36 突然の始まり
「はい、今日は蝦宇さんがお休みね」
次の日、登校したら蝦宇さんが欠席していた。担任の先生の言葉に、朝から憂鬱そうな顔をしていた藍花は肩透かしにあったようにポカンとしていた。
「玲未、まさかの休みだね」
休み時間に藍花が僕のところにやってきて言った。目の下にはハッキリと隈がある。心配になるが、おそらく僕も似たような顔をしているのだろう。
「今日は気合を入れて来たんだけどな、私」
「僕も、だよ」
ため息をついた。藍花には言えないけれど、本当は、……本当は、告白する心構えをしてきていたのだ。藍花に言われたからというのもあるけど、自分自身の中に区切りをつけなきゃいけないという思いもあった。お陰で昨日はあまり眠れていない。
藍花は目を擦ってからスマホを取り出した。
「どうして休みなんだろう。玲未に連絡はしたけど、返事がないんだよね。私に会いたくなくて休んでるのかな」
「まさか、それはないよ。あるとしたら僕に会いたくなくて、だよ」
「……どうなんだろうね。まあ病気だったらそれはそれで心配だけど。様子見に行くにしても、私、玲未の家がどこにあるのか知らないから……」
そう言い藍花が顔を顰める。僕は少し意外な気持ちで彼女の表情を見つめた。
「そうなの?」
「うん、言いたくなさそうだったから訊かなかった。学校帰りはすぐに別の道になっちゃうし、休日に遊ぶときはいつも外出だったし……。この前登の家から帰るときも、玲未は家族に迎えに来てもらったからって言ってすぐどこかに行っちゃって……。どの方面に家があるのかも知らないの」
「担任に訊けばわかるんじゃないか?」
すると瞬も僕たちのところにやってきて、そう言った。次の授業に使う英語の辞書を手にして弄んでる。僕は彼を見上げながら「ああ、確かに……」と呟いた。藍花は瞬の唐突な登場にびっくりした素振りを見せていたが、一つ咳払いをして体勢を整える。
「先生、人の住所を教えてくれるかなあ。でも一応、放課後にでも訊いてみようとは思う」
「俺とかはもしかしたら無理かもしれないけど、梨橋になら教えてくれるだろ。二人が仲良いのは周知の事実だし」
「そうかなあ」
「蝦宇の家に行くのなら、俺もついていっていい?」
すると瞬がそう言い手を挙げた。もともとドキドキした様子をしていたのに、追加でそんなことを言われたので、もっと鼓動は速くなったようだ。彼女の心音が一気に倍以上になって伝わってくる。
「く、久保木くんも?」
「俺も気になるし。一緒に行くと迷惑?」
「う、ううん、迷惑なんかじゃないよ!」
「よかった。登は?」
瞬が訊いてくる。僕は苦笑いして「やめとくよ」と言った。何の理由で休んでいるのか知らないが、休んでいる日に嫌いな人とは顔を合わせたくないだろう。さすがに家に押しかけて告白なんてこともできない。蝦宇さんの親がいるかもしれないし、藍花と瞬の目の前で告白することになってしまう。それに、せっかくこの状況になったのだから、藍花と瞬を二人にさせたかった。
そして放課後。僕は一人帰ろうとしたが、伊杷川先生に声をかけられたため足を止める。先生は「呼び止めて悪いね」と廊下の隅に立って言った。
「何ですか?」
「梶世くん、あれから体調はどう?」
「ああ、全然大丈夫です。あのときはご迷惑をおかけしました」
僕はぺこりとお辞儀する。伊杷川先生は「そんな畏まらなくていいのに」と軽く笑った。しかし僕が顔を戻したとき、先生は真剣そうな表情に変わっていた。
「えっと、先生……?」
「昨日、ソウと電話してたんだ」
先生は唐突に切り出した。僕にはもう理解されていると思ったのか、ソウとは沢井さんのことだよという注釈はなかった。その通り、分かっている。僕は頷き、続きを促した。
「君のことについて、色々話した。ソウ、かなり心配そうにしてたよ。あと、機械がなかなか修復せず申し訳ないって謝ってた」
「謝るなんて、そんな……」
こっちが申し訳ない。いくら彼自身の研究の糧になるからとはいえ、ここまで尽くしてくれるのは。
僕が軽く俯くと、伊杷川先生は咳ばらいを一つした。
「まあとにかく、ソウと話してたんだ。そしたらあいつ、不意に妙なことを言いだして」
「……妙なこと?」
僕は前のめりになり、口を半開きにした。先生は静かに、こくりと顔を動かす。
「僕も見せてもらった、例の女の子の画像について、だよ。ほら、僕が『似た人を見たことがある気がする』って言った、例のやつ」
