第38話 海の音はすぐそこに

「すごい混んでるな……」

「そうっスね、聞いてた以上っス……」


 週末、俺は夏音と水族館に来ていた。

 中間テストの前に夏音の家庭教師を務めたバイト代として、夏音にペアチケットをもらったのだ。

 このペアチケットは夏音がここの館長さんにお願いして用意してもらったもの、そして夏音自身が試験が終わった後に俺と出かけることを希望していた──本人は寝ぼけていて覚えていなかったが──ということもあり、こうして二人で水族館に来ているのだ。


 先日営業開始したばかり、しかもこの地域にはこういった娯楽施設が少ないということもあり、たくさんの家族連れで賑わっていた。

 入場の時点でかなりの列が伸びており、俺と夏音も並び始めてから既に15分は経っているが、未だに建物の入口が見えない。


「まだまだかかりそうだな……。夏音、足とかは大丈夫か? 何かあったら無理しないですぐに言ってくれ」

「今日は動きやすい格好で来ましたし、大丈夫っスよ! ありがとうっス」


 えへへ、とはにかむ夏音の服装に目をやれば……白い長袖のスウェットに黒いスキニー、そして足元には蛍光グリーンの差し色が入った白いボリュームスニーカー。

 頭には黒い野球帽を被っており、シンプルでボーイッシュながらオシャレで動きやすそうな格好だった。

 それに、スポーティーな雰囲気の夏音にはよく似合っている。


「そうだな。よく似合ってるぞ」

「へっ……あ、ありがとう、っス……」


 みるみるうちに顔を赤くする夏音。

 本当に表情がコロコロ変わるというか、感情が顔に出やすいというか、見ていて飽きない。

 そんな考えが俺もつい顔に出てしまい、口角が少し釣り上がるのを感じる。


「……ハル兄、何笑ってるんスか」

「え、ああ、いや、なんでも」

「もーっ! さっきのはからかってたんスか!?」

「いてっ!? いや違うって、からかってないから叩くなって!」

「ハル兄のバカー!」


 ポカポカと肩を叩かれる。

 もちろん本気ではないし、それは俺もわかっているからこそのやり取りだ。

 こんな会話も、今はとても愛おしい。

 夏音となら、長い待ち時間も苦じゃないな。

 そう思いながら、ゆっくりと進み始めた列の流れとともに歩き出した。



☆☆☆★★★☆☆☆



「見てくださいハル兄、サメっスよ!」

「おお、本当だ。大きいな」


 正面の水槽には、大きなサメがいた。


 あれから30分ほど、ようやく水族館に入場できた。

 どうやら受付の職員さんが少し手間取っていたようで、中に入ってしまえばそこまで混雑している様子は感じられなかった。

 まだ開業したてだし大変だよな……。直接声には出さなかったが、心の中でこっそり受付の人を応援しておく。


 さて、横に置かれている看板を見ると……入ってすぐの大きな水槽を堂々と泳ぎ回っているサメは、メジロザメという種類だそうだ。

 体長は1.8mほどでパニック映画にでも出てきそうな見た目をしているが、このメジロザメ自体はあまり人を襲ったりしないらしい。

 解説を見るに、体格によらず餌は小魚やカニなどを好むそうだ。


 見かけによらずかわいいところがあるな、なんてのは人間の勝手な感想だろうか。


「映画にでも出てきそうな見た目っスよね……。ボクたちも海で出会したら食べられちゃうのかな……」

「この子はあんまり人間を襲ったりしないらしいぞ。小魚とか食べるんだって」


 解説を見て得た知識を、早速夏音に伝える。

 完全な付け焼き刃で申し訳ないとは思うが。


「へー……見た目によらずかわいいところもあるんスね」

「ああ、でもこの子の仲間のオオメジロザメってやつは人喰いザメとして有名らしい」


 付け焼き刃に付け焼き刃を重ねる。

 だってさらに隅にある解説に書いてあったんだもん。うん、ただの知識の共有だから。


「ひ、人喰いザメ!? 怖いっスね……」

「まあ、日本にいるうちは滅多に出会うことはないんじゃないかな……多分……」

「……オオメジロザメさんはここにはいないらしいでスし、今後の人生で会わないことを祈るっス」

「そうだな……」


 気になってスマホで調べてみると、どうやらオオメジロザメを飼育している水族館は日本どころか海外にもないらしい。

 茨城の方の水族館にはサメを50種類以上も展示しているところがあるらしいが、そこにもいないそうだ。

 そりゃ、これだけ凶暴だと飼育も難しいのかな。

 怖いものは怖いが、こうして知識として知ってしまうと見てみたくはなる。

 帰ったら動画サイトで調べてみるとしよう。もちろん、ショッキングではない動画を。


 そんなことを考えながら、「ハル兄、次行くっスよー!」とはしゃぎ回る夏音に着いていく。



☆☆☆★★★☆☆☆



「はい、夏音。おつかれ」

「えへへ、ありがとうっス」


 場所は変わり、水族館内の休憩スペース。

 併設されているカフェで飲み物を買い、夏音に手渡す。

 この水族館オリジナルのドリンクで、爽やかな味の炭酸飲料だ。


「だいぶ回ったな」

「そうっスね、見れるところは全部見たかなあ」

「そうだな。他に見たいところとかあるか?」

「うーん……」


 地図や館内イベントのスケジュールと睨めっこしながら、うんうん唸る夏音。

 午前中はやはり混み合っていた館内だが、午後──現在は1時半を回ったところだ──になると、少しずつ人の数もまばらになっていった。

