第17話 二人寄らば?
「ハル兄、おつかれさまっス」
放課後、俺は高校の学習室で夏音と向かい合っていた。
学習室、というと格式高く聞こえるが、実際はただの空き教室だ。
会話も飲食も度を過ぎなければ問題なく、比較的自由に勉強ができる。
今は大会も終わり部活動停止期間。
先日引退した俺はもちろん、夏音の女子バスケ部もしばらくは休みだ。
「じゃあ、早速始めようか。どの教科からがいいとかある?」
「あ、それじゃ……数学以外ならなんでも……」
そう言う夏音の顔はバツが悪そう、というか叱られるのを待つ子供のような顔をしていた。
もしかして……。
「……数学、苦手か?」
「う」
ギク、という音が聞こえるんじゃないかというぐらい固まる夏音。
もはや顔に「図星です」と書いてある。
「じゃあ数学からやろう。後に嫌な教科残すと余計辛いしな」
「えー! ハル兄ひどいっス!」
「ひどくない。いずれやらなきゃなら早い方がいいだろ?」
「それは……そうっスけど……」
「とりあえず夏音が今どれぐらいできてるか見たいかな。問題集の……そうだな、この問題と、この問題と……」
基礎的なことがわかっていれば解ける問題、10問ほどを指し示す。
1年生の最初の分野、非常に簡単な内容ではあるし10問と言えど30分はかからないだろう。
「とりあえずこれ、解いてみて。わからないところがあったら最後にまとめて教えるから、これ以上解けないなと思ったら声かけてくれ」
「……はいっス」
さて、その隙に俺も自分の勉強を始めるか。
ベクトルのあたりがちょっと不安だな……、復習しておくか。
問題集を開き、解き始める。
そうこうしてる間に、カリカリ、とシャーペンで文字を書く音が聞こえる。
……が、すぐにその音は聞こえなくなり……。
代わりに、「あれ?」とか、「うーん……」とか、そんな声が聞こえてくる。
……早くない? まだ1分ちょいしか経ってないけど……。
いや、たまたまど忘れしただけかもしれない。
これ以上解けないなと思ったら声をかけてくれ、と先に伝えてあるし、もう少し見守ろう。
うんうん唸る夏音をよそに、俺は自分の問題を解き進める。
(うん、ちゃんと頭に入ってるな。これなら夏音に教えながらでもなんとかなりそうだ)
日頃の予習復習が大事であることを、改めて実感した。
ある程度問題を解き終わり、解答を確認しているといつの間にか30分ほどが経っていた。
(もうそんなに経ったか。さて、夏音の様子は──)
夏音の方を見ると、ちょうど「解けた!」と小さいながら元気な声が聞こえてきた。
うん、ちょうど30分ぐらいか。こちらの見立てど「よし、2問目行くぞー!」
……見立てどお……え?
