第2章 明日ありと思う心の仇桜

第41話 青と夏

「うーっす、春也」


 ガヤガヤと賑わう教室の中でも、親友の大きな声ははっきりと聞き取れた。

 運動部特有のそれなのか、元から声がデカいからなのかは知らないが────我が親友、海野うみの夏樹なつきの声はよく通る。


「おはよ、夏樹」


 学祭に向けての準備がだんだんと始まってきたこともあり、教室はかなりの喧騒の中にあった。

 そのせいか、俺はこちらのすぐ側まで迫っていた夏樹ではない気配に全く気づけなかった。


「おはよ、佐倉」

「花折か……おはよう」


 背後から現れたのは、花折はなおり真緒まおだった。

 女子バスケ部のキャプテンで、夏音の先輩。

 そして……俺、佐倉さくら春也はるやの新たなだ。


「何さ、そのリアクション。私に挨拶されるの、嫌?」

「……そういうわけじゃないよ、ただびっくりしただけだ」

「……ふーん?」


 相変わらず懐疑的な目を向けられる。

 どうやら彼女の信頼を得るまでには足りてないらしい。

 だがその目も一瞬だけで、すぐに元の澄ました顔に戻ってしまった。

 そのまま踵を返して自分の席まで戻ろうとしたところで、何かに気づいたように花折は顔を上げた。


「そういえば前から聞きたかったんだけどさ」

「……なんだ?」

「私のことは苗字で呼ぶのに、のぞちゃんのことは名前なんだなって」

「え? ああ、確かに……」


 言われるまで意識したことすらなかったが、確かに俺は二人──目の前にいる花折真央と、その友人である佐藤さとう望見のぞみ──のことをそれぞれ「花折」「望見」と呼んでいる。

 それが何故か、と言われれば……理由は至ってシンプルだ。


「なんでってそりゃ……うちのクラス、佐藤が三人いるからな」


 これに尽きる。

 男子に一人、女子に二人──片方は望見だ──いる。

 名前で呼ばない限りは区別がつけにくいわけだし、それならば名前で呼んだ方が早いだろう。

 と言っても、名前呼びは望見の方から提案してきたわけだが。


 端的に言えばそんなところだろう。

 名前で呼んでいるからといって仲が良いわけではないし、学祭の実行委員の仕事がなければろくに話さないまま卒業していたかもしれない。

 そんな関係だ。


「……ふーん、そっかそっか」


 花折は満足気な表情になって頷いた。

 大方、親友のことを馴れ馴れしく下の名前で呼んでいる男子がいたものだから警戒した……といったところだろうか。

 まあ俺たちぐらいの年頃の男女が下の名前で相手を呼んでいれば──望見は俺のことは苗字で呼んでいるが──関係を邪推したくなってしまうのも仕方ないだろう。


 そう納得し、首肯を返したのだが……。

 ふと顔を上げると、花折の藍色の瞳がじっとこちらを見つめていることに気がついた。


「……なんだよ」


 俺が聞き返すと、待ってましたと言わんばかりに目の前の少女は目を細めた。

 二、三度瞬いてから再び俺を見つめ返して、花折は口を開いた。


「じゃあさ、私のことも名前で呼んでよ」

「は?」

「何さ、嫌なの?」

「嫌っていうか……」


 嫌ではない。嫌ではないのだが……今まで苗字で呼んでいた女子をいきなり名前で呼ぶというのは、どうしても抵抗がある。

 望見の時は苗字だと区別ができないという正当な理由があったが、今回はそうではない。

 だから、花折の提案を飲めずにいた。


「もしかして忘れてる? 私の名前」

「それは、覚えてるけど」

「じゃあ、呼んでよ」


 俺が花折を名前で呼んで何の得があるというのだろう。

 少し考えてみたが、相変わらず花折は何がしたいのか読めない。

 自分勝手というか、マイペースというか、猫のような少女に感じる。


 しかし、こちらをまんじりともせずに見つめる藍色の双眸を見て……これ以上の逃げは通用しなさそうだなと感じた。


「はあ、わかったよ……」

「うむ、わかればよろしい」

「じゃあ…………ま、真緒」

「何恥じらってるのさ、もう一回」

「……真緒」

「いいね、ラスト一回」

「真緒。これでいいか?」

「……ありがと、


 ドキリ、と心臓が鳴るのを感じた。

 下の名前で呼ばれ慣れていないせいもあり、思わず声が出そうになる。

 何とか動揺を表に出さないように押さえつけると、何でもないような声で「おう」とだけ短く返した。


 俺のことを春也と呼ぶのは、両親を除けば夏樹ぐらいだろう。

 向中野や望見は苗字呼びだし、『妹』たちも下の名前では呼ばない。

 千冬は春也兄さん、と呼んでくれるが、呼び捨てにされたことはないし。


 だから、同世代の女子にこうして呼び捨てにされると……。


(恥ずかしいというか、むず痒いというか)

 

 そんなことを考えながら、いつの間にか自分の席に戻ってしまっていた花折……いや、真緒にひらひらと手を振る。

 ここ最近どうにも回数が増えてしまったため息を吐き切ってから、1時間目の授業の準備を始めた。

 教科書やノートを出し終わり、一息──今度はため息ではない──つくと、隣の席から夏樹の声が聞こえてきた。


「春也お前、花折と仲良かったのか?」

「うーん……いや、最近話すようになったって感じかな」

「そうなのか。いや、男子にあんな態度取る花折なんて見たことなかったから」

「え、本当か?」

「ああ。あいつが男子を下の名前で呼んでるとこなんか見たことねえよ」

「…………」


 驚きはしたものの……意外、というわけではなかった。

 元々明るいように見えてどことなく人を寄せ付けない雰囲気があるし、教室で話しているのもほとんどが女子相手だ。

 男子とは業務連絡程度の会話しかしてないように見える。


 そんな真緒の様子を知っているからこそ、俺にあんな風に話しかけてきた理由が全くわからなかった。

 先日俺たちは友人になった……しかし、それは決して正当なものではなく、どこか歪な関係であるように思う。

 共通の友人である、後輩の海野うみの夏音なつね────彼女を巡って、俺と真緒は知り合った。

 しかしその経緯を考えれば警戒こそすれ、このように近づいてくる理由にはならないだろう。


 わからない。俺は、花折真緒のことが何もわからなかった。


 すっかり乾いてしまった喉を潤すために、水筒に入れて持ち運んでいる水道水を口に含む。

 飲み慣れたはずの水が、何だかいつもより苦く感じた。


 

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