5 禁断の術

 翌日、僕が下駄箱でスリッパに履き替えていると、「梶世くん」と凛とした声が飛んできた。突然すぎて心臓が止まるかと思った。ゆっくり振り返ってみると、声からの想像通り、蝦宇さんが立っていた。リュックの肩にかける部分をきつく握りしめている。


「蝦宇さん……。ど、どうしたの?」


 僕の声が思わず上ずる。こんな感じで話しかけられることなんて、今までなかった。


「ごめんね、急に。えっと、たいしたことじゃないんだけど……」と蝦宇さんが目線を外した。耳に自分の心臓の音がはっきりと聞こえる。この音、蝦宇さんにも聞こえてないだろうか。心配すぎる。


 蝦宇さんは小さく口を開いた。


「あの……昨日……」


「玲未! おはよー!」


 元気な声が蝦宇さんの発言を妨げた。藍花が蝦宇さんの肩をポンと叩く。すると藍花は僕と蝦宇さんが向かい合っていることに気づいたのか、僕の顔を見て、やってしまった……! というような表情をした。蝦宇さんは藍花を見て少し俯く。そしてしばらくの無言。どうすればいいのだろう、この空気。


 最初に静寂を破ったのは藍花だった。


「あっ、ごめんね! その、登と玲未が話してるの気づかなくて……。私、先に行ってるから、ゆっくり二人で!」


 靴を履き替え、ダッシュでこの場を逃げようとする藍花。そんな彼女の腕を蝦宇さんが掴んだ。パシッと効果音がつきそうなくらい、勢いがよかった。


「藍花、待って。藍花にも関係あることだから、いていいよ」


「……私も?」


 予想外の言葉だったのか、藍花はきょとんとした顔になった。僕だって驚いている。と同時に少し残念でもある。まあ別に何があるとか期待していたわけではないけれど。


「とりあえず、ここじゃ人の邪魔になるからちょっと移動しようか」


 僕はそう言って、下駄箱から少し離れたところに二人を誘った。


 一呼吸おき、蝦宇さんがくっと顔を上げた。


「あの……。昨日、藍花と梶世くんと久保木くんで図書室いなかった?」


 僕と藍花は顔を見合わせた。藍花は目をまんまるにしているが、きっと僕も同じ顔をしているのだろう。


「うん……。いたよ」と僕は戸惑いながら答えた。


「……そっか」


「えっと、どうしてそのことを訊くの?」


「んー、ちょっと……何してたのかなって思って。声かけようか悩んだんだけど、話しかけられる雰囲気じゃなかったし。強い絆で結ばれてるというか、仲良さげだったから……」


 蝦宇さんは言い、近くの窓枠に音を立てて肘を乗せ、頬杖をついた。


「……藍花から仲間外れにされてる気がして、ちょっと気になっただけ」


 そしてぷいと横を向く。つんとした感じだったが、頬はほんのり桜色だった。


 僕はその様子を見て、不謹慎かもしれないが自然と微笑んでしまった。藍花のこと大好きなんだろうなと感じられるし、拗ねて口をもごもご動かしているのもかわいいなと思う。


 すると藍花は顔が溶けてしまいそうなほどニマニマした。


「やだもー、玲未ってばー、私のこと大好きじゃん!」


 それを受けて蝦宇さんは慌てたように顔の前で手を振った。


「ちょ、や、やめてよ、はっきり言わないでよ、恥ずかしいなぁ」


「何が恥ずかしいの」


「……分かってるよ、自分でもちょっと重いなってことくらい」


「重くなんてないよぅ。玲未、とにかく早く教室行こっ! ちゃんと説明するから! ……あ、登、先に行ってるからね」


 藍花は蝦宇のリュックを押しながら、僕に向かってグッドマークをした。僕を放って歩いていったのは、きっと今から僕のことについて蝦宇さんに話すからだろう。僕はゆっくり頷いた。


 さあ、どうだろう。僕の記憶喪失のこと、蝦宇さんに気味が悪いと思われなければいいけど。


「随分と仲が良いんだね、君ら」


 唐突に後ろから声がした。空気を叩くような声だ。


 後ろにはいつの間にか樋高さんが突っ立っていた。幾ばくか硬い笑みに見える。


「え?」


「おはよう、梶世くん」


「あ、おはよう……」


 僕は軽く顎を引く。何だか樋高さんはいつも唐突に現れる気がする。


 僕の返事の挨拶に樋高さんは頷くと、さっさと教室のほうに足を運んでいった。


 首を捻るしかなかった。クラスメイトに挨拶をするのは普通のことだと思うし、良いことだと思う。でも、樋高さんから受ける印象は、何かまた違っている気がする。何でだろう、何でちょっと謎めいているんだろう。


 樋高さんは何を思って僕に話しかけるんだろう……。


『髪が短めのスカート履いてるやつってことは分かったけど。今の話聞かれてたかな……追いかける?』


 なぜか、昨日の教室での瞬の言葉が思い返された。誰かに話を聞かれたかもしれないと少し騒いだあの時のことだ。彼女の後ろ姿を見ながら、そういえば樋高さんって短い髪だな、と思った。