「待て。2問目?」
「なんスかハル兄、今1問目解き終わったとこっス」
うーむ……解くペースは人それぞれとはいえ、これは……。
「……遅くない?」
しまった、つい本音が。
ガーン、と聞こえてきそうなぐらい夏音は落ち込んでいた。
「そんなあ……。めっちゃがんばったのに……」
机に突っ伏してシクシクと泣き始める夏音。
いや、泣く前に問題解いてくれ。
「とりあえず1問目採点しちゃうよ。一旦ノート貸して」
「……はい」
夏音からノートを受け取ると、手元にある問題集の解答と照らし合わせる。
ノートを見ると、夏音の可愛らしい小さな丸文字が目に入る。
こいつ、かわいい字書くな……。
いかんいかん、今は採点だ。
さて、肝心の答案は──。
「うん、めちゃくちゃ間違ってる」
「そ、そんな……」
この世の終わりみたいな顔になる夏音。
まさかここまでとは……、想像以上だった。
「……夏音、予習と復習は毎日してるって言ってなかったか?」
「あー、いえー、そんなこと言いましたっけー、えへへ……」
「可愛く誤魔化しても無駄だぞ。……やってないんだな?」
「……かわっ、あっ、じゃなくて、その……やってないです……」
「そんなことだろうと思ったよ。……わかった。じゃあ、1からやっていくか」
「え、怒らないんスか……?」
「怒って問題が解けるようになるならいくらでも怒るけどな」
実際問題怒ってもいいことは何もない。
脳が萎縮するだけだし、間違えないようにしなきゃ! と余計なプレッシャーがかかるだけだろう。
こっちもただ諭すよりエネルギーを使う訳だし、悪いことだらけだ。
「……じゃあ1から教えるか。この問題からだな……えっと」
「あ、あの、ハル兄」
「ん? どうした」
「その……えっと、向かい合わせだと問題見づらくないかなって……」
「ん? ああ……」
言われてみればそうかもしれない。
だが解答は俺の手元にある訳だし、口頭で説明するから別段困る訳でもないのだが……。
「その、お隣……行ってもいいっスか?」
おっと、まさかの提案だな。
幸いにも空いてる座席はたくさんあった。
周りにも疎らに生徒は残っているが、大体は数人グループで座りやすいように机を動かしたりしているので、俺たちが今机の配置を変えても特に何も言われることはないだろう。
「ああ、いいぞ」
「えへへ、ありがとうっス。じゃあ移動しまスね」
ガタガタと机を動かし、俺が座ってる机とくっつけると、夏音はぽすん、と椅子に腰掛けた。
おそらく制汗剤の匂いであろう、ミント系の爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
(いい匂いするな……)
ついつい、そんな思考が頭を過った。だから────。
「は、ハル兄……あの……ボクの顔になんかついてるっスか……?」
顔を真っ赤にした夏音にそう聞かれるまで、俺は夏音を見つめ続けていたことに自分で一切気づけなかった。
「あ、ああ! いや! 何もついてないよ、ごめん!」
「そ、そ、そっスか! な、ならよかったっス……」
えへへ、とはにかみながら頬をぽりぽりと掻く夏音。
……き、気まずい……。
何となく、お互いに言葉を発せない状況になってしまった。
いや、これじゃ勉強が進まない。なんとかしなければ。
そう思うのだが、顔を上げて目の前でもじもじと指を絡めている妹分を見るたびに何も言えなくなってしまう。
(すまん夏音、俺が愚かなばっかりに────)
いくらなんでも年頃の女の子を男子高校生があんな風に見つめてはダメだろう。
不快にさせてしまったかもしれない。
「あ、あの夏音……」
「あ、あのハル兄……」
被った。最悪だ。
「夏音、どうした? そっちからでいいぞ」
「い、いや! ハル兄がお先でいいっスよ! 大した内容じゃないでスし……」
「あ、いや、俺のも大した内容じゃ……」
「あ、そうなんすね……」
再び沈黙。気まずすぎる……。
なんとか、なんとかしなければ……。
あのさ、ともう一度口を開こうとした時、ふと帰り支度をしていた他のグループの中から、一人だけこちらに来る人影が見えた。
その人は、夏音のそばまで近寄り……。
「あれ、なっちじゃん! 勉強?」
「あ、ま、
「おつかれー。あれ、そっちは……佐倉?」
奥で勉強していたグループの一人、真緒先輩と呼ばれた少女に俺は見覚えがあった。
スラリと高い身長──170センチは優に超えていそうだ──に、程よく筋肉のついた均整の取れた身体。
