第37話 夏の訪れ

『ハル兄! 今度バイト代を渡したいんですけど、空いてる日ありますか?』


 そんなメッセージが飛んできたのは、今朝のことだった。

 今日は昼休みなら空いてるよ、と連絡してから、家を出る。


(バイト代、か────)


 今の今まですっかり忘れていたが、そういえば夏樹のやつが夏音から渡させるとか言ってたっけ。

 個人的には夏音と一緒に楽しく勉強させてもらった時点で、もうバイト代は受け取ったに等しいんだけどな。

 それに、夏音の「いい点を取ったらご褒美にデートしてほしい」なんて言葉も覚えている。

 俺なんかとデートすることがご褒美でいいのかな、と思いつつ夏音の希望とあらば応えないわけにもいかない。


 さて、一体何がバイト代として渡されるのだろうか。断る腹積りではあるが……それはそれとして、昼休みが楽しみだ。

 そう思いながら教室に入り、俺の隣の席に突っ伏している夏樹にわざと大きめの挨拶をする。

 眠たげな夏樹から抗議の声が飛んできたが、気にせず鞄を机に置いた。



☆☆☆★★★☆☆☆



「ハル兄、お待たせっス!」

「おつかれ、夏音。全然待ってないよ」

「本当っスか? ハル兄は優しいっスね」


 昼休みに入ってすぐ、パタパタと足音を立てながら夏音は教室にやってきた。

 春からずっとこの教室に入り浸っている──主に、だらしない夏樹のせいで──ので、1年である夏音が3年の教室に元気よく入ってきても、気にするような人間はいなかった。

 とはいえ────「バイト代」のやり取りや、そもそも話をしている相手がいつもの夏樹ではなく俺であるということを鑑みれば、場所を変えた方が良さそうだ。


「ここじゃなんだし、ちょっとついてきてくれ」

「えっ、もしかして人気ひとけのない場所に連れ込んでよからぬことを……?」

「……何言ってんだ。教室でアレのやり取りしたら怪しまれるかもしれないだろ?」

「あ、アレって……もしかして……!? は、ハル兄のえっち……!」

「おい、夏音……」


 夏音の元気な声量のせいで、クラスの何人かが怪訝そうな目でこちらを見ている。

 完全に怪しまれてしまった。終わった……。


「とりあえず、こっち来い」

「ふ、ふぇ……」


 夏音には申し訳ないが、ちょっと強引に腕を引く。

 これ以上妙な発言をされて勘違いを広げられても、双方にとって良くないだろう。

 夏音を引っ張ったまま教室を離れて、階段の踊り場へとやって来た。

 ここならば人の往来もほとんどない。

 落ち着いて話が出来るだろう。


「夏音、さっきはごめんな。腕掴んだりして」

「あ、い、いえ……。ハル兄になら、その、何をされても……あ、でも初めてはやっぱりお家の方が……」


 顔を赤くしながら、恥ずかしそうにもにょもにょと喋る夏音。


「……バイト代の話、するんだよな?」

「えっ?」

「えっ?」

「……あの」

「……うん?」

「忘れてください」


 無理があると思いますけど。

 なんか先日もこんなやり取りをした気がする。

 デジャヴ、というやつだろうか。


「ちなみに、何と勘違いしたんだ?」

「へっ……そ、そんなの……学校で言えるわけないじゃないっスか!?」

「そ、そっか……ごめん……」

「あー、いえ、ハル兄が謝ることじゃ……」


 勘違いをしたことが恥ずかしいのか、顔を掌で覆う夏音。

 既に掌では隠しきれないぐらいに──耳どころか首まで──赤くなっているが、これは言わないであげた方がよさそうだ。

 今度は首までじゃ済まないかもしれないし。


 お互いに落ち着くためにも、コホンとわざと大きめに咳払いをする。


「と、とりあえず……バイト代の話、だったよな」

「そ、そうっス。そうでございます」


 夏音はまだ落ち着けてなさそうだった。

 しかし、あまりのんびりしていても昼休みがなくなってしまう。

 気にせず話を続けることにした。


「バイト代だけど、いらないよ。俺はお礼をしてもらいたくて夏音に勉強を教えたわけじゃないし」


 正直に胸の内を伝える。

 夏樹との会話では「バイト代は出るんだろうな」なんて口にしたが……あれはもちろん冗談だ。

 夏音の力になりたいから引き受けたのであって、お礼に釣られたつもりは全くない。

 お金や物で有れば尚更だ。

 夏音たちの負担にもなってしまうだろうし、ない方がいいだろう。


 ……と思ったのだが。


「いらないんすか……。せっかく用意したのに……」


 当の夏音は、めちゃくちゃ凹んでいた。


「えっ、あ、いや、夏音の負担になるかなと思って……」

「ハル兄は気にしないでほしいっス、これはお礼なんですから」

「でも」

「ボクが渡したいから渡すんでス、いいからこれ」


