第35話 雪の色

「お待たせしてすみません、春也兄さん。行きましょうか」

「…………」

「あ、あの……春也兄さん?」

「ああ! いや、すまん。行こうか」

「は、はい」


 白いワンピースの上に薄手のネイビーのジャケット、というシンプルながらオシャレな服装で現れたのは、従妹の雪村千冬だ。

 派手さのない服装ではあるが、それがかえって千冬の美人な顔立ちを引き立たせており……つい目を奪われてしまった。


 先日の秋華との一件でどうやら千冬の機嫌を損ねてしまったようで、お詫びになんでもするよと言ったら、こうしてデートをすることになった。

 思えば、こうして千冬と二人で出かけることはほとんどなかった。

 部活帰りにコンビニに寄り道をすることは時々あったものの、休みの日に二人きりでどこかへ行く、というのはあまり記憶にない。

 小春と3人、ならばそれなりにあるが。


「千冬は行きたいところとかあるか? 今日は千冬に合わせるよ」

「いいんですか? そうですね……」


 顎に当てて、うーん、と考え込む千冬。


「映画を見に行ってもいいですか? ちょうど今日公開の映画に見たいものがあったので」

「ああ、もちろん。じゃあ、目的地は映画館かな」

「はい。ショッピングモールに併設されているところでも上映しているそうなので、そこに行きましょうか」

「了解。じゃあ、バス停まで行こうか」

「…………」

「……千冬?」

「あっ、は、はい」


 一瞬、心ここにあらずといった様子だったが、何かあったのだろうか。

 体調不良などではなさそうだが、少し心配だ。


「大丈夫か?」

「は、はい。大丈夫です」


 そう言うと笑顔に戻る千冬。

 しかし、その笑顔には若干の違和感があるように見える。


 バス停に着くと、ちょうどバスがドアを開けるところだった。

 プシューッ、と音がしてから2、3人の乗客が降りる。

 人の流れが止まったところで、俺は千冬を連れ立ってバスへと乗り込んだ。


「空いててよかったな」

「そうですね」


 ここのバス停は始発駅からあまり離れていないため、乗ってきている人もそれほど多くはない。

 俺たちが座れる分の席も十分に空いていた。


 椅子に座って一息ついてから、窓の外に目を向ける。

 空は晴れてこそいれど、遠くに黒い雲が見えた。

 雨が降るかもしれないな、傘を持ってくればよかったかもしれない。


 ピー、とブザーが鳴り、バスが動き出す。


 会話は、ない。

 千冬はと言えば、思い詰めたような表情をして俯いている。

 両の拳で、ワンピースの裾をきゅっと掴んだまま動く様子もない。


 俺は、何も言えなかった。


 人が乗り降りする光景が、早送りのように流れていく。

 それから、俺は一度も千冬の方を見れなかったと思う。

 何を言えばいいか、どう声をかけていいのか、わからなかった。

 俺のせいなのかもしれないが、千冬がこんな顔をしていること自体が辛かった。

 映画館に着く頃には、笑顔が戻ってますように。

 なんてのは、他力本願すぎるかな。

 

(俺がもっとしっかりしていれば)