肩まで伸びるショートカットの黒髪に編み込みが映える……夏音とは違う意味で『快活』という言葉が似合いそうな少女だ。
真緒、真緒……ああ。
「……
「そうだよ、
そうだ、通りで見覚えがあると思った。
なんのことはない。彼女は俺のクラスメイト……
2年に上がってからずっと同じクラスとはいえ、接点がないから思い出すのに時間がかかってしまった。
「いや、忘れてないよ。花折は……ああ、そうか、女バスか」
前半は嘘だ。今の今まで忘れていた。
とはいえ一度思い出せば芋づる式に色んな記憶が掘り起こされる。
今年に入ってからも部長会議で顔は合わせているはずだし、夏樹も以前に女子バスケ部の部長は花折だという話をしていた気がする。
同じくバスケ部に所属している夏音と接点があるのも納得だ。
「そうそう。なんだ、ちゃんと覚えてるんじゃん」
「……まあな。花折もテスト勉強か?」
「まあそんなところ。それより……」
そう言うと、花折は夏音の顔をじっと覗き込む。
そしてニヤッと笑い……。
「なっち、これは今度の遠征で話聞かせてもらわなきゃだね?」
「え、いえ、あの、なんれすか」
夏音、口回ってないぞ。
「あはは! かわいいね、なっちは。……って、ごめんごめん。お邪魔しちゃったね。それじゃ!」
そう言ってひらひらと手を振ると、花折は帰ってしまった。
「それにしてもなっちと佐倉がねえ……これは海野にちゃんと聞いとかないと」
なんて独り言がドア越しに聞こえたのは気のせいかな。
うん、気のせいということにしておこう。
「……行っちゃったっスね」
「……ああ、そうだな」
「あー、でも学習室だとこうして知り合いに出くわす確率も高いっスよね……。みんながみんな真緒先輩みたいにすぐ帰ってくれる訳でもなさそうでスし」
「そうだな……。場所、変えるか? 勉強に集中できて邪魔も入らない場所があればいいんだが……」
うーん、と少し考え込む。
正直この辺で勉強ができる場所といえば今いる学習室か先日向中野と行った喫茶店、あるいは少し離れたところにあるショッピングモールのフードコートぐらいか。
一番適しているのはもちろん学習室だが、先程のように知り合いに出くわす確率が最も高い。
もちろん勉強を主目的とした人間が集まっているので静かに勉強はできるが、人が減ってくるとここぞとばかりに大声で喋り出す生徒がいたりするのもネックだ。
だが、喫茶店とフードコートも賑やかだし集中できるかというと微妙なところだろう。
それに、知り合いと出くわすという難点が必ずしも解消される訳ではないし。
「うーん、そうっスねえ……。あっ!」
妙案がある、と言わんばかりに顔を上げる夏音。
アニメや漫画なら間違いなく顔の上あたりに電球が浮かんでいたことだろう。
「どこかいい場所が?」
「うちはどうっスか? ハル兄なら何回も来てまスし、全然アリかと!」
「夏音の家か……」
確かに中学の頃から何度も遊びに行っているし、俺がお邪魔してもなんら問題ないだろう。しかし……。
「……俺が行くと、なぜかおばさんにめちゃくちゃ可愛がられるんだよな……」
「……そうなんスね……うちのママそういうところあるからなあ」
最初はそうでもなかったのだが、中3になるぐらいから急に声をかけられるようになったのだ。
最も、声をかけられる内容のほとんどが夏音についてだったが……。
大体は「夏音ちゃんとうまくやってる?」「どこまでいったの?」とかだし、その度に夏音とは何もないですよ、と説明しているのだがものすごい怪訝そうな顔をされる。どういうことなんだろう。
「……うーん、そうなると本当に場所がないっスね。我慢してここでやるしかないのかなあ」
「……ひとつだけある」
「えっ。ほんとっスか? どこっス?」
「…………俺の
「ふぇ」
そう奇声……鳴き声? をあげると夏音は再び固まってしまった。
なんでだよ。海野家が厳しいってなったら佐倉家も普通に案として出すだろ。
嫌だとかそういう話は一旦さておいてさ。
「夏音? ……おーい、夏音?」
完全に停止していた。
勉強を教えることがこんなにも大変だったとは。
……主に勉強よりも本人に付随する様々な事象が原因だが。
まだ初日なんだけどなあ。
早くもちょっとだけ、ほんの少しだけバイトの頼みを受けたことを後悔していた。
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