「え……?」
「あの画像、ソウの研究所のデータファイルにも残ってるらしいんだけど……。『この前、梶世くんが思い出した少女の画像を改めて見てみたんだが、非常に懐かしい気分になったよ。何でだろう』だってさ」
「な、懐かしい?」
意外な言葉に、僕は戸惑った。そして伊杷川先生の顔面をまじまじと見つめる。しかし先生も納得できるような答えは持っていないようで、首をくっと傾けて諦め顔をした。
「まあ、僕とソウはあくまで『似た人』とか『懐かしい』とか曖昧なもので、君みたいにはっきり見えたわけじゃない。勘違いだと思って、気にしない方がいいかも」
「そ、そうですか……」
「それでも一応伝えておこうかなって思っただけ。時間使わせて悪かったね」
「いえ、全然。教えていただき、ありがとうございます」
僕が礼をすると、伊杷川先生は廊下を向こう側へ歩いて行った。その後ろ姿を眺めながら、僕はただ唖然としていた。
一体どういうことだろう。あの少女のことが、ますます分からない。次第に概念にも思えてきた。僕の夢の中で微笑みを向けてくれる、想像上の人物。
……いや、そんな想像上の人だったら、あんなに苦しそうな表情をしない。炎で囲まれた瓦礫の下、僕に向かって泣きながら手を伸ばしたりはしない。
「……」
僕は乱れる心臓の辺りに手を置き、ブレザーの内側のシャツを引きちぎるかのごとく握りしめた。そして、助けを求めるように窓の外を見る。
どうして誰も覚えていないんだ、あの子のことを。加えて、どうして僕の記憶は一年なくなっているんだ。
教えてほしい、答えを。
あの女の子……。
頼むから、僕の目の前に現れてほしい。僕の前に立って、君の正体を教えてほしい。
君は、一体……。
そう思った瞬間、目の前の光景に膝の力が抜けた。目は見開かれ、喉は絞られ、脳内は思考停止する。倒れそうになったのはどうにか踏ん張ったが、壁に付いた手はバンと大きな音を鳴らした。
「……ど、どういうこと」
一人なのに声が出た。掠れた声になったが、言わずにはいられなかった。
だって、窓越しの景色には、見下ろした道路には……。
「あの子が、どうして……!?」
一人で呟きながら、口から心臓が飛び出るかと思った。
そこにいたのは、僕が思い出したあの少女だった。セーラー服、こげ茶の髪、長い睫毛。間違いない。こんな鋭い目つきの彼女は今まで見たことなかったが、容姿は間違いなかった。僕や藍花が夢に見ていた少女だ。
彼女は手に何かを抱えていた。それを見て、僕はさらに衝撃を受けた。
「え……蝦宇さん!?」
少女は、ぐったりと目を閉じた蝦宇さんを軽々抱えながらこちらを見上げていた。僕にわざとその様子を見せているようだ。表情は冷たく、彼女が何を思っているのかが全くうかがえない。
例の少女の口が、不意に動いたように見えた。
「……?」
身を乗り出す。少女は僕を見つめながら、再び口を動かした。
『来・い』
そう、言っているように思えた。
僕はますます頭が真っ白になった。喉の奥からハァッハァッと奇妙な荒い呼吸が漏れる。
どういうことだ? 何で、夢の中に出てきていた少女がこんなところに? 何で、蝦宇さんを?
少女に対して『目の前に現れてほしい』とか思いながら、いざ出現されるとパニックになった。
とにかく、訊かなきゃ。彼女に、すべてを……。
ダッシュで下駄箱に向かい靴を履き替え、踵を踏んづけたまま、さっき僕が見た窓の外の付近に駆けた。しかし、もうそこに少女はいなくなっていた。荷物を背負いながらのダッシュだったので余計に体力を奪われ、僕は全身で呼吸する。僕はその場にリュックを置いた。
だが奥の方を見ると、曲がり角のところで紺色のスカートの端が見えた。僕に付いてこさせるため見せてきた、という方が正しいかもしれない。あそこだ、と僕は追いつくため必死に走った。体力のない僕が、懸命に足を動かした。
待って……。
どのくらい追いかけただろうか。
例の少女は、どこか建物の扉を開け、中に入っていく。扉は勢いのままバンと閉まった。ふと、ここは一体どこなんだろうと思い、仰ぎ見てみる。
ハッと息を飲んだ。
気づいたら目の前には、巨大な一つの塔があった。天を突くように真っすぐ
これは……。
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。目の前の光景に圧倒することしかできない。
これは、まさか、秋祭りのとき花火で影になっていた塔……?
