第21話 人も歩けば

 すうすうと寝息を立て始めた目の前の少女を見て、俺は安堵のため息をついた。

 いつもは生意気にも見える秋華だが、こうして寝ている姿を見ると未だ年相応の幼気な少女なのだと感じる。


 とりあえず秋華の体に掛け布団をかけ、部屋の電気を消して俺は一度自分の部屋から出ることにした。


 スマホの画面をつけると、気づけば10時を回っていた。

 改めて考えると、中々激動の1日だった。

 普通に授業を受け、放課後に夏音と学習室で勉強──花折に会ったぐらいで、ほとんど進まなかったが──をして、俺の家に移動して、秋華も来て。

 肉体的にも精神的にもかなり疲弊した気がする。

 明日が休みでよかったな、と心の底から思う。


(とりあえず、小春にメッセージ送っておくか……)


 普段なら直接部屋まで伝えに行くのだが、今は夏音がいる。

 部屋の状況がどうなってるかわからない以上、直接話しに行くのは憚られてしまう。


『すまん、秋華のやつ俺の部屋で寝ちゃったみたいだ。秋華が目を覚ましたら布団ごと移動するから教えてくれ』


 送信。


 そう、布団ごと。

 というのも、うちにある布団は4つ。

 小春が普段使っているものと、来客用が2つ。そして、俺の布団。

 ちなみに、来客用の2つのうち片方は実質千冬専用となっている。


 しかし、今佐倉家にいる人間の数は5。

 一つ足りないのだ。


 だから、俺が普段使ってる布団を小春の部屋に移動させ、使ってもらうことにしたのだ。

 俺はソファーで寝ればいいし。

 まあ年下の女子高生を俺のような男の布団で寝かせるのは流石にどうかと思ったのだが……。


「問題ないっス! むしろ貸してほしいっス、お願いしまス」


 という夏音の一声もあり、貸し出すことにしたのだ。

 ……そんなに熱望する意味はよくわからないが。


(────とりあえず)


 風呂にでも入るか。

 そう思い、俺は風呂場に向かった。



☆☆☆★★★☆☆☆



 念の為脱衣所のドアをノックし、反応がないことを確かめると俺はドアを開けて中に入った。

 ……以前──故意ではないとはいえ──千冬の着替えを覗いてしまった前科があるからな。

 慎重を期すに越したことはない。


 改めて誰もいないことを確認し、俺は服を脱いだ。

 4人が入浴を済ませてから、ちゃんと沸かし直してある。


 少し時間は空いたが、非常に暖かかった。

 シャワーで軽く体を洗ったのち、湯船に浸かる。


 溢れるお湯を見ながら、無意識のうちに「あー……」と小さく声が出てしまい、自分のオッサン臭さに嘲笑が溢れた。


 今日に限らず……ここ1ヶ月、色んな事があった。

 一番大きなことは、やはりゴールデンウィーク明けの『手紙』のことだろう。


 ここしばらくはずっと、手紙のことばかり考えている。

 流石にもう線文字Bを量産するようなことはないが、授業に集中できているかは甚だ疑問だ。 

 だが、いつまでもそれではいけない。もう少し経てば中間テストがある。

 3年生────最終学年に上がり最初のテスト。重要じゃないわけがない。

 というか、もう残り1年もない受験のことを考えると、大事じゃない試験なんてないのだ。気が抜けたまま受けるわけにもいかないだろう。


 それに、大きな行事はもちろんテストだけではない。

 テストが終われば、次は学校祭だ。

 そろそろクラスでの話し合いも始まる頃。

 手紙のことばかりを考えているわけには、いかないのだ。


 それに、考えたとて何か進展があるような問題ではない。

 わかっている、わかっているのだ。そんなことは。

 頭ではわかっている。だが、心はそう簡単に割り切れない。


 気づけば、思考の海を満たす水はほとんどそのことだ。

 どうにかしたいものだが、どうしたらいいかもわからない。


 向中野が言うように、スッパリ割り切れたらいいんだけどな。


「……はあ」


 あとはやはり、部活の引退だろうか。

 実感と言うのは厄介なもので、終わった直後は顔すら出さないくせに……時間が経てば経つほど、未練という相方を連れてどんどんどんどんと肥大化していく。


 俺の部活動……部長として、部員として邁進していた日々は、もう帰ってくることはないのだ。

 全て終わった。


 負けてすぐは晴れやかな気持ちでいた。

 しかし、時が過ぎるにつれいつの間にか「悔しい」という感情が顔をのぞかせている。そして、今も消えていない。


(ほんと、色々あったな……)