 千冬が機嫌を損ねることも、隣でこんな顔をすることもなかったんじゃないだろうか。

 結局、俺は手紙の件で何も変われていないのかもしれない。

 そんな後悔を抱きながら、空を流れる雲を目で追っていた。


 気づけば、バスはショッピングモールの前──以前秋華とも来たバス停だ──へと到着した。

 ブザーの音が響いてから、ドアが開く。

 内心を悟られないよう、平静を装いながら隣の千冬に声をかけた。


「さ、着いたよ」

「あ、そうですね。降りましょう」


 千冬を連れ立って、バスから降りる。

 黒い雲は、先程よりも近くに来ていた。



☆☆☆★★★☆☆☆



 映画館に着いても、千冬はまだ浮かない顔のままだった。

 思い詰めたような顔をしているところを見ると、やはり、また俺が何かしてしまったのかもしれない……と不安になる。


 でも、俺が不安そうな表情をしていては千冬は余計に落ち込んでしまうかもしれない。

 感情が顔に出ないように、深呼吸をしてから発券機の前に立つ。

 千冬が見たいと言っていた映画は、今日公開の人気の映画ではあったが……問題なく40分ほど後の回のチケットが無事取れた。

 かなり後ろの方の席だが、スクリーンを見上げることになる最前列よりはいい席だろう。


 発券機を操作して2枚のチケットを受け取ると、無くしたり折り曲げたりしないよう財布にしまった。

 あらかじめ映画ということを聞いていれば、チケットホルダーを持って来れたかもしれない。

 この辺りは先に予定を相談しておくべきだったかな、とひとり反省をする。

 上映時間まではまだある。

 今は昼前、飲み物やポップコーンを用意すべきだろうか。


「飲み物買ってくるよ。千冬は何がいい?」

「…………」

「千冬?」

「えっ? あ、はい」

「飲み物、何がいい?」

「あ、すみません……。では、ジンジャーエールでお願いします」

「了解」


 売店の方に目をやると、幸いにも列はそこまで長くなさそうだった。


「じゃあ、ちょっと買ってくるよ」


 列に並ぼうと体を向けたところで、きゅ、と千冬に袖を掴まれる。

 何かあったのだろうか。


「……千冬?」

「……あの、春也兄さん」

「ん、どうした?」


 千冬の方を見ると、その表情は非常に神妙な面持ちだった。

 どうかしたのか、と口を開く前に千冬が言葉を続ける。


「私……実は、春也兄さんに謝らなきゃいけないことがあるんです」

「千冬が、俺に?」

「はい」


 千冬の顔つきが、より一層硬くなる。

 ぎゅ、と音が聞こえてきそうなぐらい、両方の拳が強く握られている。


「実は、私……知ってたんです」

「知ってたって……」

「デートの噂の、真相です」

「そ、そうだったのか……。でも、それがどうして俺に謝ることになるんだ?」

「私、全部知ってたのに……。春也兄さんに全部説明させて、機嫌が悪くなったフリをして、優しさにつけ込んで、デートの約束までさせてっ……」


 段々早くなる口調に呼応するように、千冬の目の端からポロポロと涙が零れ落ちる。


「だから、今日だって、ほんとは来る必要がなかったんです。春也兄さんはお詫びをする必要なんてないんですっ」

「……そうか」

「騙しちゃってごめんなさい、私なんかとデートなんかさせて」

「……千冬」

「やっぱり帰りましょう、私なんかのために春也兄さんの貴重な時間を使わせるなんて」

「千冬!」

「っ……」


 俺が強く名前を呼ぶと、ビク、と千冬の小さな肩が震える。


「……話してくれてありがとう。嘘ついてたのは、確かに悪いことだな」

「はい、だから」

「でも」


 涙で潤んでしまっている千冬の目を見て、俺は言葉を続ける。


「俺は千冬と二人で出かけるのは嫌じゃないし、むしろ楽しみにしていたぐらいなんだ」

「……はい」

「だから、そんなこと言わないでくれ」

「……はい」


 ずず、と鼻を啜る音が聞こえる。

 カバンからポケットティッシュを取り出し、千冬に手渡した。


「……それにさ」

「……?」

「千冬は俺の大事な家族なんだ。だから、千冬のこと悪く言うのは……やめてくれ」

「え、千冬は私……ですけど……?」

「本人であっても、だよ。それに、部長命令。忘れたのか?」

「あ……」

「うん。千冬は自分に自信持ってくれ。どんな形であれ、千冬が俺と一緒にいたいって思ってくれて嬉しいからさ」

「…………はい」

「だから、映画。一緒に見ようよ」

「いいん、ですか……?」


 千冬は俯いていた顔をあげる。目元はまだ赤いままだ。


「もちろん。せっかくチケット取れたんだし、さ」

「……はいっ」


 ぱあ、と花が咲いたような笑顔になる千冬。

 それは、今日一日不安そうにしていた千冬が……この日初めて見せた、心からの笑顔だった。


「にしても、千冬の機嫌を損ねたわけじゃなくて安心したよ。本当によかった」

「それは……その……すみません」

「謝らなくていいって。千冬があんなに演技力高かったなんてな、3年になったら学祭の演劇出てみたらどうだ?」

「ええっ? 私なんかが人前に立つなんて……」

「部長命令」

「あっ、その……すみません」

「謝る必要もないぞ。部長命令って言われたら、次からは元気よく『はい』って返事してくれ」

「はいっ!」

「そうそう」


 先程とは打って変わって、他愛のない話が続く。

 やはり、千冬は笑顔が一番可愛い。

 昨日の機嫌を損ねた表情──あれはフリだったが──も、今日の浮かない顔、どちらも千冬には似合わない。

 千冬が笑顔でいられるように、俺がしっかりしないと。

 

「ところで、機嫌を損ねたフリしてデートの約束を取り付ける……なんて、千冬らしくないな。そこまでして映画を見に行きたかったのか?」

「あ、いえ……実は広瀬先輩が提案してくれたんです。

「広瀬が? そりゃまたなんで」

「『噂を利用して先輩とデート行きなよ!』なんて言い出しまして、つい流されたと言いますか……」

「あいつ、今度会ったら説教してやろうか……。千冬の性格から考えて、嘘なんてついたら後から千冬が苦しむってすぐわかるだろうが」

「……ふふっ」

「ん、どうかしたか?」

「いえ、なんでも」

「お、おう……」


 笑い声を漏らす千冬の顔は、楽しそう、というより嬉しそうであった。

 何がお気に召したのかはわからないが、もし俺の発言で笑ってくれていたのなら幸いだ。


 隣で微笑む千冬を見ていると、ちょうど映画館のアナウンスが聞こえてきた。

 どうやら俺たちが見る映画の入場案内が始まったようだ。


 行こうか、なんて言葉がなくても、自然と二人で歩き出していた。

 その足取りはとても軽くて、なんだか羽が生えたような心地だった。

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