第39話 我が身を抓る

「ただいまー」

「お帰りなさい、お兄ちゃん」

「おう、小春。ただいま」


 夏音とのお出かけから帰宅すると、いつもの通り小春が出迎えてくれた。

 しかしいつもと違う俺の様子に気づいたのか、あら、と声を出す。


「お兄ちゃん……髪が濡れていますね」

「ん、ああ……イルカショーでな」

「今タオルをお持ちしますね」

「ああ、いや、タオルならあるから大丈夫だ」

「そうですか、それならよかったです」


 そう言うと「今お風呂沸かしてきますね」とだけ口にして奥に戻ってしまった。


 とりあえず、荷物を置くために部屋に戻る。

 濡れた服を脱いで、もう一度体をタオルで拭くと、部屋着に着替えてからリビングに戻った。


 リビングには、風呂の準備を終わらせてきたであろう小春が座っていた。


「あと30分ぐらいでお風呂が沸きますから、ちょっと待っていてくださいね」

「ああ、ごめんな。ありがとう」

「いえいえ。お兄ちゃんが珍しく女の子とデートしてきた日ですからね、これぐらいは」


 ふふ、と微笑む小春。

 その表情はどこか含みがあるように見えてしまい、悪いことをしたわけでもないのに思わず背筋が伸びる。

 そんなリアクションを見透かされたのか、小春はさらにクスリと笑みを溢す。


「あら、別に責めているわけじゃありませんよ? お兄ちゃんは最近色んなところにお出かけしていますから、大変だなあと思っているだけです」

「あー、いや、その……」

「ああ、ごめんなさい。色んな方と、というのが正しいですかね?」

「こ、小春……その……」


 小春の声音は優しく、普段と変わりはない。

 のだが……やはりどうにも責められているように感じてしまい、余計申し訳なくなる。


「ふふ。焦るお兄ちゃんも可愛いですね」

「え……?」

「いえ、何でもありませんよ。それよりも、今日は楽しかったですか? 夏音ちゃんとのデート」

「そりゃもちろん。デート、と言えるかはわからないけどな」

「それは何よりです」

「……なあ、小春」


 いつもと変わらない、いつもの笑顔。

 どうにも違和感があるように見えてしまい……恐る恐る、聞いてみることにした。


「どうしました?」

「こういう聞き方は良くないとは思うんだけど……何か機嫌を損ねるようなこと、したか……?」

「あら、小春はいつも通りですが……どうしてそう思いましたか?」

「え? ああ、いや……なんとなく……かな?」

「なるほど、そうですか……」


 ふむ、と顎に手を当てて考える小春。

 先程までの笑顔はなく、真顔と言っていいような表情だ。


「顔に出てしまうとは、小春もまだまだですね。それとも、お兄ちゃんが聡いのでしょうか」

「小春……?」

「はい、お兄ちゃんの言う通りです。今、小春はちょっとだけ機嫌が悪いです」

「そ、そうだったのか……ごめんな」

「いえいえ、小春が勝手に機嫌を悪くしているだけですから。お兄ちゃんは悪くないですよ」

「そ、そうか……とはいえ、原因自体は俺の行動ってことだよな。だったら、俺が悪くないことはないと思うけど」

「……お兄ちゃんは優しいですね、本当に。でもお兄ちゃんは悪くないですよ、全く」


 これだ。小春は、一度言い出したことは頑として譲らない。

 おそらく俺の行動に何かしら思うところがあったのだろうが、俺に気を遣って気に病ませまいとしているのだろう。

 今回も俺は悪くない、小春が悪いと言い続けるに違いない。

 どうにかして機嫌を直してあげたいのだが、どうしたものか。


「なあ、小春────」


 一つ、提案を……しようとしたところで、明るいメロディーとともに『お風呂が沸きました』という機械音声が流れる。

 どうしてこのタイミングで……。


「お風呂、沸いちゃいましたね。いってらっしゃい、お兄ちゃん」


 小春の表情は、また笑顔に戻った。

 その裏側に何が隠れているのか。俺に見せてくれたことは、一度もなかった。



☆☆☆★★★☆☆☆



「デート……ですか? 小春と?」

「ああ。どうかな?」


 風呂上がり。

