45 真実②

 パァンと耳を劈くような痛い音がした。


 ぎょっとし、音が聞こえてきた方向に体を向ける。それと同時にもう一発響いてきて、僕の顔は石のように硬くなっていく。


 ……音は確かに、屋敷の方から聞こえた。


 破裂音、というのだろうか。脳や心臓を揺らすような響きだ。擬音語として形容はできるが何の音だかはっきりとは分からない。ただ、ひどく嫌な予感だけはした。


 ドラマなどで見た、拳銃の発砲音に似ている。


 その音は一発だけに留まらなかった。二発、三発、四発……全部で四回の破裂音が聞こえた。僕は桜の木からは完全に目を離し、ただ聳え立つ屋敷に釘付けになっていた。屋敷はずっと無表情で、何が起こっているか僕に教えてくれない。


 僕はおそるおそる一歩踏み出した。


 ドォン


「うわっ」


 唐突に爆風が僕の体を巻き上げ、僕は後方に吹っ飛ばされた。慌てて肘を芝生に擦り付けながら体勢を整える。今のは一体何だ。さっきまであんなに凍てついた風が吹いていたのに、今は燃えるように熱い空気が……。


「えっ……」


 思わず驚愕の声を上げた。声が喉に引っかかって掠れる。


 目の前は、火の海だった。


 目に染みるオレンジ色が、唸り声を上げて暴れていた。今の今まで建物がそこにあったのに、もう全てが炎に包まれていたのだ。時々何かが割れる音や、倒壊する音も聞こえてくる。慄いていると、火の粉が飛んできて、僕の足元の芝生をジュッと焦がした。


 何で一瞬でこんな……。これは、一体どういうこと……。


 あの屋敷に、さっき広美さんが戻っていった。だから中には、まだ彼女がいるはずだ。いや、彼女だけじゃない。彼女の母親の秀美さん、そして桜のお母さん……。それに秀美さんは確か、『今日は旦那様、研究のお仕事お休みで家にいらっしゃるんですよ』と言っていた。つまり、桜のお父さんもいるかもしれないのだ。


 何で、何で屋敷が燃えて……。


 頭がうまく動かない。けれど、ぼーっとしてもいられないことは理解していた。僕は両足の太ももを思いっきり叩くと、屋敷に向かって駆け出した。遅い足なりに全速力で走った。


 目指すのは、さっき庭へ出てきたときに通ったバルコニーだ。僕が紅茶を飲んでいたあの部屋の中には確か、電話機があったはず。僕は携帯電話を持っていないので、少々危険だが屋敷に入ってそれを使い、消防署に連絡しなければ、と思ったのだ。電話機は燃えてしまっているかもしれないが、確かめるまで分からない。


 本来なら全部屋を回って、屋敷の中に残っている人はいないか確認し、逃げ遅れている人がいたら助けたいところなのだが、そうするにはあまりにも炎が大きすぎる。僕一人では無理だし、何よりかえって僕自身がお荷物になる気がした。


 喉がひゅーひゅー言っている。辺りの空気が灰色で、屋敷に近づくにつれどんどん黒くなっている。吸うたびに肺が汚くなっていくようだ。


 しばらく走り、僕は足を止めた。勝手に崩れ落ちそうになる膝を何とか抑えながら、首を回して周辺を見る。


 ……ここにあったバルコニーから僕は庭に出てきたはずだ。だけど、そのバルコニーが、ない。ないというか、上から落ちてきた巨大な木片に潰されている。これでは中に入れない。


 歯軋りをする。それなら玄関から入れば……と僕は再び走り出した。この庭は屋敷全体を囲うように広がっているようなので、庭から玄関に回り込めるはずだ。ただ、庭が広大すぎるため玄関の方向へ行くのには時間がかかった。いくら屋敷に沿って走ればいいだけとは言え、上から瓦礫が降ってくるというトラップを避けるためには、屋敷から距離を取って大回りしなければならない。それも時間がかかった要因の一つであった。


