14 誤算

「次は、本格的に梶世くんの記憶を呼び起こしてみようと思う」


 沢井さんが歩きながら、やや緊張した面持ちで言った。頭を掻きながら「あの機械、試作品だしまだちゃんと機能するか分かんないんだよな……」とぼやく。


 僕たちは、機械が置いてあるという別の部屋に移るために廊下をぞろぞろと歩いていた。開発したばかりの機械らしい。


 ついにこのときが来てしまった。怖い。怖すぎる。脳裏に見えたあの火事の画像が、僕の記憶に関係ないなんてことがあるのか。


 しかも、さっきも……似たような光景が思い浮かんで……。


 階段を駆けのぼった先で見えた、一面のオレンジ色。僕を呼ぶ女の子の声。画像だけでなく、音声まで入っていた。


 空白の一年。あの間、僕は、一体何を……。


 すると唐突に右腕を掴まれた。貧弱な僕はその力に思わず声を上げそうになる。掴んだのは瞬だった。


「登、大丈夫なのか。手、震えてんぞ」


「……え?」


 ガラガラの声が出てしまった。気づいていなかったけど、無意識に手が慄いていたらしい。


「嫌なら嫌ってはっきり言えよ。言いにくかったら俺が言うから」


 僕は若干の迷いを堪えて「……いや、大丈夫」と首を振った。


 大丈夫。受け止める。それに、僕が不安に思っていることを瞬が知っている、というだけで少し心強かった。内容は知らずとも、僕に寄り添ってくれるだけで、僅かだけど気持ちが軽くなる。


 瞬は心配そうな顔をしたまま、無言で僕の腕から手を離した。


 僕らをよそに、藍花たちは沢井さんと何やら色々話している。


「記憶を呼びさますって、機械でするんですね。でも、難しいんじゃないんですか? そういうの……。トワ様レベルの能力が必要では……」


 藍花がそう言うと、沢井さんは「ああ、まあ莫大な力がいるのには変わらないんだけど」と藍花に向かって微笑んだ。


「記憶を消す方はかなり難しく、トワ様レベルの術の力が必要。これは前にも言った通り。でも思い出すほうは、一つ思い出せば連鎖的に思い出せることがあるから、まだ可能性があるんだよ。それに、記憶を呼び覚ますための、とある手がかりもあってね。それを基に、機械を開発したんだけど」


「手がかり、ですか?」


「螺旋」


 唐突に蝦宇さんが口を挟んだ。彼女の一単語が空気を揺らす。沢井さんが驚いたように蝦宇さんの方を向くと、彼女は「すみません。来た時に研究員さんの会話が聞こえてしまって」ときまりの悪そうな顔をした。


 沢井さんは納得したように「なるほどね」と言う。それからくるりと全員の顔を見回した。


「そう、蝦宇さんの言う通り、螺旋さ。残念ながら事故や病気によるものでは無理だけど、術による記憶喪失ならば、螺旋の動きを脳に作用させることによって記憶が戻るかもしれないって、最新の研究で明らかになっているんだ。……まあこれは術による記憶障害について言ってるから過去に例はなく、今まで本当かどうか確かめられなくて、あくまで理論上なんだけど。今日いよいよ本当かどうかわかるかもね」


「そうなんですか」と藍花が関心したように言った。沢井さんはこくりと頷く。


「君の状態をコウ……伊杷川から聞いて、病気や事故よりは術によるものと考えた方が筋が通ると思った。だから、君をここへ招待したんだ。君の状態に興味があったのはもちろん、つくった機械を試したくてね」


「へえー……」


「いずれ、どんな原因の記憶喪失もうまく回復できるようになればいいんだけどね」


 傍から会話を聞きながら、僕はなるほどと小さく口を動かした。ふと、そこである単語に引っかかる。


 螺旋?


 さっき、珠李さんに追いかけられた際にのぼった非常階段。あれは……螺旋状だった。


 螺旋が記憶を呼び覚ますかもしれない。


 じゃあ、さっきのは……やっぱり……記憶の断片……。


 瞳がひとりでに震える。瞬も、僕がのぼった階段が螺旋状だったことに気付いたのか、覗き込むように僕の顔を見た。それは感じた。でも僕は、瞬の顔を真正面から見返す勇気はなかった。