 小春が用意してくれた牛乳を飲みながら、俺は小春に先程提案しようとした内容を告げた。

 ちなみに、どうでもいいが俺は風呂上がりにはフルーツ牛乳派だ。


「もちろんいいですよ。小春は嬉しいです。でも……いいんですか?」

「いいって……何がだ?」

「お兄ちゃん、最近色んな子にモテモテじゃないですか。夏音ちゃんとか、アキとか、同じクラスの佐藤さんや花折さんとか」

「そんなことは……ってちょっと待て。なんで望見や花折のことまで知ってるんだ」

「ふふ、小春はお兄ちゃんのことならなんでも知ってますから」


 またしても、妖しい笑みを浮かべる小春。

 我が妹ながら、この底の知れなさは本当に恐ろしく感じる。

 それにしても一体どこから情報を得たのか……。

 秋華や夏音あたりだろうか。どこかで聞いてみるのはありかな、と思う。


「まあそれは今度聞くとしてだ。別にモテてるわけじゃないよ。夏音や秋華のことは『妹』みたいに大事に思ってるけど、恋愛関係じゃない。望見や花折はただのクラスメイトだしな」

「お兄ちゃんはそう思ってるかもしれませんが……他の子たちはそうじゃないかもしれませんよ?」

「そんなの、本人じゃないからわからないよ」

「ええ、そうですね。本人じゃないからそうじゃないとも言い切れないですね」

「小春……」


 ああ、これは本格的にへそを曲げてしまっているやつだ。

 小春は15年俺の妹をしてくれているが、それは言い換えれば俺が15年小春の兄をやっているということだ。

 小春の性格は、とてもよくわかっている……つもりだ。

 こうなって仕舞えば、簡単には折れてくれないだろう。

 どうにかして機嫌を直してほしい、と思っての提案だったのだが……。


「ふふ、冗談ですよ。しましょうか、デート」

「だよな、すま……って、え? いいのか?」

「……お兄ちゃんが提案してきましたよね?」


 じと……と怪訝そうな表情でこちらを見つめてくる小春。

 ここで「機嫌がよろしくなさそうなので受けていただけるとは思っていませんでした」なんて言ったら、今日から晩御飯がなくなりそうだ。

 どうにかして取り繕おうと思ったが、あいにくとちょうどいい言葉は出てきそうにもなかった。


「ああ、いや……ごめん」

「ふふ、いいですよ。お出かけはしてみたかったですから」

「そうだな、そういえば二人でどこかに出かけることってあんまりなかったしな」

「ええ。買い出しに行くぐらいでしたから。遠出する時は家族みんなで行くか、千冬ちゃんと一緒でしたからね」

「確かにな。じゃあ、今度は二人で出かけるとしよう。どこか行きたいところはあるか?」

「お兄ちゃんにお任せします。小春は、お兄ちゃんが一緒ならどこでも楽しいですから」

「そ、そうか……。じゃあ、場所とか色々考えておくよ」

「はい。ありがとうございます、お兄ちゃん」


 ニコリ、と微笑む小春の顔には先程までの冷たさを感じる色はもう見えなかった。

 どうにかして機嫌を直してもらえただろうか。

 少しだけホッとしたが、どうにも居心地の悪さを感じている。


 あるいは、こうなるまでが計算の内だったのか。

 小春に限ってそんなことはないだろうな、と思いつつ、背筋に寒気を感じる。


 妹のことをよくわかっているつもり……と言いながら、俺はまだまだ彼女のことを何も知らないのだということを身に沁みる程感じている。

 妹の裏の顔を疑ってしまうなんて、兄として良くないなんてことはわかってはいるのだ。


 キッチンで楽しそうに鼻歌を歌いながら晩御飯の準備を始めた彼女を見ても、そんな疑念は拭えないままだった。


 先程結んだデートの約束。果たしてうまくいくだろうか。


(これは、しっかり準備した方がいいかもしれないな)


 そう思いながら、綿密な計画を練るためにある人物に連絡を入れることにした。

 手短にメッセージを打ち、スマホをポケットにしまう。


 夏が近いというのに部屋の中がなんだか肌寒く感じて、捲っていた部屋着の袖を下ろした。

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