 それからも、大なり小なりを問わず……さまざまな悩みが浮かんでは消え、浮かんでは消え。

 思考の海……いや、思考の湯船に浸かりながらあれこれと考えていた。


 いかんいかん、長風呂しすぎたな。

 誰かが待っているというわけではないといえ、かなり時間をかけて入ってしまった。

 そろそろ出るとしよう。ザバっと音を立てて立ち上がり、俺は体や髪を洗って風呂から出た。


 風呂から出て脱衣所で髪を乾かすと、俺はリビングに戻ってきた。

 4人はまだ2階の小春の部屋にいるらしく──リビングにも台所にも、誰もいなかった。

 時計を見上げると、そろそろ12時になろうかというところ。


(小春や夏音はもう寝たかな)


 二人は寝る時間がかなり早い。

 小春は日付が変わる前後には布団に入っている。

 夏音の方は普段23時ぐらいに寝ている、というのは夏樹の談。

 この間電話した時も、それぐらいには寝ていたしな。


 千冬はいつもこの時間に少し勉強してから寝ているので、日付を回ってから寝ている事が多い。

 おそらくまだ起きてはいるだろう。


 秋華は……わからん。


(────そういえば)


 結局夏音の勉強は全然進まなかったな。

 教師代わりとしてこれじゃあいけない、と反省をする。

 いくら秋華の襲来があったと言えど、このペースで学習していたのでは赤点回避など到底不可能だ。

 幸いにも明日は休みだし、時間はまだまだある。

 ペースも考えつつ、夏音がいい点を取れるように助けてあげたいところだが。


 そんなことを考えると、段々と瞼が重くなるの感じた。

 明日の予定は起きてから考えるようにしよう。

 そう自分に言い聞かせ、ふわあ、とあくびをひとつすると。


「……おやすみ」


 誰もいないリビングに向けて、俺はなんとなく呟き──目を閉じた。



☆☆☆★★★☆☆☆



 パチ、と目が覚めた。

 タオルケット1枚で寝たから体が冷えたのかと思ったが、寒さは感じない。そういうわけではなさそうだ。


 電気の消えた家の中は、まだ真っ暗。

 ローテーブルに置いたスマホを点けると、時刻は1時58分と表示されていた。


(……変な時間に目が覚めちまったな)


 悪夢を見ただとか、寝汗を掻いただとかそういったことはなかったが、寝直せそうな気分ではなかった。


 どうしたものか、と思いつつ体を起こす。

 首をぐるりと回すと、ポキ、と音が鳴った。


 ……水でも飲むか。

 そう思いソファーから立ち上がる。

 ソファーは柔らかい素材でできているとはいえ、やはり睡眠には向いていない。

 体の節々に軽いながら痛みを感じた。


 大きく一つ伸びをして、腹の底から息を吐く。

 それと同時に、トン、トン、と階段を降りてくる足音がした。


 こんな夜更けに誰か起きてきたのだろうか。

 階段の方を振り返ると、人影が見えた。


「……まだ起きてたんですね、お兄ちゃん」

「……小春か」


 足音の主は、小春だった。

 こんな時間まで起きているとは、珍しい。

 小春はいつも日付が変わる前に寝る────それは、秋華や千冬がいる時でも変わらない。

 これぐらいの時間──既に2時を回っている──に小春が起きていたことは、俺の記憶にはない。

 だから、兄としては何かあったのかと心配になってしまう。


「いや、なんだが目が覚めちゃって。珍しいな、小春がこんな時間に。何かあったのか?」

「……なんだか、眠れなくて」


 えへへ、と力無く笑う小春。

 夜更けというのを差し置いても、元気がなさそうだった。


「……ホットミルクでも淹れようか」

「あ、小春がやりますよ。ちょうど温かいものが飲みたかったので」

「いや、大丈夫。今日は俺がやるから、座ってていいよ」

「……はい、ありがとうございます」


 冷蔵庫から牛乳を取り出し、鍋に注ぐ。

 ちょうど残ってる分を使い切る分量だった。

 次買い物行った時に、忘れずに買ってこないと……。


 砂糖を少量加え、火にかける。

 コトコトと煮込む音を聞きながら、膜ができないようぐるぐるとかき混ぜる。

 沸騰はさせないように気をつけて、牛乳が温まったところで火を止める。

 そして、用意していたマグカップ──もちろん俺と小春、二人の分だ──にミルクを注ぐ。


「……はい、熱いから気をつけてな」

「……ありがとうございます」


 スプーンでくるくるとかき混ぜ、一口飲んだ。

 程よい甘さが、体に染み渡る。


「……小春は、何かあったのか」


 くぴ、と一口ミルクを飲んでから、小春が答える。


「……どうしてそう思ったんですか」

「こんな時間に小春が起きてるなんて珍しいからな。眠れなくなるような何かがあったのかと思って」

「……ふふ、そうですね。確かに、この時間に起きてることは滅多にないですからね」

「……そういうこと。何かあったのか? 今も浮かない顔してるように見えるし」

「……そう見えますか」

「ああ」


 俺の返事を聞くと、小春はコップをテーブルに置いた。

 マグカップから、コト、と音が鳴る。

 

