第15話 雪村千冬の独白

 気づけば、準々決勝が終わっていた。

 集中、できていたのだろうか。対戦相手には申し訳ないが……もはや、試合内容すら覚えていなかった。


「マッチウォンバイ、雪村!」という審判のコールはかろうじて聞き取れたため、どうやら私が勝ったようだ。


 そうか、勝ったのか。


 はたと気づいて客席を見上げる。そして、彼を探す。

 ……違う、違う、違う…………いた。

 笑顔で拍手してくれている春也兄さんを見つけ、私は深々と礼をした。



☆☆☆★★★☆☆☆



 今の自分があるのは、あの人のおかげ。

 そう言い切れるぐらい、私は春也兄さんのお世話になってきた。


 初めて会ったのはいつだったろうか。

 会った記憶が無くてもいいのなら、恐らく生まれてすぐだろう。

 春也兄さんの妹……小春が生まれてから遅れること半年ほど、私はこの世に生を受けた。


 小さい頃から、私には友達がいなかった。

 たった一言、「あそぼ」が口に出せない少女だった。

 いや、だった、と言うのは正しくない。

 今も根本は変わっていない。ずっと、引っ込み思案のままだ。


 そんな私のことを、春也兄さんはいつも褒めてくれた。いつもそばにいてくれた。いつも私のことを、笑顔にしてくれた。


 春也兄さんは、小学生の頃から……いや、もっと昔から、私なんかとは住む世界が違っていたと思う。


 頭脳明晰、スポーツ万能。

 勉強で聞いてわからないことはなかったし、運動をすれば誰しもが憧れるスーパースターだ。

 そして、優しくて気が利いて。

 見た目もとてもかっこよかった。

 テレビで紹介されるイケメン俳優とか、そんなのを見るたびに春也兄さんの方がかっこいいのに、とずっと思っていた。いや、思っている。


 私は、そんな春也兄さんと自分を常に比べてしまっていた。

 春也兄さんができることが、私はできない。

 春也兄さんが得意だと口にしたことは、私なんかじゃ逆立ちしても追いつけなかった。

 春也兄さんが苦手だと口にしたことでも、それが得意なはずの私よりも優秀だった。

 時を重ねるごとに私は自信を失った。

 彼は私の完全上位互換なんだと、本気で思い込み始めた。


 人と比べる必要はないんだよ、と誰かから言われたのは、それから随分と後のことだったと記憶している。

 春也兄さんに比べたら、私は。

 いつしか比較対象は、春也兄さんだけじゃなくなっていた。

 私の周りにはすごい人がたくさんいるのに。

 どうして私は、何もできないんだろう。


 そんな私には、小学校に上がってからも友達はできなかった。

 休み時間を迎えるたびに、春也兄さんのところに行こうか悩んだ。

 でも、私から会いに行ったことは一度もなかった。

 春也兄さんの迷惑になると思ったから。

 私みたいな根暗で可愛くもない女の子が春也兄さんといつも一緒にいたら、春也兄さんの評判が落ちてしまうかもしれない。

 そう思ったら、とてもじゃないけど学校で春也兄さんに声をかけることはできなかった。


 ──でも、春也兄さんは私に声をかけてくれた。

 休み時間も、一緒に遊んでくれた。


 いつも自分と春也兄さんを比べていた。いつも惨めな気持ちになった。


 でも、大好きだ。彼は、尊敬すべき……されるべき人間。

 いつしか、そんな風に思うようになった。


 中学校に上がってからも、友達はできなかった。

 今にして思えば、イジメ、とも取れる仕打ちを受けていた。

 私から話しかけても、答えてくれる人はいなかった。

 私が忘れ物をしても、貸してくれる人はいなかった。

 いないもののように扱われていた。


 でも、私は特に気にしていなかった。

 直接悪口を言われたり、暴力を振るわれたり、物を隠されたりといったことはされなかった。

 実害がないのだから、特段構うことではなかった。

 元々人と話すタイプではなかったから、そんなものかと気にも留めなかった。


 でも、春也兄さんは本気で怒ってくれた。

 首謀者の一人を、問い詰めたらしい。

 可愛くて成績優秀なことに対するやっかみだった、と春也兄さんが言っていた。


