52 終わりの刻

 ゴゴゴと再び地面を揺るがすような大きい音がした。光が四散したように、辺りの全方位が真っ白に包まれる。塔の一部も壊されているようだ。ガラガラと崩れる音が鳴り響き、瓦礫が顔にいくつも当たる。痛みがあり、多分血も出ていると思うが、それよりも恐怖の方が勝っていた。


「……トワ様が、自爆を始めた……」


 トワツカが呟く。天井だけでなく周囲全体が真っ白な光に覆われてきているが、人の姿は辛うじて見える。トワツカの体は明らかに、透けていた。


 デビル・レディが彼の腕を掴む。その行動は、トワツカの実在を確かめるようだった。彼女は長い髪を風に舞わせながら、彼の顔を覗き込む。


「トワツカ……」


「……俺のことは気にするな。とにかく、この塔は間違いなく自爆の効力範囲内だ。トワ様はあと少しで完全に爆破するから、何とかして……何とかしてここから脱出しないと。死ぬ前に、この範囲から……」


 そうだ。呑気にしていられる暇などない。トワツカの言葉を受け、僕は取り敢えず階段の方に向かった。大きな鉄球が塞いでいたとは言え、今は塔自体が崩壊し始めている。運良く鉄球と壁の隙間が空いていれば、下りられるかもしれないと思ったのだ。


「な……」


 階段への入り口を見て、愕然とした。


 階段全部がごっそり崩落している。つまり、この出入り口に一歩踏み出せば、遥か下まで真っ逆さまというわけだ。地面は遠過ぎて、砂塵に霞んで見えない。


「……ダメだ……脱出できない……」


「そ、そんな……」


 僕の後ろをついてきていた桜も、絶句の声を上げた。相変わらず風が強いから、堪えるのにも一苦労だ。すると安全のためか、トワツカが僕たちの首を引っ掴んで部屋の中央に寄せた。


 カン、と床に小さいものが落ちる音がした。デビル・レディの横で転がる。彼女はそれを拾い上げ、目の高さまで持ってきた。


「……シニスター……あたしの悪魔が、単なる宝石に戻っちゃった。きっとこの子の分身も消えた。本当に、ここにある全部の術が、消えちゃうんだ」


 彼女はゆっくり息を吐く。その隣で、トワツカはずっと苦しげな表情をしていた。


「くそ……。自爆範囲内じゃ術も使えないから、塔から飛び降りることもできない……。おい、デビル・レディ。俺を下敷きにして、この二人を何とかこの塔から飛び降りさせられないか」


 そう言うトワツカの体が、さらに透けていく。デビル・レディはパッと表情を変え、憤慨したように彼に詰め寄った。


「絶対うまくいかないし、そもそも、あなたを下敷きになんてできるわけないじゃない。あなただって、死んだら存在消されちゃうのよ」


「……俺は別に構わない。言っただろ、どうせ俺の存在は消えるんだ」


「……え?」


「トワ様は倒されても自爆しても、その名は残る。だが、トワ様の使いの者である俺は、トワ様が死ねば、消える。肉体だけじゃなく、その存在ごと。自爆のときだって、範囲内にいようと範囲外にいようと関係なく、な」


「……そんな……最初から、そんな運命なんて」


 眉を吊り上げた表情のまま、彼女は目の縁を波打たせる。雫は一つ残らず風に攫われた。


 突如、その風が猛烈な勢いになった。それに押されたデビル・レディは足を挫いたようで、そのまま体のバランスを崩す。


「うっ」


 呻き声が上がる。細身の彼女は、あっという間に向こうに吹っ飛ばされ……。


「おい!」


 トワツカが彼女を追いかける。二人の姿が白い光に掻き消され、刹那にして見えなくなってしまった。僕自身、強風に耐えるのに精一杯で、何もできない……。


 再び強烈な風が僕たちを襲う。あの二人を心配している余裕など、なかった。


 ハッとした。突然、服を掴まれている感覚がなくなったのだ。桜が掴んでいたはずなのに。


「さ、桜っ!」


 一瞬、自分だけ取り残されたような感じになった。誰もいない世界に、僕だけが一人。


 すると目の端に、風に煽られて宙を舞っている桜が見えた。あっけないくらい軽々しく体が持ち上がっている状態だった。目をぼんやりと開いて、まるで魂が抜かれたような顔をしている。次第に、諦めたようにその瞳が閉じられていく。


