


 でも、樋高さんは最初から、まともに手続きすることを諦めていた口ぶりだった。それはとても引っかかっていた。


 そもそも……どうして、樋高さんは沢井さんを恨んでいるんだろう?


「……今まで隠してたけど、私ね」


 ふう、という感じで樋高さんは息を吐く。言葉を切ることで、吐露する覚悟を決めたようだった。


「元、可術地方の人。……可術地方出身、なんだ」


「……え?」


 唐突かつ衝撃的な言葉に、僕は開いた口を閉じることができなかった。さっきの話からは全く想像つかなかった事実だ。どんどん口の中が乾燥していく。驚いたのは当然僕だけではなく、後ろにいる三人も同様衝撃を受けたようだった。


「可術地方……!? え、術が使えるってこと? 千夢ちゃんが!?」


 藍花の叫ぶような言葉に、樋高さんは「いいや」と首を振った。


「練習してないし今はもう多分使えない。だからわざわざこの液体で梶世くんを嵌めなきゃいけなかった。そうじゃなかったら、まどろっこしいことなんかせずに、私が術を直接使ってたよ。そう……私だって、可術地方にいるときは、もちろん術を使えた」


「……どうして、千夢ちゃんは非術地方に来たの? というか、可術地方の人が非術地方で暮らすって……オッケーなの?」


「暮らさなきゃいけなくなったんだよ、逆にね。誰かさんのせいで」


「それは僕のこと?」


 沢井さんは、まるで心外といった様子だ。さっき入ってきた窓をぴしゃりと閉める。そういえばアケビさんをどこかに呼び出していたらしいのに、沢井さんはここにいて大丈夫なのだろうか。待ちぼうけを食らわされていたら気の毒だ。連絡でもしたのかな、とふと思った。


「そうだよ、お前のことだよ。当たり前だろ」


「……樋高さん、それが沢井さんを恨む理由? それ……私たちにも分かるように、説明してくれないかな」


 蝦宇さんが眉を八の字にしながら、困ったように言う。それに対する肯定の合図なのか、樋高さんは部屋にあった回転椅子に勢いよく座った。椅子の軋む音が盛大に響く。


 改めて腕を組んだ樋高さんは、滔々と語り始めた。

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