 玄関の付近にようやく近づいた僕は絶望した。ここも何かが倒壊した形跡があり、あんなに面積の広かった玄関にももう足を踏み入れられなくなっていた。


 肩で息をつきながら呆然としていた。その時、俯いた僕の瞳の片隅に、信じられない人影が見えた。


「……桜!?」


 慌てて駆け寄る。そう、目の前には桜が、髪を乱しながらぽろぽろと涙を流して倒れていたのだ。彼女の上には重そうな瓦礫が乗っており、セーラー服に包まれた細い体は今にも潰れてしまいそうだった。いつの間に帰っていたのだろう。桜は何か知っているのだろうか。


「のぼ……る……」


「どうしたの、何があったの」


 僕は言いながら、桜の上の瓦礫をどかそうと手をつく。炎に思い切り近づいたため、頬の水分が一瞬にして奪われた感覚がした。そのくせ額からは汗がじっとり垂れてくるから気持ち悪い。


「登、何……て……? 何言ってるか……全然、分かん……ない……」


 僕は頷いた。炎の声がうるさいのだから僕の言葉をわざわざ聞かせる必要はないし、桜に無理にしゃべらせる必要もない。僕がさっさと桜を救えばいいのだ。見た感じ、多分桜も、何が起きているのか分からない状態だろうし。


「待ってて、今助けるから」


 僕は言うと、桜を苦しめている炎の瓦礫にぐっと力を込めた。手が焦げる感じがしたが、僕の痛みより桜の苦しさの方が何倍も上だろう。だから、僕の手が燃えようが溶けようが、そんなこと構わない。


 すると、桜の口が再び動いた。小さい声だったが、僕にははっきりと聞こえた。


「登……助けて」


 桜の潤んだ瞳が僕に訴える。刹那にして闘志が漲った。


「絶対助ける」


 そう言い、桜の目を見つめ返した。瓦礫にかけている手に、全力で力を注ぎこむ。歯を食いしばり、何とかそれをどかそうとした。


 しかし、瓦礫は大きくて重く、僕の貧弱な筋肉では全く太刀打ちできなかった。一ミリも動かない。力を込めれば込めるほど、僕の少ない筋力が木片に吸い取られていくようだった。僕にもっと力があれば、桜を救えているのに。自分の筋力がないことにこれほど後悔したことは今までになかった。自分の無力さを痛感する。唇にまで垂れてきた汗が口の中に入り、苦味を与えてきた。


 桜は心配そうな顔つきでこちらを見ている。炎によって彫られた黒すぎる影が、より彼女の表情を際立たせる。きっと桜の目からは、僕が何もせずただ瓦礫に手を当てて突っ立っているように見えるだろう。


 ……ダメだ、このままでは桜を助けられない。本当に、恐ろしいほどびくともしないのだ。ちらりと奥の方に目を遣ると、別の瓦礫が上に積み重なっていて、桜の上に乗っているものを固定しているようだと分かった。力のある人ならそれごと一気にどかすことができるのだろうが、さすがに僕にはできない。


「瓦礫が向こうで引っかかってるみたいだ」


 僕は声を張って言った。桜は焦点が合っていないような目で、ゆっくりとまばたきをした。桜の限界がすぐそこまで来ているかもしてない。まずい、早くしないと。


「いったん向こう側に回ってみる。もし自分で抜けられそうだったら、僕を放って逃げていいから」


 それだけ大声で言うと、僕は急いで炎に背を向けて走り出した。庭は屋敷を囲んでいる構造をしているから、玄関を挟んで反対側にも行けるはず。息が苦しくなってきたが、僕は胸のあたりをぎゅっと押さえながら、全神経を足に集中させた。


 反対側にまわってみても、景色は向こう側と何も変わらなかった。濃いオレンジ色と煙の黒色の世界。季節も時間帯も何もかもを掻き消すような炎だ。


 僕は一つ息を吐くと、積み上がっていた燃え盛る木片に手をつけた。多分これをどかすことができれば、桜の上の瓦礫も多少どかしやすくはなるだろう。


 顔を顰める。動悸が激しくなってきて、ただでさえ少ない筋肉にまともに力が入らない。喉の通り道が細くなっている感覚が、どんどんひどくなっていく。視界の中に、靄みたいなものがかかってきた。


