37 邂逅、そして裏切り

「桜って言うの?」


「へっ?」


 隣に座っていた女の子がふわふわした髪の毛を揺らしながら、くっきり二重の目を真ん丸にして僕の方を向いた。背景の窓の外に、花びらが数枚舞っているのが見える。


「あ、ごめん急に……。えっと、名前」


 僕は彼女の手元にある冊子の記名欄のところを指さした。整った字で『浅西桜』と書いてある。


「いい名前だね。すごく似合ってる」


「あ、ありがとう……。浅西あさにし……さくらです。よろしくね。えっと、そっちは……」


「あ、梶世登です。こちらこそ」


 しゃべり下手なのによく話しかけられたな、と自分でも思う。でも出会いはこんな感じの単純なものだった。中学二年の新学期の春、出席番号一番の桜と七番の僕は隣同士になった。縦に六人ずつの席だったので、そうなったのである。


 僕はびっくりしたのだ。隣になってぱっと見て取ったその子の第一印象が、桜みたいな子だな、だったからだ。隣の席だし関わることもいっぱいありそうだから、顔をしっかり覚えておこうと意気込み、そのために勝手に『桜さん』とニックネームをつけていた。そのため、まさか本当に桜だとは、という感じだった。それで思わず声をかけてしまった。


 芯を持った凛とした強さ、品のある感じ、そしてすぐに桜色になる頬。そのようなところから桜っぽさを感じていた。僕は彼女にとても惹かれる何かを感じた。今思うと、蝦宇さんを好きになったときもこんな感情になっていた気がする。


 隣どうしだったこともあり、僕と桜は次第に仲良くなっていった。女の子と話すことがあまり得意でない僕にとって、このようなことは珍しく、とても嬉しいことだった。


 桜は第一印象と違わず、優しくて魅力的な少女だった。笑顔が特徴的な子で、彼女が笑うと僕も微笑みたくなる。


「私の家、ちょっと特殊なの。詳しくはあんまり言えないんだけど、代々受け継いでる仕事があって、それのせいでお作法とか教養関係とか厳しくって」


 あるとき桜は笑いながら言った。本当は多分、受け継いでいる仕事の存在自体もあまり言ってはいけないのだろう。でも桜はそのような込み入った感じの話も僕にしてくれて、信頼してくれているようで非常に嬉しかった。


「えらいんだね、桜は。僕だったら途中で投げ出しちゃいそう」


「まさか、登だったら私より真面目にやると思うよ」


 アハハ、と桜は頬を染めた。「今なんかフランス語習ってて、覚えられないし何で必要なのかも分からないしで壊れちゃいそう」と目を細めて微笑む。


 とか言いつつきっとやりこなすのだろう。僕には真似できない。僕は自分に全く自信がないし、実際何もできない。そして人に流されてふわふわしている。


 それに比べて桜は、本当にすごい。ちゃんと自分の芯たるものを持っていて、そこに向かって真っすぐで、だから時に危なっかしくて。でもそこも良いところなのだ。


「すごいなあ……」


「そんなことないって」


「でも壊れた桜にはちょっと興味あるな。見たい」


「えっ、見せないよ!?」


「さーくーらー!」


 すると藍花が二つ結びの髪を揺らしながらやってきた。同じ部活だったためか藍花は一年の頃から桜と仲が良く、それで僕は藍花ともしゃべりあう仲になった。


「うわ! ごめん、お取込み中? 邪魔した?」


 僕と桜を交互に見た藍花が慌てて身を引く。そのあと桜になにやら耳打ちすると、桜は顔をピンク色を超えて赤色にして「もお、藍花!」と怒った。


「どうしたの?」


「な、何でもない!」


 僕の言葉に桜が手を左右に振る。そしてやたら大きな声で「それより藍花、何の用?」と藍花の袖を掴んだ。


「あ、そうそう、サッカー部の試合が今週の日曜にあるんだって? 桜と一緒に応援に行きたいなーって思ってさ」


「え、サッカーに興味あるの?」


 僕は訊いた。桜からそんな話は聞いたことがない。


「まあ……ね、桜! というか登、そんな反応? 普通に喜んでよ、登だってサッカー部でしょ?」


「いや、そうなんだけど、僕はその試合出ないから……。観客席で応援だよ。でも応援しに来てくれるのは嬉しいよ。出る友達も、応援いっぱいあった方がやる気出るだろうし」


「……出られないの?」


 桜が目を見つめてきた。その目が真っすぐすぎて直視できず、僕はゆっくりと目線を逸らしながら「僕そんなに運動神経よくないしね」と言った。


 幻滅されたかな、と思った。まあ幻滅できるほど僕に期待してないとは思うけれど……。


 桜に比べ、僕はあまりに魅力がない。スポーツはできないし、ルックスもよくないし、鈍くさいし、自分がやり遂げようとする目標とか心持ちとか別にないし。休日に桜に会えるのなら試合を見に会場へ来てほしかったが、桜の「じゃあ気が向いたら行くね」という便利フレーズを聞いたとき、まあそうだよね、と少し振られた気分になった。


 だからこそ、本当に試合に来てた桜の姿を見たとき、喜びのあまり僕は心臓が張り裂けそうになったのだ。僕はもちろん試合には出なかったが、うだるような日差しの中で僕と一緒に試合を応援してくれ、眩しい笑顔を見せてくれた桜は、冗談抜きで女神みたいだった。