「桜!」


 僕は右手で偶然近くにあった柱を抱え、左手を桜の方へ伸ばした。ギリギリだ。腕全体が攣ってしまいそうなくらい。それでも何とか、僕は桜を必死に探す。


 桜の手を、掴めた。


 眩しい光の中だが、何となく現在の状況が分かってきた。桜は塔の頂上から体が半分はみ出ている状態だ。


 この手を離せば、桜は塔から落下する。そして死んでしまい、存在が消えてしまう。僕は、少ない筋力ながらも腕に全ての力を込めた。


 目を閉じていた桜はゆっくり開眼し、繋がれた手を見て少し驚いたような顔をすると小さくため息をついた。


「何で……?」


「桜、大丈夫だよ。しっかり掴んでて」


 しかし桜はゆっくり首を振った。全てを振り払うような動作だった。


「どうして……? 私たち、もういなくなっちゃうんでしょ? 存在が、消えちゃうんでしょ? もう、何をやっても無駄じゃない」


「そんなの、まだ分からない」


「また私の存在、消えちゃうのか……。私が死んで、悲しんでくれる人がいてほしかったな」


「桜」


 僕は少し怒った口調をした。桜が、こうも悲観的に物事を見るのが、どうしても許せない。


「そんなこと言わないで」


 すると桜は口を真一文字に結び、何かに耐えるような表情をした。その後、堪えきれなかったのかポロポロと涙の粒をこぼした。


「だって……私なんて……存在しなくてもよかったんじゃないかなって思うんだもん……」


 風がその粒をさらっていく。憎たらしいほど美しく輝いたその珠は、音も立てず下へ落ちていく。僕は桜の言っている意味が分からなかった。


「何言ってるの、桜」


「だって、浅西桜が完全にいなくなった後も、みんなは何一つ変わらずに生活してた。私がいなくても世界は回る。それは、蝦宇玲未の瞳から見て、痛いほど分かったわ」


「そんなことない」


「というか、今からでも私の存在を全て消去したほうが、みんな幸せになれるんじゃないかな……」


「そんなことない!」


 僕は思わず叫んだ。桜を掴んでいる手にも、柱を持っている手にも、ぐっと力を込める。


 桜は何も分かっていない。本当に何も分かっていない!


「絶対手を離さないでよ。あのね、桜がいるから、今僕はここにいるんだ。僕だけじゃない。藍花も、瞬も、みんな!」


 僕は必死に叫んだ。


 僕は桜が過ごしたつらい気持ちの半分も分かっていないと思う。でも、でも……!


「浅西桜も蝦宇玲未もいない過去なんて、絶対綻びが出る。そんな状況で世界が成り立つわけないんだ。もしそうじゃないと言うなら、なぜ僕は桜のことを思い出した?」


「だって……螺旋の効果が」


 桜の言葉に、僕は即座に首を振る。


「あれに螺旋は関係ない。確かにあの火事のシーンは、螺旋の作用で思い出したんだと思う。けど、桜が現れる夢はいつも、僕がひとりでに思い出したんだ。桜の存在が消えるという、トワの強力な術がかかっているにも関わらず」


 君という木が、自分の意志で揺れた。それは僅かな揺れだったかもしれないが、それは僕や藍花の木に伝わり、それがさらに伝播して、次々に広がっていった。君が、広がっていったんだ。


 桜はなおも苦しげな声を上げる。


「でも、助かる方法なんて分からないじゃない! 私、忘れ去られるんでしょ!? 何のためにこんな……」


「そうだよ。助かる方法なんて分からない。僕だって、どうなるか分からないんだ。こうやって、ギリギリで耐えているのも何の意味もないかもしれない。桜をこっちに引き寄せることができても、もうどうにもならないかもしれない……。でも……僕は、信じたいんだ。お願いだから、離してほしくない。お願い……」