僕は可術地方に入ってなどいないから、この塔は非術地方にあるということだ。位置的に二つの地方の境界付近であることは間違いないだろうが、非術地方は非術地方だ。
塔の周りは平原になっていて、近くに他の建物はない。いつの間にこんな僻地に来たのだろう。
というか、こんな塔、非術地方にどうして突然……。
唐突にスマホが鳴った。よく見たら充電があとわずかしかない。画面をタッチし、耳にスマホを当てる。
「もしもし」
『おい登、何かあったのか? 尋常じゃない勢いで飛び出していったけど』
瞬だ。声量がやたら大きい。顔を強ばらせながら詰め寄る瞬の顔が容易に想像できた。
どうやら僕の行動を見られていたらしい。脇目も振らずに学校から出てきたから、色んな人に見られてたのも当然だ。僕は何て言おうか逡巡したが、「あの少女を見かけたんだ」と事実をそのまま言った。
『え?』
「僕が夢で見た女の子。それと、その子に抱えられてぐったりした蝦宇さん……」
『そ、それ、どういうことだよ。え? は?』
「僕だって聞きたい。だから追いかけてきたんだ」
『追いかけたって……』
瞬の動揺が電話越しに伝わってきた。いつもより瞬の息が荒い気がする。僕もそうだったし、無理もないだろう。
『ちょっと待て、今混乱中。とりあえず登、お前今どこにいる?』
「必死で追いかけたからよく分からない。でも非術と可術の境界付近なのは間違いないはず。塔のところ」
『塔!? 秋祭りで見たやつか? え、お前は非術地方には居るんだよな? えっと、登、ちょっと待て。俺らはどうすればいいんだ?』
すると電話の向こうから『登!』と藍花の声がした。二人が一緒にいるということは多分、担任に蝦宇さんの住所を訊きにいくところだったんだろう。
『私も久保木くんと一緒に今からそっちに行く。だから、動かずに待ってて! 行こ、久保木くんっ』
彼女の力強い声が届いた、と思ったらブツリと鈍い音がして、乱雑に電話が切れた。
「……」
僕はスマホを見つめたまま固まった。藍花の言葉が脳内に反芻される。
待ってて、か……。
僕は改めて巨大な塔を見上げた。頂点を見ようとすると首が痛くなってしまいそうなほどの高さだ。物々しい雰囲気がひしひしと伝わってくる。
正直、このままじっとしてはいられなかった。居ても立っても居られないのだ。あの少女が、蝦宇さんが、この塔に入ったのはおそらく間違いないのだから。
あの少女は、僕に視線を向けていた。僕に、ここに来るよう指示したとも言える。
僕は短く息を吐きだした。
待てない。それが僕の答えだった。
ごめん、瞬。藍花。
僕は勇気を振り絞って塔の重厚そうな扉に手をかけた。ギ、ギ、ギと軋む音がするが、普通に開いた。中からは冷たい冷気がやってくる。あの少女が入ったはずなのに、人のいる気配はしない。
「ごめんくださーい!」
僕は大きな声で中に向かって声をかけた。しかし、聞こえてくるのは反響してくる僕の声だけである。僕は思い切って「蝦宇さん!」と叫んだ。
「蝦宇さん、聞こえてるなら返事して! お願い!」
一向に返事はない。水の中に石を投げ入れた後の虚しい静寂のようだ。僕はため息をつき、辺りを見渡した。入口の広間には物が一切なく、右奥の方に階段の入り口が見えた。近くまで歩いていってみると、近くの壁に矢印が彫ってあるのが分かった。まるで僕をそこに誘っているようだ。
そういうことなら行くしかないだろう。
僕は階段を一段ずつのぼっていった。上を見上げてみると階段は渦を巻いて続いており、一番上は闇に溶けていて全く見えない。螺旋階段のようだ。これは骨が折れる、と僕は手すりを握りしめた。
……螺旋?
