ヌ・ムブリエ・パ

葛野 柚純

1 記憶の片鱗

 目の前が霞む。と思ったらすぐにぐわっと鮮やかな色彩が瞳に映し出された。あまりにも鮮やかすぎて直視できない。いったん目を閉じ、ゆっくりと開く。今度は目の前の色がぐるりと回りながら溶けて、再び霞んだようになった。


 僕は目を凝らした。霞みの中に誰かがいる。目を凝らし続けていると次第にもやが晴れていった。そして分かった。


 誰かが、たくさんの花々が咲いている草原の真ん中に立っているのだ。


 見覚えのない子だ。長いこげ茶のふわふわした髪、長いまつげ、しゅっとした鼻筋、ほほ笑んだ口元、そしてセーラー服。僕の通っていた中学校の女子の制服だ。どこからともなく一陣の風が吹き、幅の広い特徴的な紺の襟元、スカート、それから赤いスカーフが揺れた。


 僕は一歩も動けなかった。まるで大草原に凛として立っている桜の木のような彼女の姿に、胸の奥が、心の奥が、ぎゅっと締め付けられる。スカーフの赤色が目に染みる。


 僕はこの子に会った記憶がない。名前も歳も知らない。


 でも何で……。


 何で、この子の笑顔を見てこんなに切ない気持ちになるのだろうか。


 気を緩めたら泣いてしまいそうな、そんな気持ち。そしてどこかに、彼女と交わした約束を置いてけぼりにしているような、そんな気がしてならない。

 

 きっと僕らは、どこかで繋がっているのだろう。でないとこんな思いにならないはずだから。


 ただ、僕が覚えていないだけなのだ、多分。


        ・・・


 術を持つ者と持たない者。


 この世界は、その属性によって二分されている。


 術というのはいわば魔術……特別な武器みたいなものである。人を攻撃したり、守ったりすることのできる能力だ。


 術を使いこなして争いを頻発させている一方で生活は煌びやかで豊かである、可術かじゅつ地方に居住する人々。そして、術を持たない代わりに比較的に安寧秩序な生活を送っている、僕ら非術ひじゅつ地方に居住する人々。


 この世界には僕らがいる国以外にも言語の異なる多くの国があるが、それぞれの国がこの国と同じように、可術地方と非術地方を持っている。その中で、僕らが住んでいるこの国は、世界の特に中心の国である。なぜそう言えるのかと問われれば、『トワ様』の存在が理由として挙げられるだろう。


 世界を統治する、術の使い手――トワ様。果てしなく強大な力を持つ、神的存在『統治者とうちしゃ』である。彼――彼という表現が正しいのかは分からないが――は何ぶん姿が見えないため、彼についての情報は研究者たちの推測にしかすぎないが、それによれば彼は、拠点をここ、僕らのいる国に置いているらしい。それゆえ、この国が世界の中心と言われるのだ。


 けれど、統治者トワ様の力は、全世界に及ぶ。全世界を統治し、民衆の日々の生活を動かしている。


 統治者。その存在に守られながら、僕らは今日も、日々を生きていく。


           ・・・


 ふと気が付くと天井が見えた。さっきの女の子の光景は夢か、と一つ息をつく。


 やたら現実的で、心に残る夢だった。日常に切れ込みを入れるかのような、そんな感じ。


 小さく時計の音が聞こえる。家の中にはいくつかアナログ時計があるうえにそれぞれが正確ではないから、カカチッ、カカチッ、と不安定な音が刻まれる。そんな音を耳に入れながら、僕はベッドがらゆっくりと身を起こした。


 いつも通り一人で朝食を取り身支度を整えると、僕は電車に乗り高校へ向かった。自分の席に座るとすぐに「おはよっ、のぼる!」と声がした。笑顔の眩しい短髪の男子がこちらに駆けてくる。


「ああ、おはよう、しゅん


「早速だけど数学の宿題見せて」


 にっこり微笑みながら瞬は言った。僕は、「そんなことだろうと思った」とかばんの中から数学のノートを引っ張りだして瞬に差し出した。


「サンキュー! さすが登!」


「そろそろ自分でやったらどう?」


「やらないんじゃなくてできないの」と瞬は僕の机でノートを写し始めた。僕は肩を竦める。


「僕だってその答えが合ってるかなんて自信ないけど」


「何言ってんの、登はいつもそうやって言って合ってるから大丈夫」


 その時、ガラリという音がして教室に誰かが入ってきた。顔を上げてハッとする。肩くらいの髪の女の子と二つ結びの女の子がやってきたところだった。


玲未れみさー、いつもノートの端に何の落書き書いてるの? 暗号?」


「えー秘密だよ、秘密」


 何だかよく分からない会話をしている。きっと二人だけの世界なんだろう、少し羨ましい。しゃべりながら二人は顔を見合わせてふふっと笑った。


蝦宇えびう玲未と梨橋藍花りはしあいか……か」


 僕の目線を追ったのか、瞬が手を止めて呟いた。そして僕の顔を覗き込む。


「登って蝦宇のこと好きなの?」


「……!?」


 僕は驚いて瞬を見つめた。突然のことに心臓が慌てふためく。


「へっ……!? 急に……何で!?」


「蝦宇のことよく見てるだろ」


「そ、そーかな? 普通だと思うけど。ほら瞬、早くノート写しなよ」


 僕は思わず言葉を噛んでしまった。そんな僕の様子を見て、瞬はニヤニヤしながらシャーペンを回す。


「登って分かりやすいよな。よく言われない?」


「……」


 僕はため息をついた。全く瞬の慧眼には頭が下がる。いや違うか、ただ僕が馬鹿なだけなのかもしれない。


 きっかけは自分でもさっぱりわからない。そこまで親密に関わったこともない子なのに、なぜだろう。何というか、あのちょっとクールで憂いを帯びている感じがすごく気になるのだ。


