17 異変

 数日後の放課後、僕は廊下で伊杷川先生に声を掛けられた。いつもと同じで片手に冊子を数冊抱え、爽やかな笑顔を見せてくる。


「やあ、梶世くん。聞いたよ、例の研究、うまくいかなかったんだって?」


「あ、伊杷川先生」


 僕は帰ろうとしていた足を止め、先生の方に体を向けた。


 今日は、僕以外の三人はみんな部活があるので、帰宅部の僕は一人で下校しようと下駄箱に向かっていた。可術地方に行ったあの日以降も、図書室に集まることは続けている。しかし、成果はあまりない。最近はただ集まっておしゃべりをする会に変わっている気がする。今まではそれでも別にいいやと思っていたが、この前の瞬の話を聞いた以上、小さなことでも手掛かりを早く見つけないと……と感じる。


 伊杷川先生は、冊子の角で自分の肩をトントンと叩いた。自分の凝った肩を解しているように見える。


「昨日ソウと電話したんだけど、悔しがってたよ。頑張ってつくった機械が、不運があって壊れちゃったって言って。なかなか直らないらしい。あんなに悔しそうなソウの声、久々に聴いたよ」


「ソウ……? ああ、沢井さんのことですか」


 聞き慣れない名前に一瞬戸惑ったが、すぐに理解した。先生は「あ」という口の形をしたのち目尻を下げて苦笑いする。少し照れている感じもあった。


「ああ、ごめんごめん、沢井颯樹のことさ。あいつのこと、ソウって呼んでるんだ」


「そう言えば沢井さんも、伊杷川先生のこと『コウ』って言ってましたけど、どこからその呼び方付けているんですか?」


「伊杷川厚人の『厚い』っていう字、別の読みをすると『コウ』だろ?」


 思っていたより分かりやすい呼び名の付け方だった。もっと複雑な連想ゲームとかだと思っていたれど、案外単純である。


「なるほど、そういうことだったんですね」


「昔の名残さ。ソウと出会ったのはだいぶ前の若いときなんだけど、コードネーム的な名前で呼び合ったら格好良いよねっていう話になって。まあ、若気の至りみたいなものかな。楽しかったなあ、みんなで馬鹿みたいに騒いだり、研究したり、調べものしたり……」


「いいですね。じゃあ沢井さんも、名前の一文字目を音読みにしたから『ソウ』なんですね」


「その通り。厚人あつひとがコウ、颯樹さつきがソウ、リョウヤがムク、ってな具合にね」


 なるほど、と言おうと思ったが、すんでのところでその言葉を口の内に留めた。


「えっ? 最後、どなたですか?」


 今度は本当に知らない名前が出てきた。しかし、僕がそう尋ねても先生の反応はなぜだか鈍い。「……最後?」と首を捻っている。


「あれ、僕って最後に何て言った?」


「えっと、聞き間違いじゃなければ『リョウヤがムク』って……。どなたですか、リョウヤさんって。同じ活動チームの方ですか?」


 というか、さっきからずっと気になっていたのだ。先生は「みんな」という言葉を使っていたが、伊杷川先生と沢井さんの二人だけで活動してたのなら、「みんな」という表現はおかしい。僕の勝手なイメージかもしれないけど、「みんな」は三人以上な気がする。だから、三人以上のチームで活動していたのかな、と思ったのだ。


 すると伊杷川先生は眉を顰め、「え?」と低い声を漏らした。肩を叩いていた手を止めて固まる。


「リョウヤ……? え、誰だろう。僕そんなこと言った?」


 表情を見るに、何かを知っていて惚けている、というわけではなさそうだ。それに、リョウヤという人のことを言いたくないのなら、そもそも僕に昔の話をしなければ良いだけなのだ。先生は、素で自分の発言に疑問を抱いている気がする。


「えっ、先生ちょっと、怖いこと言わないでください。僕、そう聞こえた気がしたんですけれど」


「いや、梶世くんが嘘言っているなんて思ってないけど……。やだなあ、年取るとすぐに変なことを口走っちゃうなんて。僕とソウは、ずっと二人で組んでたよ」


「……そうなんですか」


 何か釈然としない。けれど、だからと言ってそこまで掘れる話でもなく、僕は続けて質問するのを諦めた。そのうちに伊杷川先生は「あっ、今日は会議の日だった」と腕時計を見て、僕に断るとさっさと行ってしまった。


 まあ、僕が伊杷川先生のことを気にしても無駄だろう。先生が、僕の記憶喪失やあの夢の少女に関わるはずがないんだから。今は、僕自身の問題に向き合うことが大切だ。


 ……一人だけど、図書室に行って調べものをするか……。


 そう思い立った僕は、下駄箱に向かいかけていた足を反対に向け、図書室がある方向に歩き出した。その道すがら、窓の外でサッカー部が練習しているのが見え、中学の部活を思い出した。軽く空中を蹴り上げてみる。運動神経が皆無過ぎたので高校ではやめてしまったが、サッカーはとても好きだ。ただ、中二の一年間の記憶がないので、僕がサッカーをしていた期間はかなり短いと言える。


 そんなことを思いながら歩みを進めていたので、ぼーっとしていたようだ。ドンという音と人にぶつかった衝撃がして、気づいたら僕は背中から地面にひっくり返っていた。リュックサックを背負っていなかったら、背中を強打していただろう。


「わ、ごめん梶世くん」


 すぐさま謝罪の言葉が聞こえてきた。


 この声、知っている。身を起こすと、目の前には予想通りの人物、樋高さんが僕を見下ろしていた。どうやら廊下をすれ違う時に、肩がぶつかってしまったらしい。樋高さんがしっかり立っているのを見ると、ぶつかって弾き飛ばされたのは僕だけのようだ。