 俺を制するように語気を強くして言い切った夏音は、カバンからゴソゴソとクリアファイルを取り出す。

 中に入っていたのは────。


「……水族館のチケット?」


 渡されたものは、水族館──つい先日この近くに出来たばかりの新しい水族館だ──の入場チケットだった。

 しかも、ペアチケット。


「そうでス。今お客さんすごい多いらしくて、入場制限かけてるらしいっス」

「まあ、こないだ出来たばっかりだしな」

「はい、そのチケットを、なんと2枚も! すごくないっスか!?」

「ああ、確かに。よく取れたな」

「えへへ、実は館長さんがボクの親戚なんでス。欲しいって言ったらくれました」

「……それは、もしかして俺のために?」

「へ!? ……も、もちろんそうでス。ハル兄に差し上げるためでスよ」

「そうか……」


 夏音が、俺のために。

 そう思うと、胸が熱くなった。

 それと同時に、そこまでしてくれたというのに無碍に断ってしまった自分が恥ずかしくなった。

 親戚だという館長さんに何と言ってお願いしたのかはわからないが、そう簡単にチケットは用意できないはずだろう。

 相当強くお願いしてくれたに違いない。

 そうまでして用意してくれたお礼の品を、受け取らないわけにはいかなかった。

 

「ありがとな、夏音。さっきは貰わないなんて言ってごめん。前言を翻すようで申し訳ないけど、しっかり受け取らせてもらうよ。」

「いえいえ。気にしないでください。大事に使ってくださいっス」

「じゃあ、いつ行く?」

「……へ?」


 言ってることがわからない、と言わんばかりに目を見開く夏音。

 あれ、俺おかしなこと言ったか?


「え、いや、だからいつ行く? って」

「へ、それは、ボクと行くってことでスか」

「? 他に誰がいるんだよ」


 テストが終わったらご褒美にデートしてほしい、とも言っていたし、せっかくペアでくれたのだからここは夏音と行くべきだろう。

 それに……館長さんに直接お願いまでして手に入れてくれたチケットなのに、その本人が行けないというのもどうにも納得がいかない。


「え、ええ……!? いいんスか!? ボクとで!?」


 今度は驚愕の色に染まる夏音の表情。

 本当に感情の変化がわかりやすいというか、表情筋が豊かというか。


「ああ。それとも、嫌だったか?」

「い、いえ! 嫌どころかむしろ……じゃなくて、ハル兄って彼女が出来たんじゃないんスか? 1年生とデートしてるところを見かけた人がいるって……」

「ああ、それか……。相手は秋華だぞ」

「え? 秋華ちゃんと付き合ってるんスか?」

「だから付き合ってないって。それなんだがな……」


 もう何度目かわからないが事の経緯を説明する。

 最初は不安そうに聞いていたが、段々と顔色が明るくなった。


「じゃ、じゃあハル兄に彼女はいないんスね!?」

「そうだけど……」


 なんでそれを嬉しそうに言うんだ。

 ちょっと悲しいぞ、俺は。


「えへへ、じゃあ一緒に行っていいんスね」

「ああ、もちろん。夏音だって、ご褒美にデートしてほしいって言ってただろ?」

「……へ? そんなこと言いましたっけ?」


 首を傾げる夏音。

 本当に心当たりが無さそうな顔だった。


 あれ、おかしいな。確かに言われたはずだ。

 そう思って記憶を辿ると……。


(ああ、そうか)


「そういえば、あの時の夏音ってかなり寝ぼけてたな」

「へ、な、なんすかそれ」

「そりゃ覚えてないか。最初に勉強会の日程を相談した時さ……最後の方、すごい眠そうにしてたじゃん」

「うーん……? ……あ、そういえば……?」


 眉を顰める夏音。

 段々と思い出してきてはいるようだ。


「でも、デ、デートとか言った記憶はないっス。ないっスからね!?」

「そっか。じゃあ、二人で行くのやめるか?」

「へ!? な、なんでですか!?」

「え……だって『夏音がご褒美にデートしてほしい』って言ってたから、二人で行こうかなって思ってたわけだし……」

「だからと言ってやめる必要はないっスよね!?」


 涙目になった夏音に、ブンブンと肩を掴まれて揺らされる。

 脳が揺れるッ……。


「嘘、嘘だから! ストップ!」

「……本当っスか?」

「本当だよ、本当。一緒に行こう」

「……はいっ、もちろんっス!」


 冗談が過ぎたな、と反省する時間も無く……夏音は瞬く間に太陽のような笑顔に戻った。

 ここ最近は『妹』たちに振り回されてばかりだな。

 思わず笑みが溢れてしまう。


 ただ、それが苦笑いではなく、心の底から漏れ出た嬉しさに由来するものだというのは────他ならぬ俺自身が、一番知っていた。

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