「……実はですね、お兄ちゃんのことを心配してたんです」

「……俺の?」

「ご飯の時も言いましたけど、今日一日ずっと暗い顔をされていたので」

「……そう見えるか」

「ええ」


 意趣返し、と言わんばかりに同じようなことを言われてしまった。

 ……やはり手紙のことを考えていたせいだろうか。

 顔に出て、周りにも心配されていたようでは話にならない。


「ごめん。大したことじゃないんだ」

「……大したことじゃないような顔には見えませんでしたけどね」

「そこはほら、夏音に勉強教えたりとか、秋華が来たりとかあったからさ。ちょっと疲れてたんだよ」

「……わかりました、そういうことにしておきます」


 そう言って、小春はぐい、とホットミルクを飲み干した。

 小春に一拍遅れて、俺も少し冷めたミルクを飲み下す。

 心なしか、先程より甘味を感じなかった。


「ところでお兄ちゃん」

「どうした?」

「夏音ちゃんのこと、どう思ってますか?」

「どう、って……」

「一人の女の子として、どう見てますか? というのが一番正しい質問ですね」

「ふーむ……」


 夕方も答えたが、大事な後輩、と伝えるのがこの場合は正しいだろう。

 そう思って同じ回答をしたのだが、小春のお気に召す答えではなかったようだ。


「後輩、という表現は適切ではないように思えます。お兄ちゃんは、周りに夏音ちゃんを紹介する時にはもっと違う表現をしているのではないですか?」

「……鋭いな」

「ふふ。これでも15年、お兄ちゃんの妹をしていますから」


 流石に、小春の目は誤魔化せないようだ。

 小春はこういう機微にはかなり聡い。

 ちょっとした表情の変化や感情の起伏には敏感で、俺や千冬も嫌なことがあった時は色々と気を回してもらっていたりした。

 だから、こういう嘘は無意味なのだ。わかっていたつもりではあったのだが。


「……『妹』だよ」

「え?」

「夏音や秋華、千冬……あと、当然小春も。4人の話を周りにするときは、『妹』って呼んでるんだ」

「そう、ですか……」

「……小春が嫌だったらやめるよ。俺にとって本当の妹は小春だけだし」

「嫌だなんて思ってませんよ。むしろ、嬉しいです」

「……嬉しい?」

「はい。だって、お兄ちゃん……夏音ちゃんたちのこと、とても大事にしてますよね」

「……そうかもな」


 自分でもよくわからなかった。

 年上として可愛がっているつもりではあるが、それは大事にしていることとイコールになるだろうか。


「そうですよ。そんな夏音ちゃんたちと、同じぐらい大事にしてもらってるってことですから」

「……俺が一番大事なのは、小春だけどな」

「あら、異性に簡単に一番だなんて言っちゃダメ……ですよ?」


 小春はそう言うと、くす、と笑みを讃えながら、人差し指を一本立て、唇に当てた。


「ふあ……。眠くなってきましたね。そろそろ寝直しましょうか」

「ああ、そうだな。コップ、俺が洗っとくからそこに置いといてくれ」

「……では、お言葉に甘えて」


 ソファーから立ち上がり、2階の自室へと戻るために階段へと向かう小春。

 だが、一段目に足をかけたところでその歩は止まる。


「ああ、そうでした。お兄ちゃん、言い忘れてたんですけど」

「……どうした?」


 くるりと俺に向き直り、俺に最後の言葉を淡々と告げると、「おやすみなさい」と呟いて、俺に聞き返す時間を与えずに足早に部屋へと戻ってしまった。


「……おやすみ」


 すでに階段を昇り切って、見えなくなった小春の背中に向けて小さく呟く。

 返事を期待したものではない。


(……なんなんだよ、全く)


 台所に戻り、コップを洗う。

 サラサラと流れる冷水は、いつになく冷たく感じた。

 洗い終わったコップを水切りカゴに置く。

 カチャン、と無機質な音が、誰もいないキッチンに響いた。


 だが、それよりも……小春の言葉が耳の奥にひどくこびりついていた。

 ソファーに再び寝転び、タオルケットを頭まで被っても……たった今囁かれ続けてるかの如く、反響している。


 ────妹のままじゃ、その先には進めないんですよ。


 そんな小春の言葉は、誰からの、誰のためのものだったんだろう。

 答えが出ないまま、俺は息を吐いて、目を閉じた。

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