第22話 千丈の堤に螻蟻の穴

「ん……」


 昇り始めた太陽の光で、俺は目を覚ました。

 スマホの画面をつけると、6時を少し過ぎたところ……休日の朝にしては、早すぎる時間だった。


 だが、これ以上ソファーでの睡眠は難しい。

 夜中に目が覚めた時よりも強く、体がそう物語っていた。

 節々が物凄く痛む。

 今夜はおそらく自分の布団で寝られるだろうし、とりあえずもう起きよう……。


 まだ覚醒しきっていない脳を起こすためにもいつもより大袈裟な動作で立ち上がると、台所に向かう。

 夜中寝直す前に洗ったマグカップを片付け、ついでに朝食の用意を始める。


(スクランブルエッグとトーストでいいか……)


 冷蔵庫を開けようとしたところで、2階からパタパタと階段を降りてくる足音が聞こえてきた。


「あ、ハル兄もう起きてたっスね……。おはようっス」

「おはよう、夏音。早いな」

「朝練ある日はこの時間っスからね、なんか目が覚めちゃって」

「それもそっか。朝飯、今から作るけど……食うか?」

「食べまス! というか、手伝うっスよ」

「本当か? 助かるよ」


 ガチャ、と冷蔵庫のドアを開けたところで、あることに気づいた。


「あー……牛乳ないんだった」


 俺がスクランブルエッグを作る時は材料に牛乳を使用する。

 ……のだが、深夜にホットミルクを作った際に使い切ってしまったのだった。

 このままでは、少し味気ないスクランブルエッグができてしまう。


「うーむ……」

「ハル兄、どうしたんスか?」


 ぴょこ、と夏音が俺の背中側から顔を出す。


「いや、牛乳がなくて」

「あー、なるほどっス……。そしたらボク、買ってくるっスよ! 近くにコンビニあったっスよね?」

「……そうだけど、俺が行くよ。夏音はお客さんなんだから、待っててくれ」

「……わかったっス。先にやっておくこととかあるっスか?」

「ありがとう。そしたら、ベーコン焼いといてもらえるか? 冷蔵庫の一番上の段に入ってるから」

「わかったっス!」


 ふんす、とやる気満々の夏音。

 スポーツ少女の夏音がマッスルポーズを取ると、なんだか様になっている。


「じゃあ、ちょっと行ってくるよ」

「はーい、いってらっしゃいっス」


 台所からひらひらと俺に手を振る夏音。

 先程貸したエプロンを身につけているのだが、なんだかよく似合っているように見える。


 ガチャ、と玄関の重たいドアを開け、外に出る。

 5月の末にもなると、この時間でも薄着で問題ないぐらい暖かい。

 春から夏へ。そんな季節だった。


 ところで、夏音の料理スキルはどれぐらいだったろうか。

 コンビニまでの道のりをてくてくと歩きながらそんなことを考える。

 夏樹からは夏音が料理をするとかしないとかは何も聞いた記憶がない。

 エプロン姿も板についていたし、問題はないと思うのだが────。


(────あれ、待てよ)


 台所から「いってらっしゃい」と声をかけてくれるエプロン姿の夏音。

 夏音を置いて、一人外に出る俺。

 二人きりだったリビング。


 これって……。


(めちゃくちゃ夫婦みたいじゃん……)


 途端、顔が火照り始めたのを感じる。

 バカ、後輩相手に何考えてんだ。

 落ち着け、落ち着け春也。


 脳裏に過ぎった妄想をどこか見えないところへと追いやるために、俺はコンビニへと向かう足を早めた。

 もちろんそれだけではなく、一人で調理をしているであろう夏音のためでもある。


 というか、それがメインだ。……恥ずかしさを誤魔化したりしてないんだから。

 誰に向けてでもなく心の中でひとりごちてから、俺はコンビニに入店した。



☆☆☆★★★☆☆☆



「ただいまー……」


 玄関のドアを開け、うるさくならない程度に呟いた。

 まだ6時半にもなっていない。おそらく夏音以外の3人は寝ているだろう。

 あまりうるさくして起こしてしまうのも忍びないしな、せっかくの休日だし。


「おかえり、


 とてとてと玄関まで来てくれたエプロン姿の夏音が、はにかみながらそう言って出迎えてくれた。


 ……ん?


「夏音、今の……」

「えへへ、こうしたらちょっと夫婦みたいかなって……ハル兄? どうしたっスか?」

「はんへもはい」


(……可愛すぎるだろ、ちくしょう)