 だから割と見たいところは見れたし、満足感はある……のだが。

 せっかく人気の水族館に来れたのだから、すぐ帰ってしまうのももったいない。

 できるなら、もう少し見て行きたかった。

 夏音と別れてしまうのも、なんだか寂しいしな。

 そんなタイミングで、夏音が「あ!」と声を出してパンフレットから顔を上げる。


「イルカショー! あと15分ぐらいでやるみたいっス!」

「お、本当か」

「はい! 最後に見に行ってもいいっスか?」

「もちろん。行こうか」

「やったー!」


 ぴょんと立ち上がってドリンクをカバンにしまう夏音。

 地図を確認すると、イルカショーの場所はここからそう遠くないようだった。

 俺もドリンクを一口飲んでから、飲み物をカバンにしまった。

 ブルーハワイの青い匂いが、鼻を通り抜けた。



☆☆☆★★★☆☆☆



 イルカショーの会場に着くと、既に半分近く席が埋まっていた。

 お客さんは真ん中のあたりに集中しており、イルカが見えにくい最後列のあたりか、あるいは水がかかってしまう最前の方の席しか空いていなかった。


「真ん中は空いてないな……。夏音、どうする?」

「うーん、悩むっスね……」

「そうだな……先にカッパ買っときゃよかったな、ごめん」


 先程横を通りがかった時、館内の売店にイルカショー用のカッパが売られていたのは確認していた。

 しかし、今から買いに行ったのでは開演までに間に合わないだろう。


「ボクは濡れても大丈夫っスけど……ハル兄はどうっスか?」

「いいのか? 俺も問題はないけど……」

「はい。というわけで、最前! 行きましょ!」


 ぐい、と俺の腕を引っ張る夏音。

 男子的には別に濡れても困らないのだが、女子的には問題ないのだろうか。

 そんなことを考えつつ、最前の、しかも真正面の席に座る。

 椅子の近くには「注意! 濡れる危険性があります!」と注意書きがある。

 なるほど確かにここはかなり水が飛んできそうだ。


『それでは、ただいまよりイルカショーを始めます!』


 飼育員のお姉さんのインカムからアナウンスが鳴り響く。

 と同時に、合図に合わせて2頭のイルカが水面からザバ、と顔を出した。


『皆さんから向かって右側がタクトくん、左側がエフちゃんです! よろしくお願いしまーす!』


 パチパチ、と拍手の音が響く。

 周りに倣うように、俺と夏音も手を鳴らす。


 拍手が鳴り止むと、お姉さんがもう一度合図をしてイルカたちは水中へと潜った。

 イルカショーは、どんなものだろうか。すごく楽しみだ。



☆☆☆★★★☆☆☆



「楽しかったっスね、ハル兄」

「ああ、そうだな。ありがとな。夏音」

「へ? お礼を言うのはボクの方っスよ。ありがとうございました、ハル兄」

「俺の方も言いたいんだよ。こちらこそ、ありがとな」

「いやいや、ボクこそ」

「いやいや、俺だって」

「…………」


 3秒ほど沈黙してから、二人で同時にプッと吹き出す。

 なんだか、笑いが込み上げてきた。


「……楽しかったのはいいけど、。なんとかしないとな」


 そう。水族館は非常に楽しかったのだが……最後のイルカショーのせいで、びちょびちょになってしまった。

 タオルの一つでも用意しておけばよかったなと思いつつ、自分の用意の悪さを深く反省している。


「あ、タオルならあるっスよ。二つ」

「本当か? 助かるよ」

「えへへ。はい、どうぞ」


 白い大きなタオルが手渡される。

 受け取って広げると、柔軟剤の優しい香りがふんわりと漂ってきた。

 

(いい匂いだな)


 なんて、邪念が顔を出す。いかんいかん、変なことを考え出す前に濡れた体を拭かねば。

 とりあえず、タオルを頭に被ってゴシゴシと拭く。

 そんな俺の胸中を知ってか知らずか、同じようにタオルで頭を覆った夏音がぽそりと呟く。


「……濡れちゃった」


 そんな何気ない言葉に、ドキリとしてしまった。

 水に濡れた髪の毛がなんとも艶かしく見えて、水も滴るいい女、という言葉が頭を過ぎる。

 い、いかん。相手は夏音だ。『妹』相手にそういうことを考えるわけにはいかない。

 急いで夏音から目線を逸らす。


 目を逸らした先には、夏音のカバンがあった。

 口の開いたカバンからは、透明なカッパがはみ出ていて……カッパ?

 ちょっと待て。


「……夏音、お前カッパ持ってきてたのか?」

「へっ? なんで知って、じゃなくて、あの、いや、すっかり忘れてて」


 さっきまでの雰囲気はどこへやら、わたわたと手を動かし始める夏音。


「まあ、忘れてたんならしょうがないよな。わざとじゃないもんな、うん」

「そ、そうっスよ。わざとなわけないっス」


 ふんす、と胸を張る夏音。

 いや、忘れてたのは胸を張れることじゃないですけどもね?


「と、とりあえず、落ち着いたら帰るっスよ。あんまり遅くなったら大変でスし」

「そ、そうだな……」


 どこかぎこちないながら、俺たちは帰路についた。

 でも、以前経験したみたいなギクシャクした感じではなくて……どこか青春を感じる雰囲気だな、なんて思っているのは俺だけだろうか。


 少しだけ温度の下がった、夏色の風が濡れた髪の毛を少しだけ乾かしてくれた。

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