2 空白の過去

「何だよ、登。伝えておきたいことって」


 放課後。僕の前の席に座った瞬は、椅子ごと振り返った。僕たち以外誰もいない教室の中、瞬の言葉にかぶって野球部の掛け声が微かに聴こえた。


「そのことは梨橋とも関係があるの?」


 瞬が藍花を見ながら言う。藍花は驚いたような顔をした後、一体何を思ったのか勢いよく顔を振った。


「あ、違うからねっ? 私はただ同中だから、登の事情を知ってるってだけで……。ほら、登、話しなよ」


 そんなに急かさなくてもいいのにと思いながらも、僕は頷いた。口を開く。


「今日、ある女の子の夢を見たんだ」


「女子? 蝦宇か?」とすぐさま瞬が尋ねてくる。頬が急に熱くなるのを感じた。


「ち、違うよ。何でそうすぐに結びつけるかな……」


「え、なんだ」と藍花がなぜか嬉しそうな表情をした。顔の前で両手を合わせている。


「久保木くんも登の好きな人知ってたんだ! なら良かった」


「こいつ分かりやすいもん」


「とにかく」と僕は藍花と瞬の話を遮って自分の話を続けた。


「今日藍花に尋ねたのはその子についてなんだ。その子は全然知らない子だった。でもなぜか、どこかで会ったことあるような気がしてならなかった。もちろん、僕が勝手に作り上げた空想上の子かもしれないけど、やたらリアルで、僕や藍花と同じ中学の制服を着てて……」


 僕が話す中、瞬は怪訝そうな顔をした。なぜそんな話を改まってするのだろう、といった顔だ。一呼吸のあと瞬の口が開く。


「え、それ夢の話だよな? そんなに重要な話? 魔法使いみたいな人がうじゃうじゃいる可術地方でのことなら、夢に介入する術……とか、何かあるのかもしれないけど。俺ら非術地方の住民からしたらそんな単なる夢の話、何も深く考える必要は……」


 首を捻る瞬の横で、藍花が「夢に、ね……」と納得したような顔で頷いた。「な、何?」と瞬が僕と藍花を交互に見る。僕は少し目を伏せた。


「……今まで瞬には言ってなかったけど、僕はさ」と唇をなめた。カサカサしている。大きく息を吸い込んだのち、口を開いた。


「中二の一年間の記憶が全くないんだ」


 言うタイミングがいきなりすぎたかなと思った。瞬は驚いたのか何も言わない。しばらくして出た言葉は「……何で?」だった。


「それは僕も分からない。中一が終わり今日から中二になるって思ってたら、なぜか中三になってた。僕からはそうとしか説明できない」


 そう……あのとき、何が起こったのか分からなかった。


 今日から二年生か……と思いながら、学校までいつも通り行った。確かに、朝いつも通学路の橋の前でたむろしているサッカー部の先輩たちがいないのは気になったが、先輩たちも三年生になって気合を入れ直したのかな、などと考えていたのだ。


 しかし、そうではなかった。先輩はそもそも、学校を卒業していたのだ。


 二年生のクラス分けの貼り紙を見ようと背伸びをしていたところ、ひとりでやってきた藍花に「何してんの? 三年生の貼り紙はこっちだよ」と袖を引っ張られた。


「え?」


「あれ? 元の登の雰囲気に戻ってる! よかったあ、心配したんだからね。一体どうしたの?」


「ふ、雰囲気? 戻る? 何言ってるの? それに、三年生の張り紙を見るって……何で?」


「何でって……今日から三年生なんだから、自分のクラスを確認するのは当たり前でしょ?」


 藍花は怪訝そうに眉を顰め、そのまま僕を三年生クラス分けの紙の前まで運んでいった。僕はただ引きずられるだけ。「あっ、登! クラス一緒! 三年連続だよー」と弾んだ声を上げる藍花だったが、その声は僕には籠って聞こえた。そしてだんだん頭の中が、訳分からなくなってきて……。


