第36話 初夏の雪

 係員の誘導に沿ってシアターの中に入場すると。すでにかなりのお客さんで賑わっていた。

 飲み物とポップコーンを買ってきたのだが、それでも上映時間まではあと20分ほど。

 まだまだ余裕はある。


「……千冬、お手洗いとかは大丈夫か?」

「はい。先程済ませてきましたので」

「そうか、ならよかった」


 そんな会話をしながら、チケットに印字された座席に座る。

 最後列ではあるが、スクリーンの真正面。

 距離が離れていることがネックだが、それなりに見やすい席ではありそうだ。


 席に着いて飲み物をホルダーに入れると、手元のチケットに目を落とす。

 印字されたタイトルは、巷で人気を博している映画監督が制作したアニメ作品だ。


 公開前からテレビや街頭スクリーンなどでかなりCMを見かけていたし、俺としても見てみたい作品ではあった。

 ただ、正直に言うと千冬が見たいと言わなければ俺は見に来ることはなかっただろう。


(千冬に感謝、だな────)


 広瀬に余計な入れ知恵をされたせいで俺を騙すことになってしまった、と朝から浮かない顔をしていた千冬だったが……真実を明かしてからは、とても楽しそうだ。

 今も、微笑みを湛えながら飲み物──先程買ってきたジンジャーエールだ──を口にしている。


 それにしても、広瀬の作戦とやらを利用してしまうほどにこの映画を楽しみにしていたとは。

 映画を見るぐらいなら、話してくれればいつでも一緒に行ったのにな。

 そこで頼ってもらえなかったのは、従兄あにとしては少し寂しいが……。

 まあ、結果的にはこうして一緒に観に来れたのだ。それは瑣末な問題である。


 そんなことを考えていると、隣の千冬から鼻歌が聞こえてくる。

 よく聞けば、最近話題のバンドが歌っているこの映画の主題歌だった。

 曲自体は映画公開に先立って解禁されており、最近はどこのお店に行っても有線放送で流れているほどの流行歌だ。


「千冬、楽しそうだな」

「あ、すみません、うるさかったでしょうか……」

「ああ、いや、そんなことはないよ。鼻歌を歌うほど、この映画のことが楽しみなんだなって」


 俺の言葉に、きょとんとした顔で首を傾げる千冬。


「あれ、この映画観たいって言ってたよな……?」

「え、あ、ああ! そうですそうです! とても観たかったです!」

「だ、だよな……? 観に来れてよかったよ、本当」

「ええ、そうですね……。春也兄さんと来れて、よかったです」

「そう言ってもらえると嬉しいよ」

「あ、そろそろ始まりますよ」

「おう、そうだな」


 スクリーンに目線を移すと。いつもの頭にカメラをつけた人間がチェイスされる映像がはじまっていた。

 違法な映像の撮影やアップロードを禁じていることの啓蒙を目的としている映像だが、こうもかっこいいシーンがあると逆効果なのではないかなと思ったりする。

 まあ、こうして世間一般に法律そのものが認知されている時点で取り締まりとしては効果があるのかもしれないが。俺は専門家でもないしな。


 パトランプの男がカメラ頭の男を捕まえたシーンの後に法律の説明が入り、映像が切り替わる。

 いよいよ映画が始まる。

 期待と興奮を胸に、俺はポップコーンを一口頬張った。



☆☆☆★★★☆☆☆



 設定自体はよくあるSF映画、という印象だった。

 部活に打ち込む男子高校生の主人公と、それを支える幼馴染の少女。


 ある日突然起こった怪奇現象に巻き込まれて、段々と数奇な運命を辿る……というストーリーだ。

 黒い髪を結い上げてポニーテールにしているヒロインは、どことなく千冬に似ている。


 しかし、とにかく映像が綺麗だった。

 写真をそのまま取り込んだかのような景色。

 毛穴まで見えるんじゃないか──もちろんアニメのキャラクターだから、そんなものあるわけない──というぐらい、細部まで書き込まれた人物たち。


 気づけば俺は、二人の行く末を息を呑んで見守っていた。


『ねえ、私ってあなたにとって何? 妹でしかないの?』


 中盤、ヒロインが鈍感な主人公に向かって感情を吐露するシーン。

 どこかで聞いたようなセリフに、思わず心臓が大きく跳ねた。


 それと同時に、肘掛けに置いたままだった右手に妙な熱を感じる。

 この時期の映画館で暖房がついているわけがないし、そもそもまるで直接温かいものが触れているような感覚だった。


 隣の席の千冬に気取られないよう、顔は前を向いたまま恐る恐る目だけを向ける、

 すると。


(あ、あの、千冬さん……!?)