 沢井さんの歩みに僕らはついていく。そして彼は一つの部屋の前で止まった。『研究室X』という表記がある。沢井さんはドアノブに手をかけた。


 僕は心臓が破裂しそうに緊張していた。もうすぐ、僕の記憶が戻るかもしれない。失われた記憶には、一体どんな内容があるのだろう。やっぱり怖い。この後、自分が罪人であると判明するかもしれないのだ。でも、知りたい。知らなきゃいけない。みんなのためにも、自分のためにも。でも……。


 頭の中で「でも」が永遠ループする。回転して、止まらない。止めたくてボタンを何度も押しているのに、暴走した思考は全く反応してくれない。


 でも、でも、でも……。


 僕がそんな状態の中、沢井さんは勢いよくドアを開けた。


「えっ……」


 入った瞬間、沢井さんは驚きの声をあげた。扉を開けたときの勢いがまるでない。その様子を不可解に思った僕も中を覗いてみて、その部屋の異常さに気づいた。


 部屋の中の、机が、椅子が、書類が、全て散乱している。部屋の中央に堂々と置いてある、CT検査用に使うみたいな形をしている機械も、目立つところに大きな傷がいくつもついていた。機械から伸びている複数のコードも、無惨に引きちぎられていた。床や機械には、液体か何かが零れて濡れたような跡もある。


「そんな」


 沢井さんは真っ先に機械に駆け寄り、電源と思われるところのボタンをカチカチ押し始めた。しかし機械はピクリとも言わない。ただの巨大な塊になっている。しばらく手を動かしていた沢井さんだったが、その後呆然としたように虚空を見つめた。


「沢井さん……?」


 廊下に立っている僕が声をかけると、沢井さんは「……壊されてる」と明らかに引きつった作り笑いを浮かべた。


「完全に壊されている。試作品だから強度については何も対策してなかったんだよなあ。これだと術を使ってでも簡単には直らないだろうな……」


「え……」


 僕は部屋に入り、落ちている書類を踏まないようにしながら沢井さんに近づいた。


「これは……一体どうしてですか」


「そんなの僕が知りたい……。……でも多分珠李さん……かな」


 そう言った沢井さんは、はぁっとため息をついた。それから目を閉じ、ゆっくり首を振る。


「いや、僕が悪いんだ。珠李さんのせいじゃない。朝にチェックした後、鍵をかけなかった僕の責任だ。いくら奥の部屋にあるからって油断するんじゃなかった」


 沢井さんはフラフラしながら、「というわけで中止です。ごめんね」と言った。今にも倒れてしまいそうだ。新しくつくった渾身の機械が壊されてしまったのだからその様子も当然だろう。


 廊下に立ったままの瞬と藍花と蝦宇さんは、非常に複雑そうな顔をしていた。気の毒だけど何て声をかければいいのか分からない、といった顔だ。僕も同感だった。


 僕の記憶回復は、お預けとなった。本来ならがっかりすべきところなのかもしれない。沢井さんは、僕が失望していると思っているだろう。


 実際のところ、僕は何だかふわふわした気持ちだった。今の感情を言葉で表すのは難しかった。肩透かし……にあったけど、それに対する感情が、自分でもよく分からない。


「……誘った割に大したことを報告できなくて悪かった。調査は一応ここまでなんだ。可術地方の出口まで送るよ。境界の門を開ける手続きがあるし」


「え、でも……大丈夫ですか?」


 ヨロヨロの状態の彼をあまり動かせたくない。すると沢井さんは途方に暮れたような顔をしながら、「じゃあ……僕の代わりに、うちの研究員を付かせるよ」と呟くように言う。オレンジ色の彼の瞳は、死んだように乾いていた。


 こうして研究は予定よりも早くお開きになった。沢井さんが言った通り、アケビさんというさっきも見かけた丸顔の研究員の人が、二つの地方を分ける境界のゲートまで送ってくれた。


「機械が直ったらまた連絡するから、とのことですので。それでは」


 手続きを終わらせた後、アケビさんはそう言った。僕らは彼と別れ、門をくぐり非術地方に帰ってきた。質素な街並みだが、少しばかり安心感がある。ほんのり赤みを帯びてきた空に、太陽が輝いていた。


 瞬が手を頭の後ろで組みながら、難しそうな表情をした。


「結局分かったのは、記憶喪失の原因が術のせいってことだけか……。原因の具体的なことは分からずじまい、だな」


 すると藍花が歩きながら「……ねえ」と蝦宇さんに顔を向けた。どこか浮かない表情だ。


「何? 藍花」


「玲未ってあの『アケビ』っていう研究員の人と知り合いなの?」


「え? 急に何? 今日初対面だけど……」


 蝦宇さんが困惑したように頬を小さく掻いた。僕も藍花の質問の意図が分からない。「そっか」と腑に落ちないような顔をしたままの藍花に、「……どうしてそう思ったの?」と尋ねてみる。