 そんなことを思い出していると、「まずね」と藍花の声が耳に入り、僕は現実に引き戻された。


「中二の一月の終わり頃……登がおかしくなったの」


 藍花が続けて話す。思い出すように、少し先の方をぼんやりと見つめている。


「最初に、登が家に帰ってこないって大騒ぎになって。一日後くらいにふらふらーっと帰ってはきたんだけど、その時の登は明らかにおかしくて、呼びかけても返事をしないというか……。それがずっと続いて、でも四月になって中三になった途端、突然元の登に戻ったの。戻ったんだけど……」


「記憶がなくなってた、ってことか」と瞬が顎に手を当てて言った。


「そう。しかもそのおかしかった時だけじゃなく、中二の一年間全ての記憶もないって……。中一までの記憶はあるから私たちのことは覚えてたんだけど。……今思えば、おかしかった時の登は、自動操縦で動く機械みたいな感じだったかも。多分、登自身の意識ではなかった」


「原因は分からない」


 僕はきっぱりと言った。重いものを振り払うように頭を振る。


「何かの病気を発症したとか、事故に遭ったとかって言う人もいたけど、可術地方の人に術をかけられて呪われたんだって言う人もいた。呪いの説の方が多かったかな……だって階段から落ちたとか病院で目が覚めたとか、そんなんじゃなかったし。その呪いの説のせいで周りから気味が悪がれることもよくあったよ」


 一息に言うと、僕は広げるように息を吐いた。そして躊躇うように息を吸い込む。


「だから高校に来てからはできるだけ言いたくなかった。……だけど、瞬には話しておこうと思って……。今まで黙っててごめん、瞬」


 瞬は僕の話の一つ一つをゆっくり飲み込むようにして頷いた。聞いたことを後悔しているようには見えなかった。


「話してくれてありがとな」


 瞬はまっすぐな瞳を向けた。濁った様子のない澄んだ目だった。


「気味が悪いなんて思わねーよ。俺が逆の立場でも絶対言いにくいだろうなって思うし。何で言わなかったんだよ、とは全く思ってない」


 僕はほっとして安堵の息をついた。瞬ならわかってくれるとは思っていたが、やはり僕は緊張していたようだ。


「それで?」と瞬が言った。


「ん?」


「夢に少女が出てきたことが、その記憶喪失の件について何か関係がある……。二人はそう思っているんだな?」


「うん、そんな感じかな」と僕は首を縦に振った。口を小さく開く。


「明らかに同じ中学の子みたいだったし、もしかしたらその頃の記憶がちょっと戻ったんじゃないかってね」


 なるほど、と言うように瞬は唇を動かした。


 まあ別に、忘れているのはたった一年間。中三のとき授業についていくのはとても苦労したけど今はもう大丈夫だし、分かってくれる人もいるし、現時点で困っているわけではない。でも、どうして僕の記憶が一年間だけすっぽり抜けているのか、それは気になる。


「……登自身はどう思ってるんだ?」


 不意に瞬が問いかけてきた。僕は「え?」と惚けた声を出す。瞬は僕の瞳を見据えたまま、「自分の記憶がない理由、だよ」と言った。


 その質問に僕はやや目を伏せた。悪い推測ならいくらでもできる。


「両親は、僕は病気だったんだと言っている。原因不明の病気で、記憶が飛んだんじゃないかって」


 無意識に弱々しい声になっていた。


「でも僕はそうは思わない。多分……術をかけられたんだろうな」


 瞬は不思議そうな顔をする。


「でも仮に登が術にかけられてるとして、何でかけられたんだ? だって可術地方なんて俺たちと全く別の人種というか、関わる機会なんてまずないだろ。行けないことはないだろうけど、地方の境界は隔たれているんだし……。何かの専門家とか研究者とかならよく行き来してるって話は聞いたことあるけど」


 瞬の言葉に僕は思わず唾を飲み込んだ。胸がドクッと波打つ。


 そう。僕たち非術地方の住民は術が使えない。可術地方の住民とは、全然違う存在だ。可術地方に住まう人々は僕らと異なり、術を使え、お金や優れた物品などを遥かにいっぱい持っている。