 やっぱり樋高さんはいつも唐突に現れる。彼女は手に書類のようなものを数枚持ったまま、僕の顔を心配そうに覗き込んだ。僕は彼女を心配させないよう、慌てて立ち上がる。その際若干よろめいてしまったが、気づかれていないことを祈ろう。


「ううん、大丈夫だよ。こっちこそごめん、樋高さん」


「梶世くん、これから帰り?」


「えっと、図書室に行こうかなって思って……。樋高さんは?」


「私は部活だよ」


「そっか、頑張ってね」


 樋高さんは「ありがと」と笑顔で答え、スカートをはためかせながら僕の横を通り過ぎていった。通り跡に風が流れる。


 クラスメイトとの、何てことない会話。しかし僕は、少し引っかかった。別に、樋高さんが話しかけてきたことに対してじゃない。ただ、樋高さんの声色が、自然ではなかった。初め、倒れた僕を心配してくれたときは普通だったが、言葉を交わすごとに、少し震えて、固くなっていたのだ。演技がかっていた、というのが正しいのだろうか。


 何だろう……?


 そこでふと、足元に何かが落ちているのを見た。廊下の色と同化して見えにくかったが、紙が一枚落ちている。さっき樋高さんが書類を持っていたから、ぶつかった反動で一枚落ちてしまったのだろう。僕はゆっくり拾い上げ、本当に樋高さんの物かを確認するため、裏返っていた紙を表に返した。


『術による記憶喪失 螺旋が有効』


 思わず足が縺れ、壁に寄り掛かってしまった。勢いがついてしまい、頭をぶつける。けれどそんな痛みには構わず、僕は紙を凝視した。


 手書きでびっちり内容が書かれていた。最近僕は図書館だけでなくスマホでも色々と情報を集めているが、そのネットサーフィンで見たような内容が、この紙に丁寧にまとめられている。全て、記憶喪失についての事柄だ。


 どうして、樋高さんが、記憶喪失について調べているんだ……?


 少し右上がりの、けれど整った字が、僕の瞳にするする入っていく。いや、とにかく、これを樋高さんに返さないと。ついでに話を訊こう。


「樋高さん!」


 僕は声を張り上げた。いつの間にか廊下のずっと先に行っていた樋高さんは、僕の声に気づく素振りを全く見せず、真っすぐの姿勢で歩いていく。いつも縮こまってしまう僕とは違い、体幹がしっかりしているからか背筋が良い。


「樋高さん!」


 追いかける。確かに遠くには行っているけど、ここの廊下は結構声が響くし、気づいてくれてもいいのに……と感じる。それとも僕の声は、まだまだ小さいのだろうか。周りに人がいないので迷惑にならないかなと思って、割と大きな声を出しているつもりなんだけれど。


 樋高さんが角を曲がってしまったため、僕の視界からは彼女は見えなくなってしまった。早くしないと、見失ってしまう。僕は小走りしつつ、手に持った紙にちらちら目を遣る。人の所有物なのでそんなに注視してはいけないと思うけれど、少しばかりは勘弁してほしい。


『術による記憶喪失は、螺旋の効力を用いれば解くことができるかもしれないと、最近明らかになった。断片を思い出すだけなら、平衡感覚を混乱させる簡単な術で十分だという』


 平衡感覚を混乱させる簡単な術……か。そう言えば、そういう術があると沢井さんが言っていた気がする。ただ、早口でしゃべっていた時の言葉なので僕が正しく聞き取れているかは分からず、あまり確証はない。


 沢井さん、あの時ほかに、何を言ってたっけ……。


 思い出そうとしながら突き当りの角を曲がる。樋高さんは、見当たらなかった。


「あれ……?」


 その時、突然、息ができなくなった。


 比喩ではない。本当に、口と鼻が何かに塞がれた。液体が浸み込んでいる布……だろうか。その液体の蒸気を吸ってしまったのか、目の前がくらくらし始めた。抵抗する間もない。


 視界がぐるぐると渦を巻く。永遠に動いて、止まらない。ずっと回り続ける。


 感覚は、そう、螺旋階段をのぼったときのような……。


 底が抜けるような感覚に囚われた。目は開いているのに、目に映っている情報が全く体の中に入ってこない。力が入らない。耳も、何重にも重なった布を巻かれているみたいに、音が籠る。手から紙が離れた感覚がして、ぱさっという乾いた音が、近いはずなのに遠くの方で聞こえる。


 押し付けられていた布がようやく離れた。けれど僕にはもう、立っていられるだけの気力は残っていなかった。


 膝に、そして顔に、冷たい床が触れる。皮膚から冷たさを味わっていく。


 でも変だ。冷たいはずなのに、目の前が、赤い。熱い、苦しい。


『登……』


 ああ、まただ。また声が聞こえる。あの女の子の声。


『……助けて』


 悲痛な少女の声が耳を貫く。この声、間違いなく聞いたことがある。僕の内側に封じ込まれていた、何か。何かが、放たれていく。


 うん、助ける。きっと助けるから。待ってて。


 キリキリと手を伸ばす。何に向けて手を伸ばしているのかは分からないけど、とにかく精一杯伸ばす。


 しかしそこで、ぷつりと体の電源が、切れた。


 目の前が真っ暗になった。




           ・・・


 大きな音を立てて倒れ込んだ梶世登。その背後に、手にハンカチを持った人が立っていた。


「ごめんね、梶世くん。ちょっと眠ってもらうだけだから」


 その人――樋口千夢はそう言うと、ゆっくりと彼に手を伸ばした。

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