「だってあの人、すごい何度も玲未の顔を見てたんだもん。だから玲未のこと知ってるのかなって」


「見てた?」


「うん。研究所入ったときから、さっき帰り付き添ってくれたときまで、割とずっと」


「……惚れられたか?」と冗談じみた声で瞬が言う。一方蝦宇さんは慌てたように「やめてよ」と小さく叫ぶ。僕だってそんなこと言われて良い気はしない。瞬は、僕がこう思うことを分かって意地悪しているのだろう。


 蝦宇さんは続けざまに口を開く。


「見た感じ、父と娘くらいの年齢差でしょ。そんなの、あるわけないじゃない」


「それは偏見じゃないか? そういう人たちだっているだろ」


「世間のことを言ってるんじゃなくて、私のことを言ってるの。私のタイプの年齢じゃない」


 蝦宇さんの口からタイプという言葉が出て、僕の心臓がキュッと縮こまった。蝦宇さん、好きなタイプとかあるんだ……気になる……。


「まあアケビさん、結婚指輪はしてたんだけどね」


 藍花が口を挟んだ。そして、しばらく黙った後、「……それに」と再び言葉を繋ぐ。


「惚れるとかそういうのじゃなくて……。何回も……確かめるみたいだったからさ。……玲未、誰か芸能人に似てるとか言われない? もしかしたらそれで見てたのかも……」


「この顔? 言われたことないけど」


「そっかあ。……じゃあ気のせいだったのかな。なんか変なこと言っちゃってごめん」


 藍花は謝り、ガリガリと頭を掻いた。僕的には非常に気になったが、今考えても多分何の答えも出ないだろう。瞬も蝦宇さんも僕と同じ感情なのか、小さく首を傾げるだけで無言だった。


 すると藍花は話を切り替えるように「とにかく」とトーンの違う声を上げた。


「登の記憶喪失の件、例の女の子の画像を示してもらえたのは大きかった気がする。私も夢に見た、あの子……。……詳細は何も分かってないけど……」


「そうだね」と僕は頷く。


「あの子、一体誰なんだろ……」


 そう言って、藍花は吹く夕風に煽られた前髪を押さえた。すると彼女は不意に「あ」と声をあげ、前方にあるフェンスに貼ってある紙に駆け寄っていった。藍花に続いてみんなも駆け足になる。


『毎年恒例 秋祭りのお知らせ』


 それを見て、そうか、もうお祭りの時期か、とぼんやり思った。毎年行っているイベントなのに、完全に頭になかった。


「月末にお祭りだね」


 何を思っているのか藍花が少しぎくしゃくしながら、蝦宇さんではなく瞬の顔を見上げた。するとふいに瞬がいいことを思いついたように目を輝かせて、そのポスターを指さした。


「なあ、これ、このメンバーで行かね?」


 僕はすぐに「いいね」と言った。もともと瞬を誘うつもりだったし、藍花とは話しやすいし、なにより蝦宇さんもいるなんて魅力的すぎる。もちろん緊張はするだろうが、最近は一緒にいる機会も増えてきたし、だいぶ慣れた。瞬ありがとう、と心の中で呟いた。


「うん、行きたい!」


 藍花もすぐに賛成した。食いつき方が、まるでそう言ってくれるのを待っていたみたいだ。藍花は頬を染めながら、蝦宇さんの方を向く。


「玲未は?」


「あー……」


 蝦宇さんは少し間の悪い顔をした後、顔の前で手を合わせた。明らかに断る人の態度だ。


「ごめん、私は別の人と行く約束をずっと前からしてて……」


「そっか」


 僕は残念さを噛み殺してそう言った。「なら仕方ないよ」と付け加える。……彼氏と、とかじゃなければいいけど。気がかりだが、僕にそんなことを訊く勇気はない。


「じゃあ三人で行く?」


 瞬が僕に申し訳なさそうな顔をして言った。おそらく、蝦宇さんと僕を一緒にしたかったのに失敗してごめん、という意味だろう。そんなこと瞬が気にしなくてもいいのに、と僕は少し恥ずかしく思った。