そう思った瞬間、体中から汗が一気に噴き出した。
『むやみに強引に記憶を取り戻そうとすれば、混乱してしまうかもしれない。危険なんだ』
いつかの沢井さんの言葉を思い出す。足が震えた。この前、術の液体を飲み込んでしまって、あんなに苦しかったんだ。この階段をのぼり切ったとき、僕の身に何が起こるかは、大体想像がつく。
けれど、もう引き下がるなんてできないと脊髄が理解していた。僕はこれに立ち向かわなければならない。
それに、僕には見過ごせない。あのぐったりしている蝦宇さんを見たのに、放っておくなんてこと、できない。いくら僕が蝦宇さんに嫌われていようと関係なかった。
果てしないほどの階段をのぼりながら、僕はめげずに「蝦宇さーん!」と声をかけ続ける。本当はあの少女にも声をかけたいのだが、名前が分からないので呼べない。けれど、声を出し続けていれば、例の少女からの反応もきっとあるはずだ。
「蝦宇さん! どこに、い、る……」
ふっと目の前が一瞬暗くなった。眩暈だ。途端に頭も痛くなってくる。針の
『登……助けて』
突然浮き彫りになった声に、ぎょっとして足を止めた。蝦宇さんの声ではない。しかし……どこかで聞いたことがある、かわいらしい声。
この言葉、前も聞いた。あの少女だ。夢で見た、あの少女の声だ。
ゴォォォ
今度は轟音だ。直感で火事の音だ、と分かった。振り返ったり上を見上げたりしたが、別にどこも燃えている様子はない。どこから聞こえてくる、というよりも、頭の奥深くから湧き上がってくる感じなのである。
あの記憶だ。間違いない、僕の記憶の扉は、開きつつある。
……僕はこのまま、導かれるまま強引に、答えを知ってもいいのだろうか。その禁断の扉が開かれたとき、一体何が起こるのだろうか。
しかし……この塔が僕を呼んでいるのなら、僕は止まるわけにはいかない。止まってはいけない。
上に向かって歩き続ける。
喉が痙攣してくるようだ。もともと体力がなくて疲弊しているのに、加えて螺旋の効果まであるのだから、当然である。僕の体に、今まで経験したことのない負担がのしかかってくる。
僕は呻き声を上げながら足を動かし続ける。痛みと疲れで、頭がぼーっとしてきた。
頭の中は、色々な映像を生み出していき――。
『本当にありがとうございました』
上品そうな丸顔の女性の優しそうな笑み。
大きな屋敷。広い庭園。大きな門。
『ちょっとお待ちください』
赤髪の女性の深刻そうな顔。
ドォンという耳を
真っ赤に燃え上がる炎。
炎に包みこまれて、悲鳴を上げるがごとく燃えゆく屋敷。
――そして。
『登……助けて』
目にいっぱいの涙を湛えながら懇願するようにこちらを見つめる、瓦礫の下敷きになっている少女。
歩き続ける。額に汗が流れるのを感じる。体は火照って熱くて、でも汗の蒸発で冷たい。
もう声を出す気力はなかった。ただ、まるでそうする義務があるかのように、ひたすら階段をのぼり続ける。
待ってて、今行くから……。
どれくらいのぼり続けただろう。気づくと、少し顔をあげたところに薄暗い灯りが見えた。おそらく最上階であろう。もうすぐ辿り着く。
ずっと、頭の中で炎の音は消えない。
一段一段踏みしめて歩く。神経が通らなくなったとも思える足を、必死に交互に前に出していく。
――ついに、最後の一段を上り切った。
ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた気がした。僕はその場に立っていられず頭を抱えてしゃがみ込んだ。今まで感じた痛みの中で群を抜いて酷い。ぎゅっと目を瞑る。しかし眼前には、遠い、けれど近い、一つの景色があった。目を閉じているのに、はっきりと見える。
一陣の風が耳を突き抜ける。
周りは教室であった。そして、一人の少女が可憐に立っている。
ああそうか。彼女の、頬を桜色に染めた、少し恥ずかしそうな微笑みを見てすぐにそう思った。忘れていたのは、こんなにも大切な人、そして大切な思い出だったのだ。
儚げなのに、芯が強い、そんな彼女との物語。
僕は全て思い出した。
――僕と彼女の邂逅の記憶。
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