 俺は2階で寝てる小春たちの安眠のために大きな声を出さないよう、全力で口元を覆っている。

 えへへ、と少し恥じらう姿は非常に可愛くて、なんというか、新婚の時期なら本当にこうなるんじゃないかとか、余計なことを考えてしまう。


 何より、先程の自分と同じようなことを考えていたというのが、様々な面でよろしくなかった。

 夏樹、すまん。俺はお前の妹を────。


 そこまで考えて、はたと正気に戻る。


「……ごめんごめん。変なリアクションしちゃった」

「……いえ、こっちこそ変なことしてごめんなさいっス……。は、恥ずかしいので忘れてほしいっス……」

「ああ、忘れるよ」


 俺がそう言うと、ほ、と息を吐いて安心した様子だった。

 付き合ってもないのに夫婦だなんてな。確かにそれっぽかったが、お互いに恥ずかしい。忘れた方が幸せかもしれない。……なんて。


「春也さん、かあ」

「は、ハル兄!? 忘れてって言ったっスよね!?」

「可愛かったからつい……」

「か、か、か、か、かわ」


 耳まで真っ赤にした夏音は、ぷしゅうと煙を吐いてパタリと倒れてしまった。

 流石に弄りすぎたか、すまん夏音……。

 とりあえずソファーまで連れて行き、しっかり座らせる。


 さて、朝食の準備でもするか。夏音は俺のせいで使い物にならないが……。

 キッチンに移動すると、どうやらお願いした通りベーコンを焼いてくれたようだった。ありがとう、夏音。


 食パンをトースターにセットし、焼き上がるまでの間にスクランブルエッグを作る。

 卵と牛乳をかき混ぜ、塩胡椒を振る。

 それをバターを熱したフライパンに流し込み、かき混ぜる。

 そんな工程をこなしたところで、聞き慣れた凛とした声が聞こえてくる。


「おはようございます、春也兄さん」


 声の主はもちろん千冬だ。

 今日は俺が早くに目が覚めたために朝食の準備をしているが、いつもは千冬が一番早く起きて準備をしてくれる。

 それは、休みの日でも平日でも変わらない。


 佐倉家の朝食は、朝一番早く起きた人が作るルール。

 ああ見えて小春は非常に朝に弱いので、千冬か、たまに俺が作っているという感じだ。


「おはよう、千冬」

「おやすみですし、この時間なので私が一番乗りかと思ってたのですが……。春也兄さんも、夏音さんも起きていたなんて。流石ですね」

「俺たちはたまたま早く目が覚めちゃっただけだよ。秋華と小春はまだ寝てるのか?」

「はい、それはもうぐっすりと」

「……そうか。まあまだ早い時間だし、ゆっくり寝かせてやるか」


 朝弱い小春はさておいて、秋華の昨日の様子を考えるともうしばらく休ませてあげてもいいだろう。

 ……結構泣いてたしな。もっとも、秋華の涙を知っている者は俺しかいないだろうが。


 そんなことを考えていると、チン、とトーストが焼き上がった合図が聞こえる。と、同時に。


「春也兄さん、手伝いましょうか?」

「ハル兄、ボクも手伝うっス!」


 千冬と、ショートから回復した夏音が声をかけてきた。


「ありがとう。でも、ちょうど作り終わっちゃったから……そうだな、お皿運んでくれるか?」

「はいっス!」


 焼き上がったトーストとスクランブルエッグをお皿に盛り付けると、夏音と千冬に手渡す。

 ……朝食はこんなもんかな。

 冷蔵庫からオレンジジュースと牛乳を取り出し──朝食の時は牛乳派の俺の分と、オレンジジュース派の千冬の分だ──食卓へと向かった。



☆☆☆★★★☆☆☆



 朝食を食べ終え、洗い物を済ませてから……俺は教科書や勉強道具を取りに自室に戻ってきていた。

 小春と秋華はまだ寝ているようだった。


 まあ、小春は休みの日はいつも9時過ぎまで寝ていることが多いし、今日もそれぐらいだろう。

 秋華はわからないが、早く起きるタイプにも見えない。


 部屋に入った俺はカバンから勉強道具を取り出し机に置くと、静かに……そして大きく、息を吐き出した。


 昨日はあまり夏音に教えてあげられなかった。

 それに、教えられた部分も1問で1時間近くかかってしまっている。

 今日はもっとキビキビやらねば。


 そんなことを考え始めたはずだったのだが、やはりと言うべきか、いつの間にか思考は手紙のことにシフトしてしまっていた。

 今は机の一番下の引き出しの奥にしまってある、あの手紙。


(────妹、か)


 ────妹のままじゃ、その先には進めないんですよ。

 夜中に聞いた小春の言葉が、脳裏に蘇る。


 もしかして、小春は手紙について何か知っているのだろうか?

 だから、あんなことを。


 無意識のうちに、俺の手は机へと伸びていた。

 ガラ、と引き出しを開ける。

 そこには、手紙が────。


「……え?」


 ない。あるはずのものが、そこにない。

 引き出しの中にしまっておいたはずの手紙が、どこにもなかった。


(────まさか、そんなはずは)


 どっと冷や汗が噴き出す。動悸がしてきた。

 奥に入り込んでしまったのだろうか。

 急いで引き出しごと取り外してみるが、奥まった部分に落ちている様子はない。

 引き出しの中に入っているものを全て取り払ってみても、やはり手紙はなかった。


 なぜ。どうして。


 どこかに移しただろうか。いや、そんなはずはない。

 誰かに渡しただろうか、いや、そんなはずはない。


 目眩がする。呼吸が荒くなる。


 昨日の朝見た時は、間違いなく引き出しの中にあった。

 そもそももらったその日以降、外に持ち出したのは向中野に見せに行った時だけだ。

 カバンも引き出しも、机の他の場所も。全て探してみたが、見つかることはなかった。


(────だったら)


 考えたくない。

 その可能性だけは、考えたくない。

 けど、今は、そうとしか考えられなかった。


 この部屋に入った────4人の中の誰かが持ち去ったという、考えたくもない可能性を。

 俺は、『妹』たちを疑わなくてはならないのだと。


 状況が、確かに、物語っていた。


「…………最悪だ」


 午前8時ちょうど。

 カラカラの喉から絞り出すように、俺は小さく呟いた。

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