           ・・・


 藍花はきちんと蝦宇さんに僕の事情を話してくれたようだ。蝦宇さんも話を飲み込んでくれたらしく、調査に協力したいとまで言ってくれた。外面には出さなかったが内心とてもほっとした。蝦宇さんに軽蔑されたら、僕はしばらくふさぎ込んでいただろう。


 かくして僕、瞬、藍花、蝦宇さんは昼休みにお弁当を素早く食べると図書室に向かった。


 前回と同じようにディベートコーナーで、前回読み切れなかった書物から閲覧していった。


「蝦宇さん」


 僕は本のページをめくる手を止めて言った。おそるおそる彼女の顔を窺う。


「あの、びっくりしなかった? 僕が……」


「記憶がないってこと?」


 蝦宇さんは顔をあげて僕の顔を見た。人形のような端正な顔が僕の視界に映る。僕はこくりと頷いた。すると彼女はゆっくり口角を上げた。


「びっくりしてないよ、大丈夫。知れて嬉しかった」


「本当……?」


 僕の言葉にうん、と蝦宇さんは微笑んだ。


「きっとそのうち記憶戻るよ。頑張ろうね」


「ありがとう」と僕は言った。蝦宇さんのこういうところが素敵だ。途中から瞬と藍花のにやにやした視線が痛いほど襲ってきたが、別にいいやと思えた。


 しばらく時間がたった後、藍花が「あ、ねえ、これ見て!」と僕たちに向かって手招きした。藍花はいかにも古そうな、黄色くパリパリになっている本のとあるページの一部を指さしていた。


『 禁断の術  一、存在の消去

        二、悪魔化

        三、記憶の消去 』


「あっ……。これ、伊杷川先生が言ってたやつ……」


 僕は言い、その部分をまじまじと見つめる。すると瞬が眉を顰めた。


「俺、先生の話からずっと思ってたんだけど、存在の消去とか悪魔化とか何? その本に詳しく書いてないの? ごめん、登の話とは関係ないんだけどさ」


 藍花は「載ってるかな……」と呟きながら、ぺらぺらとページを捲っていく。


「あ、あった。えっと……存在の消去っていうのは、人の記憶に全く残ってない状態にすること、だって」


「記憶に、全く……」


 蝦宇さんも興味があったのか、そう呟いた。それに反応して、藍花は説明を付け足す。


「そう。だから例えば玲未がその術にかかったとするでしょ、すると私たちは玲未のこと何も覚えていないの。覚えていないっていう言い方は変かな……。最初からいなかったことになるんだって。意味、分かる?」


「分かるよ。ひどい話だよね……」


 蝦宇さんは目を伏せて言った。長い睫毛が瞳に影を落とす。同調するように「なるほどな」と瞬も頷いた。その勢いでなのか、瞬が藍花の顔を覗き込む。


「じゃあ、悪魔化っていうのは?」


「えっと……ものを悪魔に変えて、手下にすること……らしい。『悪魔化すると、悪魔は術をかけた人の身体の一部になる』……? ちょっと意味分かんないなあ。この術は、石にも虫にも、あと人にも何でもかけられるから倫理的にも色々危険なんだって。だから禁断って。難易度的には三つの中で一番低いらしいけど」


 独り言も混ざったような感じで藍花が説明してくれた。しかしその説明は、現在にも通じる話だろうに、まるでおとぎ話だ。ここの地方は可術地方と情勢が違うからだろうが、悪魔とか手下とか、全く想像が湧かない。僕は顎に手を当てた。


「ものを悪魔に変えて手下に……って言ったよね。でも、手下にして何の得があるの?」


「向こうでは争いとか頻発してるからじゃない? ごめん、ちょっとこの辺りの文章、難解すぎてよく分からないや」


 藍花が口をとがらせながらページを見つめる。僕もちらりと藍花の読んでいる本を見てみたが、字がぎっしり詰まっているうえ回りくどい言い方をしているようで非常に難しそうだ。


「でも今は、可術地方も争いは少なくなっているらしいよね」


 藍花が顔を上げる。「だからトワ様の能力は本当にすごいって世界中で称賛されているんだってさ」と明るい口調で言った。


「へえ、トワ様ってすげーんだな」


 瞬は純粋に感心したように口を開ける。ここで蝦宇さんが口を挟んだ。


「でも向こう……可術地方にはすごく強い世紀の大怪盗がいる、みたいな話聞いたことあるけど。抑え込めてないんじゃない?」


 関心がある話題なのか、声のトーンが少し高い。しかし藍花は首を傾げる。


「ああ、その怪盗の噂なら聞いたことあるけど……。でもそれ一年前までとかの話じゃない? 今はあんまり聞かない……」


「あー……確かにそうか」


 蝦宇さんは頷く。僕はその怪盗の話題について、噂でも初耳だった。いい加減、もっと情報通になったほうがいいのかもしれない。


「だけどそれさ、トワ様は具体的に何をしてるんだ? 統治って具体的に何?」


 瞬は興味津々と言った感じだ。顔から好奇心しか読み取れない。気になり始めると一気に色々知りたくなるタイプなんだなと思った。どんどん話が逸れているが、きっと瞬はこういうのが楽しいのだろう。


