第34話 魚心と水心
「ただいまー」
玄関のドアを開けると、パタパタと足音が聞こえてきた。
いつも通りのお出迎え。……では、なかった。
「おかえりなさい、春也兄さん」
「千冬? ああ、ただいま」
珍しい。
俺が家に帰った時に玄関までまで出迎えに来てくれるのは、いつも小春だ。
千冬は家にいても、部屋で勉強をしていることが多い。
それに、今までは大体部活帰りに二人で一緒に帰ってきていた。
こうして千冬に「おかえり」を言ってもらえることは、しばらくなかったなと思う。
靴を脱いで上がると、ふと千冬がじっとこちらを見ていることに気づいた。
「……千冬? どうした?」
「えっ、あの、いえ……」
もじもじと手を合わせる千冬。
はて、何か言いにくいことでもあるのだろうか。
「げ、玄関でお話しするのも良くないので! あとで……お、お願いします!」
「お、おう……?」
そう言って、ピューッと走り去ってしまった。
一体どうしたのだろう。俺、千冬に何かしたかな。
正直全く心当たりはないが……まあ、話を拒絶されたわけではなさそうだし、後ほどちゃんと聞いてみよう。
「ただいま、小春」
「おかえりなさい、お兄ちゃん。少し遅かったですね」
「ああ、生徒会にちょっと顔出しをな。すまん、連絡すればよかったな」
「いえ、大丈夫ですよ。お兄ちゃんも小春も、もう子どもじゃないんですから」
「ん、ああ……」
リビングに入ると、台所から小春が顔を出す。
そういえば、遅くなる旨を連絡していなかった。
小春は大丈夫と言っていたけど、心配させるのも申し訳ないし……もう少しこまめに連絡しないとな。
この間秋華とデ……出かけた時も、連絡しそびれてしまったし。
自分の部屋に戻って荷物を置いてから、俺は大きく伸びをする。
生徒会、不思議なメンバーだったな。
会長の白井は、本当に小学生みたいだった。……本人に言うとまた激怒されるだろうが。
副会長の武市は、品行方正な人間だったが────俺らが帰る時、露骨に残念そうにしていた。
俺たちのことを気に入ってくれたのか、もてなし好きなのか……。
あるいは、紅茶に自信があるのかもしれない。あの紅茶、とても美味しかったし。
(────また行こうかな)
なんて思うぐらいには、あの短い時間の中でも居心地の良さを感じていた。
雀部もいいやつだったし、青山や庄司とももっと話してみたいなと思う。
書類提出に託けて、また話しに行ってみよう。
それに、よくよく考えてみればあの日は文化委員長──学祭の運営を取り仕切っている人だ──には会えなかった。
文化委員長がどんな人か、男か女かも知らないわけだし……ちょっと会ってみたいな、という気持ちも少なからずある。
普通の──我が校に限らず、世間一般の──生徒ならあまり気乗りしない生徒会への訪問だが……個性的な陽陵生徒会の面々のおかげで、非常に楽しいイベントになった。
学祭の実行委員になってよかったな、なんて……まだ本格的な準備も始まっていないのに、もう感じている。
☆☆☆★★★☆☆☆
制服から部屋着にしているジャージに着替え、リビングに降りる。
テーブルには、先程出迎えてくれた時と同じく部屋着姿の千冬が座っていた。
「あ、春也兄さん」
「おう、千冬。お疲れ」
千冬の向かいの席に腰掛ける。
小春はもう晩御飯の準備を始めているようで、キッチンからトントン、と軽快な物音が聞こえてくる。
「……そういえば千冬、話したいことがある感じだったけど」
「あっ……それは……その……」
「ああ、話しにくかったら別にいいんだけど……」
「いえ、その、ちゃんと話しますので……!」
「お、おう……」
明らかに緊張している様子の千冬。
水の入ったコップを持つ手が、ぷるぷると震えている。
そんなに緊張するようなことを……?
テストの点が悪かったとか、そういうことだろうか。
そういえば小春にも千冬にも成績の話は聞いてない。
成績優秀な二人だから特段問題はないと思うが、赤点を取ってしまっていたりするかもしれない。
環境の変化というものは、人間が思っている以上に大きな影響がある。
だから、中学まで上位の成績を取っていた二人でも、高校のテストで大幅に点数を下げることはありえない話ではない。
そうだとしたら、確かに言いにくいかもなあ。
そう思い、俺から聞いてみることにした。
「もしかして、成績の話か?」
「え? 全然違います」
「そ、そうか……」
真顔に戻った千冬に、バッサリと言われてしまった。
すみません……。
がっくりと肩を落とした俺を見兼ねてか、千冬が慌てて取り繕う。
「あ、いえ! 春也兄さんに失礼な物言いを! その、すみません!」
「ああ、いや気にしてないから……」
「そ、その……実は、う、噂のことで……」
「噂?」
「あ! あ、あの……はい……」
しまった、という表情で口を抑えてから、諦めたような顔に変わる千冬。
噂? 噂って……。ああ、もしかして。
「デートがどうだとかのあれ?」
「そ、そうです……」
そうか、千冬の元まで届いていたのか。
まあ広瀬や藤島も知っていたし、バドミントン部の部員から伝わってもおかしくはないか……って、あれ?