 絞り出すように言った。強く太い声を出したいのに、情けないことに声が震えてしまう。儚いものになってしまう。


 でも、これが僕の気持ちだ。届いてくれ。いや、届かないとしても、「離して」と言われたとしても、僕は引かない。


 するとしばらくした後、蚊の鳴くような声で「……馬鹿」と声が聞こえた。


「馬鹿だよね。登って、本当に馬鹿。ずっと変わってない……」


 そう言って僕を見つめる桜は、あの時と同じだった。


 桜だ。僕の知っている、桜。


 自分の芯たるものを持っていて、真っすぐな桜。


「絶対助ける」


 僕は言った。奇しくもあの時と同じセリフだ。「嘘ばっかり」と桜は泣きながら微笑んだ。


「嘘じゃない。とりあえず桜を引き上げたいから……桜、こっちに向かってもう少し反対側の手を伸ばせないか」


「分かった。……でも、風が強くて……」


 巻き起こる風は冷たくて強く、桜は歯を食いしばりながらも必死で右手を僕に伸ばしている。口の中にも髪の毛が容赦なく入りこんでいるようだ。僕だって吹き飛ばされそうだ。


 一瞬、風が凪いだ。チャンスだ。僕は思い、思い切って身を乗り出した。桜も慌てて伸ばしている右手に力を込めたように見えた。


 届く――


 しかし、そう思ったのも束の間だった。


 ドオン


 轟音がした。風が収まっていた時にエネルギーを貯めていたのかのごとく、強烈な風が僕たちを襲った。そして突然辺りの光が失われ、一転真っ暗闇に変わる。


「桜!」


 僕の手から、桜の左手が、離れた。


 暗闇の世界に桜の姿が溶けていく。


 バクン、と心臓があり得ないほど脈打った。全身から血の気が引く感じだ。


 おそらく桜も僕と同じような心持ちなのだろう。桜は恐怖と悲しみが顔に張り付いたような表情をしている。手を僕に伸ばしたまま、ひっくり返るような体勢で、僕から遠ざかっていく。


 そんな……馬鹿な。


 このままでは、桜は落下していき、地面に叩きつけられる。そして……存在が、抹消されてしまう。


 終わってしまうのか。ここで、何の痕跡も残さずに、桜は、蝦宇さんは、この世界から消えてしまうのか。


 嫌だ!


 誰の叫びなのか分からない。僕の叫びかもしれない。桜の叫びかもしれない。分からないけれど、少なくとも僕の心の声ではあった。


 このまま、桜も蝦宇さんもいなくなるなんて、そんなの僕が許さない。許していいはずがない。


 けれど、桜はそのまま奈落の闇へ背中から落ちていく。桜の顔が見えなくなりかけたとき、彼女の口がそっと動いた。


「……私のことを……死ぬまで忘れないで……」


 か細く、だけどはっきり僕の耳に届いた。その魂の声に、僕は心を貫かれた。


 桜。真っすぐな、とても優しい心を持った桜。


 あの出会い。あの日々。


 努力家で明るくてあたたかくて無邪気で、ちょっと頑固なところもあるけど自分の芯をしっかり持っていて、僕の世界を花色に染めてくれた、あの笑顔。


 桜の顔も、蝦宇さんの顔も、どちらも浮かんでくる。ゆらりゆらりと流れてくるように。


 僕には、君が必要なんだ。君の姿が変わっても、結局僕は君を見てしまうんだ。


 忘れるわけがない。僕の心に入り込んできて、こんなにもかき乱してきた君を、忘れられるはずがない。記憶が封印されたとしても、忘れない。そしてこの世界に、必ず君を刻む。残させてやる。


「桜!」


 僕は躊躇わずにに柱から手を離した。近くにある壊れた壁の残骸を蹴り飛ばし、反動で前に飛び出す。桜に向かって、腕がちぎれるんじゃないかというくらい手を伸ばした。


 手が何かに触れた感じがした。僕は手をまさぐり、何とか桜の右腕を掴んだ。そのまま、空中でぐいとこちら側に引き寄せる。


 目の前に驚いたように大きく目を見開いた桜の顔があった。桜のその目は潤み、たくさんの涙を湛えていた。吹き荒れる風と自分たちが落ちるのに伴って、その涙が分裂し、空中で光の珠になってどこかに消えた。


 僕は桜の顔を見て、力強く頷いた。


 桜は、蝦宇さんは、確かに存在している。みんなの心に息づいて、離れない。大事な、大切な、かけがえのない存在。


 消させやしない。最後まで、諦めるものか。


 僕たちは真っ暗な闇の中へ落ちている。重力に従って勢いよく落ちている。しかし桜を見つめているときだけは、とてもスローモーションのように感じられた。


「桜」


 僕はゆっくり微笑んだ。全てを包み込むように、静かに、そして優しく。


「桜のこと、死んでも忘れないよ」


 桜ははっとしたような表情をした後、出会ったあの時と同じように、頬を桜色に染めた。


 ふわふわした髪の毛を揺らしながら、くっきり二重の目を真ん丸にして……。





 僕は桜の顔に自分の顔を近づけ、そっと唇に自分のそれを重ねた。


 すっと桜の頬を涙が一筋、真っすぐに伝った。





 ――絶対に、消させはしない。




 僕たち二人は落ちていく。抱きしめ合ったまま、深い、深い底に。

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