 少ししどろもどろになりつつ藍花は口を開く。


「確か、争いの原因の根源を術で取り除くとか、経済がうまく流動するように術で手助けするとか、そんな感じじゃなかったかな? 少なくとも、術を使って世を治めるっていうのは合ってるはず」


 瞬は「なるほどなぁ」と藍花に言った。その言葉でクッと顎を上げた藍花は、今まで瞬に見られていたことを意識していなかったのか、ビクッと体を震わせた。そんなに驚かなくても……と僕は苦笑いする。


「じゃ、肝心の三つ目……記憶の消去についてはなんて書いてあるの?」


 蝦宇さんの言葉に、藍花は慌てて体勢を整えるかのようにした。少々わざとらしく難しい顔をする。


「えっと、そんなに詳しいことは書いてないね。とりあえず、この前伊杷川先生が言ってたようなことは書いてあるけど」


「それってどんなこと?」


 昨日いなかった蝦宇さんは首を傾げる。藍花が「あっ、そっか、ごめん」と蝦宇さんのシュッとした瞳を見つめた。


「統治者レベルの能力を持っていないと、記憶を消すとか難しいことはできないんだって。記憶を取り戻すのも結構難しいらしい」


「統治者レベル……。トワくらいの力ってこと? ……ふうん」


 何を考えているのか、蝦宇さんが顎に手を当てた。少し俯いた顔に細い髪がかかる。所作がいちいち上品に思えた。


「ねえ、どう思う? やっぱ登、何か術かけられたのかな。今日は何か思い出さなかった?」


 藍花が尋ねる。僕は「いや……今日は特に」と言った。こんなに協力してもらっているというのに全然思い出せない自分が何だか不甲斐ない。


 ――今日は何も思い出してないけど、昨日思い出してまだ言ってないこと、あるんじゃない?


 バクン、と心臓が縛られる。突然、僕の裏側の自分から声が聞こえたような気がした。無意識中に包み込んでいたものが、無意識中に解かれる。


 刹那にして汗びっしょりになった。そんな僕の横で、瞬は悩ましそうにうーんと唸る。


「登の記憶喪失が術によるものだと仮定しても、あとは何で登がそんな目にあったのか……」


 あの画像。


 濃いオレンジの地面の上に、赤色のポリタンク、そして手にはライター。火事の現場のように見える、あの画像の記憶。


 それは、どうして僕の記憶が一年間なくなっているのか、それを知る新たな手がかりになりうるかもしれない。いや、限りなく大事な材料だろう。


 どうしよう、言わなきゃ。


 言うのは怖い。言葉に出すと、余計にその画像を現実のものとして形作ってしまいそうだからだ。だから昨日、自分のことを調べようと決心した時も、このことは言いたくないという方針で自分の中で決定していた。


 でも、やっぱり言わなきゃ……。大事なことを隠しているのは、きっとよくない……。


 言うのが怖い反面、瞬たちになら言っても……という予感も実はどこかあった。僕が思っている「自分は何か悪いことをしたのかもしれない」という考えを、笑い飛ばして、否定してくれる。今までの雰囲気からして、そんな気もしていた。


「あ、あのさ……」


 しかし、その時タイミング悪くチャイムが鳴った。僕の掠れ声はいとも簡単に掻き消される。時計を見ると一時十五分になったところだった。「……予鈴……」と僕はポツリと言った。授業は二十分から始まるので、五分前には予鈴のチャイムが鳴るのだ。


「うそ、もう時間?」


 鐘の音に藍花は目を丸くした。出端を挫かれた僕は、言おうとしていた言葉を引っ込めてしまう。代わりに「早く教室に戻ろうか」とだけ言った。勇気が急速に萎んでいくのが分かった。


 ……まあ、いっか……。


 僕たちは早歩きで教室に戻る。途中で「ねえ」と蝦宇さんが僕に声をかけてきた。


「えっ、何?」


 不意打ちすぎてびっくりした。話しかけられるだけでドキドキしてしまう。さっき感じた心臓の鼓動とはまた別の鼓動だ。何だか情けない。一方の蝦宇さんは僕の表情など一切気にする素振りも見せず、ただ淡々と口を開く。


「梶世くんが思い出した女の子って、どんな子だったの?」


「どんな子って……」


 僕は返事に戸惑った。夢に見えたのは少しの間だったし、特にしゃべったわけでもないので何と言えばいいのか分からない。


「同じ中学の子だったみたい」と僕はとりあえずそう答えた。


「ふうん」


 蝦宇さんが言う。蝦宇さんの言う「ふうん」は、興味があるのかないのか、深く考えているのか考えていないのかよく分からなくて少し困る。僕の返事で満足したのだろうか。


「長髪の……ふわふわした髪の、切ない感じの女の子だったよ」


 とりあえずそう付け加えたが、蝦宇さんはあまり反応しなかった。


 僕は何とも言えない複雑な気分になりながら、教室に入った。


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