15 廻り合わせ

 高い崖の上に座って果てしなく広がる海の前で一人の女性――デビル・レディは、ぼんやりとした目で遠くの境界線を眺めていた。沈みゆく夕日の明るい光が、地平線の縁に僅かに残っている。もう間もなく夜が訪れそうな、そんな景色だ。


「もうそろそろ……知ったかな」


 ぼそりと呟くと、デビル・レディは頭に手を乗せて目口がある黒い靄――シニスターを掴み、眼前に引き寄せた。心なしか、悪魔のようなその目は悲しげな表情をしている。


「シニスター。お前の分身とあの子のこと、任せたよ」


 デビル・レディは今にも崖から飛び降りるように身を前に乗り出した。パラパラと細かい砂が広大な海の中に音もなく消える。


 突然、携帯の音がこだました。彼女はびっくりした表情で、すんでのところでその動きをぴたりと止めた。


 携帯電話の画面を見たデビル・レディは、体を小刻みに震わせた。しかし彼女は覚悟を決めたのか、勇気を振り絞ったように通話ボタンを押した。


「……はい」


 ひどく掠れた声だった。相手が何かしゃべる。それに対し、デビル・レディは大きく目を見開いた。


「……。え……どうして……。え……? ……の……ために……じゃなかったの? 

……確かに昔そう言ったけど……うん、分かった……じゃあ、後で」


 電話を切るとデビル・レディは目を伏せた。サングラス越しに長い睫毛が夕日を浴びて反射する。


「どうしてうまくいかないの……」


 突然、こちらに向かって走ってくる足音がした。大きいものの接近音ではなく軽そうな音だが、確実にデビル・レディの方向にやってきている。彼女はハッとして勢いよく振り返った。


 そこには灰色の髪をした四十代くらいの女性がいた。デビル・レディが振り返ると同時に立ち止まったらしく、荒い息を吐きながらその場で少しだけゆらゆら揺れていた。病服を着ていて折れそうな棒のようである。頬はこけて顔は真っ白だ。身構えていたデビル・レディだったが、相手の姿を見て訝しげに眉を顰めた。


「……誰?」


 すると唐突に、女性は涙を落とし始めた。とめどなく流れ続ける。地面に蹲って、何とか堪えようとしながらも全く堪えられていない、そんな感じだ。


 デビル・レディは立ち上がって、足元をパンパンと払った。全てを飲み込んでしまいそうな海に背を向けて、その女性に近づく。


「あたしが死ぬと思って止めにきた口ですか。世の中にはお節介な人もいるもんだ」


 その言葉にも反応せず、ただひたすら嗚咽を上げる女性。デビル・レディは呆れた顔をしながらも、放っておけないのか女性の前に屈みこんだ。


「ちょっと、何なのよ。もしかしてあたしのこと知ってんの?」


 この一言で、ようやく女性が顔を上げた。顔は涙でぐちゃぐちゃ、青い瞳はずっと震えている。しかしすぐにまた俯いた。一言も声を発さない。


 デビル・レディは何を思ったのかゆっくりと手を差し伸べる。彼女の手にいたシニスターはするすると彼女の頭に戻っていった。デビル・レディの手が女性の顔に近づく。


「いたっ、珠李さん!」


 その時大きな声がして、バタバタとこちらに向かってくる人影が見えた。その様子を捉えたデビル・レディは「ちっ」と舌打ちをすると、手を引っ込めて勢いよく立ち上がり、人影とは反対方向に走り出した。


「あ……」


 蹲っていた女性が何かを言いかける。しかしその前にもうデビル・レディの姿ははるか遠くの方に消えていた。女性はその場で一ミリも動かずじっとしていた。


 しばらくして、白衣を着た数人がやってくる。息を切らした沢井颯樹が女性――珠李志津代のもとに真っ先に駆け寄った。


「珠李さん、勝手に研究室から抜け出さないでください! ご自身が病を持っているということを忘れないでくださいよ!」


 沢井はそう言い、「本当に見つかってよかった……。し……珠李さんに何かあったら、もう……」と安堵の息を漏らした。額の汗を白衣の袖で拭う。


「症状は出ていないみたいですけど……。勝手に外に出られたから、また症状が出たんじゃないかって、本当に心配したんですからね? 何せ、今日は一回発作起きたんですから。一日に二回も出たのかって、本当に不安だったんですよ」


「……」


「どうしたんですか。今まで症状も出てないときに外に抜け出すなんてなかったじゃないですか。そんなに部屋の窓から見えるこの場所に来たかったなら、教えてくれれば連れていきますって……。閉じ込めてるんじゃないですから。それで、なぜ……」


 そこでようやく志津代の顔をまともに見た沢井は、少しぎょっとしたような顔をした。ポケットからハンカチを取り出すと、彼女の手に無理やり持たせた。そして優しく彼女の肩を撫でる。


「とりあえず戻りましょう。理由は戻ってから聞かせてもらいますから」


「……すみません」


 志津代はようやくはっきりした言葉を発すると、徐に立ち上がった。沢井は彼女の肩を持つと、彼女の歩みに合わせて歩き始めた。


 静かな海の景色が戻る。志津代の涙の跡だけが、地面に残った。

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