 入り混じった色んな気持ちを払拭するがごとく、僕は「藍花はそれでいいの? 女子一人になっちゃうけど」と藍花に尋ねた。


「うん、いい。楽しみ」


「無理してない? 本当に大丈夫?」


 藍花は瞬と話すとき何だか緊張しているようだから心配なのである。すると藍花がキッと睨むように僕を見た。


「私についてきてほしくないってこと?」


「え、そういうわけじゃなくて、だって」


「ちょーっとこっちに来て!」


 きょとんとした顔をする瞬と蝦宇さんをよそに、藍花は僕の腕をつかんで二人から離れたところに引っ張っていった。


「何、何、藍花」


「私は瞬くんと行きたいの。本当に瞬くんからお誘いが来たから今すっごい嬉しいの。だから、邪魔しないで」


「瞬くん?」


 いつもと違う呼び方に僕は首を傾げた。藍花はハッとしたように体を震わせた後、火が出るんじゃないかというくらい真っ赤に顔を染めた。


「そ、それは違うの。妄想の中で勝手に私がそう呼んでるだけでっ……」


「妄想?」


「だ、だからそれは……。ああっ、もう!」


 藍花が若干目を潤ませながら、僕の耳元に口を寄せた。


「……好きなの!」


「え?」


「久保木くんのこと! 好きなの!」


 まさに、晴天の霹靂といった感じであった。僕は目を見開いて「瞬を? 本当?」ととりあえず言ってみた。


「嘘を言うわけないでしょ」と藍花は拗ねたように言う。瞳はまだ揺らいだままだ。


「知らなかった」


「言ってないもん。まあ伊杷川先生には一瞬でばれちゃったけど」


「そっか……。そうだったんだ」


 僕は口元を押さえた。藍花の瞬に対するぎこちなさは、恋心によるものだったんだ、とようやく理解した。そこでふと疑問が生まれる。


「そういうことなら、お祭り、僕いない方がいいんじゃ?」


「やめてよ」


 僕の発言に、藍花は嫌悪と恥ずかしさが混ざったような微妙な表情をした。さっきからずっと、藍花の声の抑揚が激しい。


「ずっと二人きりなんて無理っ。それに久保木くんだって、話し相手私しかいないなんて状況、すごく居づらいじゃん」


「……まあ、藍花がそう思うなら」


「分かったね? ならオッケー。はい、戻ろ!」


 すると藍花はさっきと真逆で、瞬と蝦宇さんの方に向かって僕の背中を押した。瞬が「何の話してたんだ?」と言うと、藍花は慌てたように「何でもない! 何でもないよ! ね、ね?」と僕に詰め寄る。彼女の目はバキバキに開いていて、思わず笑ってしまうかと思った。これで同意以外の言動をしたら一体どうなるか興味はあったが、さすがにそれは無神経すぎるので僕は頷いた。


「うん、大した話じゃなかった」


 蝦宇さんが僕にそっと近づく。え、と思っている間に僕は彼女の美しい瞳に覗き込まれた。


「……本当に? 二人だけの、仲良しの話とかじゃない?」


 心臓が跳ね上がる。頬が火照り、額や脇の下から汗が一気に飛び出してきた。「違うよ、全然!」と言いつつ語気が乱れる。……僕は単純な人だ、全く。彼女の言葉のベクトルが向いているのはおそらく藍花のほうだと分かっているのに、ドキドキしてしまう。


 その後別の話題が持ち上がり、僕はホッと胸を撫で下ろした。深く追及されたら切り抜けられる自信はなかったからだ。ちらりと見ると、藍花も安心したように胸に手を当てていた。


 しばらくした後、不意に蝦宇さんがちょいちょいと手招きをした。「梶世くん、ちょっと」と、瞬や藍花ではなく僕を呼んでいる。


「え、僕?」


 蝦宇さんは小さく頷いた。僕が近寄ると、蝦宇さんは「さっき……ありがとう」とやや俯きながら言った。


「さっき?」


「研究室で女の人が暴れたとき。私のこと、庇ってくれたよね。ちゃんとお礼言えてなかったから……」


「え……いや、ちゃんと庇えなかったし、そもそも大したことじゃ」


「ありがとう」


 蝦宇さんの目がきゅっと細くなり、彼女の口角が上がる。ピンクの花が咲いたような微笑みだった。


 こんな真正面から、僕にお礼を……。


 彼女の精神の美しさに、僕は心を打たれる。再び、一気に顔が熱くなった。血が沸騰するかと思った。


 お礼を言われただけでこんなにも感情が昂ってしまうなんて……。


 やっぱり僕は単純な人間だ。

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