 そしてこんな噂も聞いたことがある。お金や物品を手に入れたがっている非術地方の住民が、可術地方の住民の悪事に手を貸すことで、それをゲットしている……。


 つまり、可術地方と非術地方の間には、闇の取引なるものが存在しているのだ。


「もしかして、自分が何か悪事を働いたんじゃないかって考えてる?」


 藍花が僕の顔を覗き込む。思わず目を見開くと「図星?」と彼女は微笑んだ。


「だーいじょうぶよ。登みたいに馬鹿正直な人が、悪いことできるわけないから」


「悪事? どういうこと?」と瞬が首を傾げる。藍花はパッと瞬のほうに顔を向けた。


「あっ、えっとね、変な噂があって。非術地方の人の中に、可術の人の犯罪の手助けする代わりにお金とかをもらってるやからたちがいるっていう……。多分、登は自分もそういうことしてたんじゃないかって心配してるんだと思う」


「だってそのくらいしか可術地方の住民に関わる理由がないし」


 僕はぼそりと呟いた。自分のネガティブ思考のせいで、どうしても、ほかの理由を考えようとしても、最終的にはその考えになってしまう。


 あと、実はそれだけではない。


 さっき自分が言った考えはずっと前から持っていたが、まさに今日、そう思うのが当然となるような、より強力な理由が現れたのだ。


 今日の体育の授業は野球だった。運動音痴の僕は、フライの球を取るのに悪戦苦闘していた。ボールが右の方に落ちてくると思ったら左で、と思ったらやっぱり右で、みたいなことが続き、僕は一人でその場をぐるぐる回りながら空中を見上げていた。恐らく滑稽な姿だったことだろう。


 何とかボールをキャッチして別の人に投げることはできたが、回転したせいか酔ったみたいになってしまった。周りの人に対しては気丈に振る舞ったが実際は少しつらかったので、僕はしゃがみ込み軽く目を閉じた。


 そのときだった。


 瞼の裏に一枚の画像が唐突に浮かび上がったのだ。


 濃いオレンジがかった地面の上に、赤色のポリタンク。燃え盛る炎。そして、僕の手には安っぽいライター。


 火事の現場……?


 僕は、なぜライターなんか持っているんだ……?


 この記憶の前後が分からないし、はっきり隅々まで見えたわけじゃないから何とも言えないが、見て気分の良い画像ではなかった。そして、真っ先に思ったのは……。


 これは、空白の過去にあった出来事なのではないか、ということ。


 同中の制服を着た少女を夢で見てすぐだったこともあり、見えた画像は僕の記憶喪失の件に刹那に結びついた。僕の酔気が覚め切ったのは言うまでもない。


 つまり、この見えた火災の画像は、ドラマのワンシーンとかではなく、失われていた僕の本当の記憶かもしれない。僕が火事を起こしている記憶かもしれない、ということ……。


 すると「犯罪の手助けなんて、んなわけないだろ」と一喝するような、でも優しさを含む瞬の声が飛んできた。


「何かの事件に巻き込まれたんじゃないか? ここ……俺らが住んでる地域って割と可術地方に距離が近いし、向こうから侵入してきた奴にやられたとか。もしくはそいつから誰かを助けようとしてやられたとか。登って、体力とか全然ないくせに正義感はあるからさ」


 あっけらかんという風に彼は言った。褒められているのかけなされているのか微妙だ。それが何かおかしくて、僕は思わず微笑してしまった。人の優しさに触れ、あたたかい気持ちになった。


 ……しかし、それでもわだかまりは解けない。そして、僕のことを信頼してくれる人に、脳裏に思い浮かぶ炎の画像のことは……怖くて、まだどうしても言えない。言う勇気が出なかった。