 すると藍花がこちらを振り返った。僕が見ていることに気が付いたのか、蝦宇さんの話を聞きながら僕に向かってこっそりピースサインをし、蝦宇さんを指さした。僕は慌てて視線を戻す。


「あれ? 梨橋は知ってんの、登の好きな人……」


 藍花の言動に瞬がまばたきした。僕は低音で唸り、目を伏せる。


「……藍花としゃべってた時に蝦宇さんも来て、そのときなぜがパニックになって完全にあがっちゃって……ばれた。蝦宇さんにはばれてないはずだけど……」


「ああ、そういえば梨橋と登は同じ中学校だっけ。仲よさそうだよね」


「まあね。だから藍花がときどき僕を蝦宇さんとしゃべらそうとしてくれて、それはありがたいんだけど……」


 そこまで言って、僕は「あ」と立ち上がった。


「ん? どうした?」


「藍花に訊きたいことがあったの忘れてた。ちょっと行ってくるね」


「どうぞどうぞ。俺は真面目に写してるから行ってきな」


 宿題を写してる時点でそれは真面目ではないのではと思ったが、何も言わずに僕は席を立った。藍花は蝦宇さんとしゃべり終わった後のようで、リュックの中から教科書を取り出しているところだった。


「藍花」


「やっほー、玲未なら向こうだよ」


 僕の呼びかけに即反応した藍花はそう言って悪戯っ子のように笑った。僕は思わず顔を顰める。


「やめて……そうじゃなくて、藍花に聞きたいことがあって」


「ん、何?」


 藍花が小さく首を傾げた。二つ結びの髪が揺れる。僕は首の後ろを掻きながら「中二のときにさ」と切り出した。


「例えば、一年間だけいた転校生とかいなかった? 女の子の」


 藍花はきょとんとして「えっ?」と声を漏らした。つぶらな瞳が僕を見据える。


「どしたの急に。登から中二の話を切り出すとか珍しい……」


「いいから、いなかった?」


「う、うん……。いなかったと思うけど。転校生なんて記憶にない……」


「じゃあ先輩とか後輩とかは? 髪はふわふわしてて長くて、睫毛も長い女の子なんだけど……どう?」


「髪が、ふわふわ……」


「何と言うか……」


 どんな人か、うまく伝えるのは非常に難しい。何とか伝えようと身振り手振りする。しかし藍花は難しい顔だ。


「……ごめん、わかんない。その説明じゃ、さすがにちょっと……」


 藍花がすまなそうに眉毛を下げる。僕は、まあそうだろうなと息を吐いた。僕の説明はあやふやだし、特に期待はしていなかった。


「変なこと訊いてごめん。ありがとう」


 礼を言い、その場から立ち去ろうとする。そのとき「ちょっと待って」と藍花に呼び止められた。


「急にどうしたの。意味分かんないんだけど」


 そこで藍花はハッとしたように目を見開いた。瞳の中の光が震えている。


「……もしかして、中二の時の記憶、何か戻ったの?」


「え、いや……。大したことじゃないんだけど」


「教えてよ。何があったの」


 藍花の剣幕に僕がしどろもどろになっていると、予鈴が鳴った。藍花は不服そうに拗ねた顔をする。僕は「わかったよ」と言った。


「今日の放課後、空いてる?」


「放課後? うん、大丈夫。今日は部活ないから」


「教室に残っててくれない?」


 藍花はびっくりした顔で「そんなに長い話になるの?」と僕の顔を見た。


「いや、藍花に話す内容はちょっとだけ。でも実は今日、瞬に中二のことを話そうと思ってさ、ついでに同席してくれると助かるかなって」


 今思いついたことだったが、瞬にはいつか話さなければならないと思っていたのでちょうどよい機会だと感じた。


「えっ、久保木くぼきくんも?」と藍花が目を見張る。


「うん、瞬も今日は部活なくて、他の予定もないはずだし。いい?」


「えっ、えっ、うん、いいよ」


「ありがとう。じゃあ僕、席に戻るから」


 僕はそう言い、自分の席のほうへ向かって歩いた。瞬はノートをしっかり写し終えたのか、自分の席に帰っていた。予鈴も鳴ったし、瞬にはあとでちゃんと伝えよう。


 考え事をしていたので前をよく見ていなかった。ドン、と誰かにぶつかる。


「わっ、ごめん」


「いや、こっちこそ」


 顔を上げる。目の前には樋高千夢ひだかちゆめという同級生の女の子がいた。ショートカットの髪を揺らしながら、僕の顔を見つめてにっこり笑うと口を開く。


「おはよう、梶世かじせくん」


「あ、おはよう」


 樋高さんは僕に挨拶をすると、何事もなかったかのように自席に向かった。空手部に入っていてがっしりした体格を持っている樋高さんは、最近僕によく声をかけてくれる。気弱で頼りなさそうにしか見えない僕を心配してくれているのかな、なんて思っているけど、よく分からない。


 自分の席に座る。何も書かれていない黒板をぼんやりと眺めながら、今日の授業は集中しにくいだろうな、と何となく思った。

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