おかしい、広瀬たちには真実を伝えたはず。
あいつらから聞いたのであれば、噂自体はわざわざ気にするような内容ではないことがわかると思うのだが。
「広瀬たちから何か聞いたりしなかったのか?」
「え? はい、広瀬先輩たちから聞きましたけど……」
「聞いた内容は?」
「はい、『春也兄さんが彼女ではない1年の女子とデートに出掛けた』とだけ……」
「それだけ?」
「それだけです」
「そ、そうか……」
うーむ、合っているが完全解答ではない、といった感じだ。
確かに1年の女子と出掛けたのは間違っていないのだが。
「それで、春也兄さんは本当に……その子と、つ、付き合ってないのかな、と……」
「……千冬、少し説明させてくれ」
「は、はい」
コクン、と頷いた千冬を見てから、俺は真相を話し始めた。
内容は広瀬たちに伝えたものと同じだ。
ひとつ違うのは、秋華の名前を出したこと。
この間の家での勉強会で、秋華と千冬は知り合い────いや、友達になった。
個人的に連絡を取り合ったりということもしているようで、既に勝手知ったる仲になっている。
だから、出掛けた相手が秋華だと知れば千冬も安心するだろう。そう思ったのだが……。
「…………そうですか、秋華ちゃんと。そうですか」
「ち、千冬さん……?」
冬の文字を冠する名前に相応しいぐらいの冷気を放っていた。
もちろん、こんな姿は今までに見たことがなく……思わず、背筋が伸びた。
「いえ、なんでもありませんよ。なんでも」
「あー、いや、その……ごめん」
「なんで春也兄さんが謝るんです?」
「いや、何か機嫌を損ねたかなって……」
俺が恐る恐る口にすると……千冬は、ふん、と鼻を鳴らした。
それから、すぐにそっぽを向いてしまった。
「……………………にすれば」
「ん、何か言ったか?」
「い、いえ! なんでもありません」
「そ、そうか」
顔を背けてすぐ、何か呟いていたようだが俺には聞こえなかった。
何か、恨み言を吐かれていたりするかもしれない。
今までこんな千冬は見たことないから、どうしても不安になってしまう。
千冬は優しいから、そんなこと言うはずはないのに。
「……ごめん、千冬。俺が何か、機嫌を損ねるようなことをしたんだよな。お詫びと言ってはなんだけど、千冬がしてほしいことならなんでもするよ」
「それはっ、いえ……な、なんでも、ですか?」
「ああ。もちろん、常識の範囲内でだけど」
そういえば、少し前に同じやりとりをしたな。
秋華には、何を頼まれたんだっけ……。
それを思い出す前に、千冬が口を開く。
「じ、じゃあ……わた、私と…………してください」
「ああ……って何を?」
肝心な部分で千冬の声が小さくなってしまい。うまく聞き取れなかった。
俺は何を要求されているのか。
はた、と顔を上げ……先程とは打って変わって頬を真っ赤に染めた千冬が、もう一度口を開く。
「私とも、してください。で、デートを」
「……へ?」
思わず耳を疑う言葉が聞こえてきて、俺は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
ふと台所に目をやると、小春には聞こえていないようだった。
聞いているのが千冬だけでよかったな、と切実に思った。
☆☆☆★★★☆☆☆
「……千冬、少し説明させてくれ」
はい、と返事をする。
春也兄さんの性格を考えれば、ここまでは想像──私のではないが──通りだ。
辿々しく春也兄さんが噂の真相を説明してくれているが……。
(────ごめんなさい、春也兄さん)
その先のことは、全部知ってるんです。
広瀬先輩が、全部話してくれましたから。
その上で、広瀬先輩はある提案をしてくれました。
それは、「千冬ちゃんだって先輩とデートしたいでしょ!? じゃあ、この機会を利用しちゃおうよ!」という、悪い作戦。
本当なら、断るつもりでした。春也兄さんを騙したりなんてしたくありませんでしたから。
でも、なんだかもやもやとした気持ちのままだった私は……その作戦に乗ることにしてしまいました。
広瀬先輩が立ててくれた作戦はこうです。
噂のことを中途半端に聞けば、春也兄さんは律儀に本当のことを説明してくれるはず。
まずは、その説明を聞きます。
そして秋華ちゃんの名前が出たところで、露骨に機嫌が悪くなったフリをします。
そうすれば、春也兄さんは私の機嫌が悪くなったのは自分のせいと考えて、お詫びを申し出てくるはず。
そこで、私ともデートして、と言えばいい……大体、こんな感じでした。
「あー、いや、その……ごめん」
「なんで春也兄さんが謝るんです?」
「いや、何か機嫌を損ねたかなって……」
春也兄さんはとても申し訳なさそうな顔をしている。
違う、春也兄さんがそんな顔をする必要なんてないのに。
嘘ついてごめんなさい、全部知ってました。
そう言いたいのに。
その言葉は、私の中の欲望に黒く染められてしまい……口に出すことはできませんでした。
「……大丈夫、このまま広瀬先輩の言う通りにすれば」
「ん、何か言ったか?」
「い、いえ! なんでもありません」
危ない、つい思っていることが口に出てしまっていた。
でも。
広瀬先輩の言う通りにすれば、きっと春也兄さんとデートできる。できてしまう。
これでいいのか、と頭では考えていながら、私の心臓は嬉しそうに飛び跳ねた。
ごめんなさい、春也兄さん。
私はやっぱり、いい子なんかじゃありません。
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