 僕の心の真ん中に咲いた、一本の大樹の花。



           ・・・


「思い出した?」


 唐突に胸に入り込んできた声に、僕はガバッと顔をあげた。これは記憶の中で聞こえる声じゃなく、現実に聞こえる声だ。


 僕の目が一人の女の子を捉える。長いこげ茶のふわふわした髪、長いまつげ、鼻筋、そしてセーラー服。


 現実に、いる……。


 夢じゃない。僕の存在するこの空間に、彼女も同じく存在している。


 間違いない。


 目の前にいる、この少女。


 彼女の名前は……浅西桜。


 中学二年生のときに同じクラスになり、仲良くしてくれた、僕の同級生だ。


           ・・・


「久保木くんっ、行こ!」


「ああ。登、塔のあるところって言ってたよな。秋祭りのとき花火が上がっていた方面を考えると、おそらく……」


「この辺だよね。すぐ行こ!」


 藍花がスマホ上のマップを指差しながら言った。現在地からの距離はそこそこ遠い。けれど二人は行く意思を固めていた様子だった。


「梨橋さん! 久保木くん!」


 唐突に、二人のもとに千夢が勢いよく走ってきた。少し走っただけでは息は上がらないくらいの充分な体力を持っているはずなのに、ゼイゼイという息遣いをし、顔面は真っ白になっている。


 藍花は面食らったような顔をしていた。瞬も同様だ。以前可術地方で関わりがあったとはいえ、それ以降の関わりは特に何もなかったようだ。そのため、学校内で話しかけられるのは珍しかったらしい。


「千夢ちゃん……どうしたの?」


「……か、梶世くんは……?」


 無理やりつくり出した、今にも線が切れそうな声だ。藍花は「登は、すごい顔して外に飛び出していっちゃって。だから、電話してたんだけど……」と瞬のスマホを指差す。


 千夢は息を整えてから、二人に向き直った。ただし彼女の呂律はまだうまく回っていない。


「……ご、ごめんね、急に。本当は梶世くんにも伝えたいんだけど、とりあえず……。あ、あのね、さっき、父さんから、とんでもない画像が送られてきて……」


「画像?」


 瞬が片眉を上げると、千夢は小刻みに頷いた。


「えっと、父さんが、『入れ物』と呼ばれる製品をつくってたことは覚えてるよね」


「ああ。それがどうしたんだ?」


「言ったと思うんだけど、その製品はね、一体しか売れなかったの。逆に言えば、一体は売れたってわけ」


「……千夢ちゃん、何が言いたいの?」


 早く登のもとに行きたいであろう藍花は、千夢の芯を捉えない言い方に少し苛立った様子でそう言った。千夢は少し申し訳なさそうな顔をしたが、言葉は止めない。


「たった今、父さんからメールで連絡があったの。『ずっと引っかかってたけど、改めて昔の資料を見たらようやく分かった』って、そう書いてあって……」


「資料? 何の?」


「写真だよ。たった一つだけ売れた、『入れ物』の見た目の画像」


 瞬と藍花は未だに理解不能という顔をしている。千夢はショートカットの髪を掻き上げると、ブレザーの内ポケットに手を入れてスマホを取り出した。


「これが、世の中に出回った最初で最後の父さんの製品、『入れ物』だよ」


 千夢は自分のスマホを突き出し、二人に見せた。


           ・・・


「桜……」


 僕は思わず呟いた。なぜ今まで思い出さなかったのか本当に不思議だ。こんなにもこの人のことを考えていたのに。


 彼女のふわふわした髪が、どこからか吹いた風によって揺れた。僕らの中学のセーラー服の特徴的な幅広の襟もはためく。襟の形が不格好で着心地が悪い、と彼女が文句を言っていたところまで思い出した。


 夢に見ていた彼女の残像が蘇り、僕の瞳に今目の前にいる彼女の姿と交互に、比較するように映る。


 立ち上がりたかったけれど、膝に力が入らなかった。きっと僕は何とも情けない顔をしていると思われる。


 桜の顔を見ていると、湧き出る気持ちがいくつもあった。


 しかしその反面、頭の片隅にちらりと疑問が浮かぶ。どうして桜は誰にも記憶されていなかったんだろう。なぜ今僕の目の前に現れたのだろう。そもそも、今まで桜はどこにいたのだろう……。


 すると桜が、しゃがみ込んでいる僕を見下ろしてクスリと笑った。


「今になって登から『桜』って呼ばれるなんて、違和感がすごいね」


「え、どういう意味……?」


 戸惑う僕に対し、桜は後方に指を差した。桜が立っている場所は一階と同じくらいの広さの、何も置いていない薄暗い部屋なのだが、その部屋の隅に、誰かが目を閉じた状態で倒れている。


 桜が、ふわふわの髪をそっと揺らした。


「だって登にはずっと『蝦宇さん』って呼ばれてたから」


           ・・・


「こ、これは……」


 藍花と瞬は、千夢が見せてきた携帯の画像を同時に見て、愕然としたように瞳を震わせた。それ以上声が出ないのか、口はずっとパクパクしている。


 そこに写っていたのは……少女の形をした、瞳を閉じた『入れ物』だった。


 肩くらいの長さの髪。シュッとした目の形、小さい鼻と口。


 それは、紛れもなく……。


           ・・・


「え……?」


 凝視して分かった。部屋の奥で倒れているのは、蝦宇さんだった。思わず叫びそうになった僕を止めるがごとく、桜が口を開く。


「あれ、私の入れ物。この体を治してる間に使ってた、別の姿」


「……え……入れ物……? 別の姿? ……まさか」


 顔色が青ざめたのが、自分でも分かった。そんな僕を見て、桜は面白そうに再びクスリと笑う。そして、宣言するように言った。


「そう。蝦宇玲未の正体は、この私。登がずっと夢に見てたっていう、浅西桜だよ」

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