 すると目の端に、木片ではない小さな物体が見えた。何となく気になり、拾い上げてみる。


 それは、ライターだった。店でよく見かけるような、安っぽいけど普通のライター。煤で汚れているけど、新しそうに見える。


 今度は何かが足に触れた。突如として灯油のような嫌な臭いが鼻を掠めたため、目線を下げる。


 そこにあったのは、蓋が外れて倒れている赤色のポリタンクだった。口のところが濡れているのが分かる。


 これは……。


 突然、手からライターが滑り落ちた。体が動かしづらくなる。視界の隅の方に見えていた靄が、目の前の景色全体に渡るようになっていく。


 まずい、こんなところで意識を失ったら、桜を助けられない……。


 膝の力が抜け、僕は地面にしゃがみ込んだ。こんなことをしている場合じゃないのに、体が言うことを聞かない。目の前は完全に靄に覆われ、何も見えなくなってしまった。その靄は頭の中にまで侵食していった。


 芝生の僅かな冷たさが、こんなにも心地よい。


 桜、ごめん……。


 抗えなかった。僕は顔に冷たさを感じたまま、脳内に襲ってくる闇の言うことを聞いてしまった。


 桜……。


 ……。


 僕の記憶は、そこで止まっている。


           ・・・


 僕の話を聞いた桜は、生気のない顔をしていた。瞳が小刻みに振動して、頬は真っ青になっている。


「……あのあと、どうして僕が助かったのか、どういう風に僕の記憶がなくなったのかは分からない。僕が気づいた時には、いつの間にか中三になっていた。あの事件のことも、中二のときの記憶さえ、何もかも忘れて……」


 僕は言い、体の横で手をぐっと握りしめた。するとトワツカが桜に向かって歩みを進め、頭に巻かれている布のはみ出た部分を靡かせた。


「お前は、梶世登のこの話がよくできた作り話だと一笑に付すのか?」


「……あり得ない」


 桜は押し出すような声を出した。再び「あり得ないわ」と言うと、眉を吊り上げた顔を上げる。


「だって、登の話が正しいとしたら、一体誰が私の家族を殺したの? 誰だって言うのっ」


「……浅西桜。俺は、お前のこともう少し賢いと思っていたが、見当違いだったようだな」


 トワツカの言葉に、桜は「は……?」と露骨に顔を歪ませる。フン、と彼は鼻を鳴らした。


「明らかにお前が思ってたことと矛盾してるだろ。どうしてお前は梶世登が犯人だと思ったんだ? 梶世登の発言が真実ならば、自ずと犯人は導かれるだろうが。誰が嘘をついているのかなど、すぐ分かるはずだ」


 桜の瞳が、さっきよりも激しく振動し始めた。顔は限りなくひきつって、この短い時間で目の下に隈ができてしまったようにも見える。彼女の壊れた表情を見るのがつらい。


 トワツカは赤く刺すような瞳で桜を真正面から見つめる。


「いいか、俺は全て知っている。お前の家族を殺したのは……」


「違う!」


 桜の金切り声が上がった。ぽっかりとしたこの空間に響く。


「絶対違う、絶対違う! だってそんなことしても意味ないもん。やっぱり登が嘘ついてるんだ。私が今からやろうとしている復讐は、何も間違ってないのよ!」


 一息に言うと、彼女は術によって動かせない体を自由にしようと何度ももがいた。そして、僕をギロリと睨む。


「私の家を燃やしたのは、家族を殺したのは、間違いなく、のぼ……」


「あたしよ」


 突然声がした。影がかかっているような、大人びた声。大声というわけではなかったが、その声質は桜の喚きを止めるには充分だったようだ。


 声の方に顔を向けた桜の目が大きく見開かれた。


 階段の陰から一人の女性が出てきた。長い瑠璃色の髪と真っ青な瞳が強烈に僕の目を引いた。背が高く、すらっとしている。黒い衣装を身に纏っていて、一回見たら記憶から離れないような風貌だった。だから、過去にこの女性に会っていれば、覚えているだろう。しかしなぜだろうか、覚えていないから初めて会ったはずなのに、初めてではない感覚になった。


 彼女は固い表情のまま、ヒールを鳴らして桜の近くまでいくと、ゆっくりと口を開いた。


「違うのよ、桜。本当は、梶世登なんかじゃない。桜の家族を殺し、家に火をつけたのは、あたしよ。このあたし……デビル・レディよ」

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