 先程から感じていた熱は……何のことはない、千冬の左手だった。

 肘掛けと勘違いしたのか、固唾を呑んだ表情でスクリーンを見つめながら俺の手をぎゅう、と握りしめている。


 もうすぐラストシーン、二人の恋路もクライマックス……という大事なシーンだが、右手に感じる自分のものではない体温のせいで全くそれどころではない。


 どうにかして手を引っ込めたいところだが、それでは千冬が握っているものが肘掛けではなく俺の手だと気付かれてしまう。


 なんとかならないものか……。


 隣の千冬をもう一度見る。


(────あ)


 目が、合った。

 目が、合ってしまった。


 ということは。

 ボン、と音が聞こえて──もちろん人体からそんな音はしないが──千冬はショートしてしまった。

 暗がりでも見えるぐらいに肌が赤くなってしまっている。


(ごめん、千冬……)


 気づけば、映画はエンドロールだった。


 全然集中できなかったと、ただただ嘆くばかりである。

 ただ……こんな出来事があっても面白いと感じられるぐらいにはこの映画が名作であることを知れたのが、唯一の収穫かもしれない。

 


☆☆☆★★★☆☆☆



「あ、あの、春也兄さん本当にすみません」


 エンドロールが流れ終わり、館内の灯りが点くと……隣にいた千冬が信号機のように青くなったり赤くなったりと目まぐるしく顔色を入れ替えながら、しどろもどろで謝ってくる。


「いや、こちらこそすまん……」

「触った瞬間に春也兄さんの手だとは気づいたのですが、ついそのまま握ってしまい……」

「え、気づいてたの? 肘掛けと間違えたんじゃなくて?」

「あっ」

「えっ」

「間違えました。肘掛けだと思ったんです」

「そ、そうか」


 いや、今更取り繕っても遅いと思いますが……?

 俺の手だって知ってて握ったの? それはそれで問題では?


「でも、嫌じゃなかったか?」

「い、いえ、あの、私は気にしないですし、春也兄さんの手なら……それよりも、私なんかの手で触ってしまって、ご気分を害されてしまっていたらすみません……」

「……部長命令」

「あ、すみま……じゃなくて、はい!」

「うむ、よろしい。それよりも、映画は楽しめたか?」


 俺が一番気になっていたことを、千冬に聞いてみる。

 千冬の性格を考えると、こうしたハプニングがあった場合それを気にしてしまって集中できなかったのではないか……と思ってしまうのだ。


「はい、それはもちろん」

「そっか、それはよかった。最後の方とか見逃さなかったか? 俺はだいぶ」

「あ、そうですよね、すみま」

「……部長」

「はい!」


 被せ気味に返事をされる。

 うん、いい反応だけど、そっちを徹底する前にネガティブ思考をやめようか。


「……落ち着いたらまた観に来ようか。最後のを抜きにしても、もう一回見たいしな」

「は、春也兄さん、それって」

「次は、小春も一緒にだな」

「……はあ」

「えっ、ごめん」


 露骨にため息をつかれてしまった。

 やはり、同じ映画を2回観に来るという発想がよくなかっただろうか。

 それとも、友達と見たかったとか?

 ああいや、俺と一緒だとまた最後を見逃したりするかもしれないから嫌だということだろうか。そうだったら本当に申し訳ないな。


「……いえ、なんでもありません。気にしないでください」

「あ、ああ……」

「春也兄さんと来るのが嫌というわけじゃないですよ、むしろ私からまたお願いしたいぐらいです」

「そうか、それならいいけど」

「ええ。────次も」


 二人で来ましょうね、なんて微笑む千冬の顔は、今までに見たことない表情で。

 これも広瀬の入れ知恵だろうか、なんてよくないことを考えてしまう。


 ショッピンングモールに入っているカフェで感想を語らっている間も────あの笑顔は脳裏に焼き付いて、消えることはなかった。



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