 嘘かな、と思っていた。

 私は可愛くなんてないし、特別勉強ができるわけではない。

 何も持っていない女なのだから。


 でも、後で本人たちに謝られた際、同じことを聞いた。

 そんなことない、私は何も持っていない、と反論したら何故か逆に怒られた。

 もっと自信を持ってよ、と。


 自信がないのはあなたたちのせいもあるんだよ、とはとても言えなかった。


 高校に上がって、また春也兄さんと同じ学校……そして、同じ部活に入った。

 部活に打ち込む春也兄さんはとてもかっこよくて、素敵で。

 私の好きな人はかっこいいんだ、と何度も思った。

 でも、同じだけ自己嫌悪に陥った。


 私みたいな何もない人間が、春也兄さんみたいに素敵な人を好きになっていいはずがない。

 そんなことは、許されることじゃない。

 どこかから、そんな声が聞こえてきた。


 その通りだ、と思った。

 本当に、私は何も持っていないのだ。


 なのに、どうしてだろう。

 何も持っていない、何も取り柄のない私に、どうして彼は優しくしてくれるのだろう。


 ────それはきっと、大切な家族だから。


 それだけ?


 ああ────その先を求めてしまう自分が、とても醜くて、嫌いだ。

 従妹じゃなくて、妹じゃなくて……春也くんの……。


 ああ、嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。


 その先は、考えることすら許されない。


 私は自分のことがどうしても好きになれない。

 鏡を見るたびに、自分の容姿が嫌になり気分が落ち込む。

 人と話すたびに、うまく会話ができない自分に幻滅する。

 勉強するたびに、内容を理解できない頭にウンザリする。


 私は何にもできない。

 本当に何もない。何も持ち合わせていない。


 愛されるために生まれてきていない。そうとすら思っている。


 それでも。春也兄さんは。春也兄さんだけは。

 私のいいところを見つけてくれる。

 そんなことないよ、と慰めてくれる。

 私が欲しい言葉を、私が欲しい時にくれる。

 春也兄さんは、私の太陽だ。

 

 時々、優しすぎて胸が痛くなる。

 春也兄さんが私のいいところをたくさん見つけてくれるのに。

 たくさん褒めてくれるのに。

 私はそれを受け取れない。

 受け取ることができない。

 彼のことが好きだからこそ、私は優しさを享受したくなかった。


 いっそのこと、従兄妹なんかじゃなかったら。

 暗い世界に住む私と、明るい世界に住む彼は、出会わずに済んだのではないか。

 私は、太陽に手を伸ばさずにいられたのではないか。


 そう思ってしまうぐらい、彼の優しさは眩しかった。

 目を開けていられないぐらい、輝いていた。


 太陽のような彼の優しさは、私の黒くて醜い心をジリジリと焦がしていった。


 だから、私は目を逸らす。


 春也兄さんの優しさから。

 自分の内に籠る淡い想いから。

 胸の奥で燻る黒い感情から。


 見ないふりをして、私の見えないどこかに押しやった。


 今日は涙も拭いてもらった。

 がんばれ、と言ってもらった。

 つい、わがままを言ってしまった。


 でも、春也兄さんは嫌な顔ひとつせずに聞いてくれた。

 ああ、やっぱり大好きだ。

 そう、思ってしまった。


「わたし、はるやにいさんの、こと、すきです」


 だから、目を逸らしたはずの想いが口をついて出てしまった時、どう取り繕えばいいかとても焦った。


 好きになっちゃいけない。

 私じゃ釣り合わない。


 そう、何度も何度も自分に言い聞かせてるのに。

 私の心も、体も、ちっとも聞いてやくれません。


 どくん、と胸が騒ぎます。

 青白い私の肌が、紅を差したように赤くなる。


 今日も、春也兄さんの言葉で、心臓が動く。

 血液が巡る。

 脳が回る。


 今の自分があるのは、あの人のおかげ。

 今でも、強く言い切れる。

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