「そうだっ」


 するといきなり瞬が立ちあがた。椅子と机が大きな音を立てたので、思い悩んでいた僕は思わず仰け反る。


「……どうした、瞬」


「今から図書室に行こうぜ」


「図書室……?」と僕は首を捻った。今までの会話となかなか結び付かなかった。


「何で?」


「登の記憶喪失の原因を突き止めるために決まってるだろ。術とか可術地方とかに関する文献くらいあるだろうし。スマホでもいいけど、正確な情報の方がいいよな」


 びっくりした。まず瞬から文献という言葉が飛び出してきたことに驚いたし、それに……。


「僕の記憶喪失の原因を調べるって、どうして……?」


 すると瞬は僕の額を小突くふりをした。ハッと瞬の瞳に焦点を合わせると、彼は白い歯を見せてニヤッと微笑んだ。


「登が浮かない顔してるから。力になりたいと思っただけさ」


「……!」


「あ、もしかしてあんまり原因知りたくないとか?」


 瞬はリュックを背負いながら尋ねた。もう出発する気満々だ。僕は慌てて「ううん」とかぶりを振る。


 体の芯から熱くなる。純粋に嬉しかった。僕を受け入れてくれて、さらに僕のために協力しようとしてくれるなんて。


「僕は……知りたい。本当は、知りたかったんだ」


 僕は拳を握りしめた。確かに真実を知るのは怖い。けれど、自分のことを自分で信じられずに生きていくのも、もっと怖い。


 それに、僕は確かめたかった。僕の記憶喪失、そしてあの火事の現場のような画像が、犯罪になんか関わっていないということを。……脳裏に蘇る火事の画像のことを瞬や藍花に言える気はしないけど、だからこそ、一人で納得して、自分の中だけで完結させたかった。


 自分の闇に、早くライトを。瞬のお陰で、覚悟が決まった。


「梨橋も協力してくれるか?」


 瞬は藍花を見る。藍花は少し顔を赤らめて「役立つかは分からないけど、ぜひ!」と答えた。そして何か思いついたように指を一本立てる。


「あっ、玲未も誘う?」


「え、待って藍花、何でそこで蝦宇さんが登場するの……」


 僕は思わずたじろいだ。今日の僕の心臓は浮き沈み激しいんだから、これ以上揺さぶらないでほしい。


「何言ってんの。仲良くなる絶好のチャンスじゃない。だいたいねー、私のことは名前で呼ぶのに、玲未のことは苗字にさん付けって、距離違いすぎでしょ。……いやそれは私が言えたことじゃないか」


「中学が同じ人はみんな名前で呼んでるだけなんだけど……。みんなもそんな感じじゃなかった? それに、そうなると蝦宇さんにも僕の記憶喪失のことを話さなきゃいけないのか……。うーん」


「玲未のこと、信頼してないの?」


「まさか。ただ、瞬に伝えるのとはわけが違うじゃん。いくら藍花が話す機会をつくってくれているとはいえ、めちゃくちゃ親しいというわけでもないし……」


「あー、まあ好きな人にいきなりは言いにくいか。でも私は言ったほうがいいと思うけどなぁ」


 藍花はそう言いながら椅子から立ち上がって伸びをした。瞬は一足早く歩き出している。


「とりあえず図書室行こうぜ。早くしないと閉まるかも。……ん?」


 先に廊下に出た瞬は何かに気づいたのか、ある一点を見つめた。「どうした?」と僕は尋ねる。


「誰かが今、慌てて向こうのほうに走っていったような」


「え?」


「髪は短め、スカート履いてるやつってことは分かったけど。今の話聞かれてたかな……追いかける?」


 今の話を、聞かれた?


 少し気にはなったが、「いいよ、追いかけなくても」と僕は苦笑いした。


「ただの通行人かもしれないし、もし話聞いててそれで僕のことが広まったらもう仕方ないよ。知られる運命だったんだって諦める」


「蝦宇の耳に入るかもよ」


「結局は言っておきたいことでもあるし……。自分からは言いにくいから、むしろそれもありかも、あはは」


 おどけて僕が言うと、瞬は「そ?」と首を傾けた。僕は少しだけ無理をして言っているが、あまり瞬たちに気を遣わせたくはない。


「登がいいならいいけど。とにかく行くか」


「うん」


 頷いて、僕は自分のリュックを手に取った。午後の西日が、窓から優しく差し込んでいた。

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