第8話 安息
「ただいまー」
ドアを開けて玄関に入ると、パタパタと足音が聞こえてきた。
「おかえり。お兄ちゃん、千冬ちゃん」
足音の主は先に帰っていた妹──小春だ。
「ご飯できてるよ。すぐ食べる?」
「ああ、そうだな。千冬はどうする?」
「私もすぐいただきたいです。お腹が空きましたので……」
同時に、千冬のお腹からグゥ、という音が聞こえてきた。
耳まで真っ赤になった千冬が恥ずかしそうに何か呟いていたが、その声は聞き取れないぐらい小さかった。
「あ、そうだ。小春、これ冷凍庫に入れてもらってもいいか?」
「わあ、アイスですか。これ、小春の分もあります?」
「もちろん。ご飯食べ終わったら。みんなで食べようか」
「わあい! お兄ちゃん、ありがとうございます!」
とてとてと台所へ戻っていく小春を見送りつつ、俺は荷物を置きに部屋に戻った。
千冬は小春の部屋へ。
千冬は両親と共に俺たちの家の隣に住んでいる。
……のだが、お父さんもお母さん──俺と小春にとっては叔母さんだ──もお仕事が忙しいらしく、家を空けていることが多い。
そういった時は、千冬はうちに泊まりに来ることになっている。うちの両親が海外に引っ越す時期と千冬の両親が忙しくなった時期が重なったのもあり、親同士で取り決めをしたのだ。その方がお互い寂しくないだろう……ということで。
元々俺たちの部屋は割と広めに作られている。小春と千冬が二人で部屋にいたとしても窮屈さは感じないだろう。
荷物を置き、先程まで着ていた羽部で揃えたウインドブレーカー──シャカシャカ、なんて呼んだりもする──から過ごしやすいルームウェアに着替えた。まだ冬用の物をそのまま着ていたが、そろそろ衣替えした方が良さそうだな。
などと考えながらリビングに戻ると、食卓からいい匂いが漂ってきた。この香りは……。
「今日はカレーですよっ」
キッチンから顔を出した小春の弾んだ声が聞こえる。
カレーは俺たち兄妹の好物だ。週に1回は食卓に上がるほどよく作っている。
ちなみに二人とも甘口が好きなので、かなり甘めに作っている。千冬も辛いものは苦手らしいので、作るのは甘口1種類だ。
俺がテーブルに着くと、ちょうど千冬も部屋から出てきた。
俺と同じように、ウィンドブレーカーから薄いピンクのルームウェアに着替えていた。飾り気のない質素なデザインだが、ダサいかというとそんなことは全くなく、むしろ美少女の千冬が余計に引き立っていた。一言で言えば……。
「かわいいな……」
「? 春也兄さん、どうかしましたか?」
千冬が俺を見てきょとんとして首を傾げる。
あ。まずい、心の声が口から漏れてしまった。
幼少期から仲がいいとはいえ、こうして普段の時間の大半を一緒に過ごすようになったのはつい最近────千冬が高校に上がってからのことだ。
だから、こういう服装はまだ見慣れていない。つい、目で追ってしまう。
それを本人に伝えるのも気恥ずかしいので、俺はつい誤魔化してしまった。
「ああ、いや、なんでも……」
「そうですか……てっきり私、また何かしてしまったのかと……」
しゅん、と俯く千冬。
ああ、もう。どうしてこんなに自己肯定感が低いんだ、こいつは……!
そもそもまたってなんだ、お前は悪いこと一個もしてないだろうが……。
「大丈夫だ、千冬。悪口とか言ってないから」
「そ、そうですよね……。春也兄さんみたいなすごい人が私なんかの悪口を言うわけないですもんね……」
「……その『私なんか』ってのやめような。お前は十分すごいから」
「は、はい……」
「……さっきのはな。千冬の服装を見て、かわいいなってつい言っちゃっただけだ。だからそんなに気にする必要はないぞ」
「……………………」
「千冬?」
完全に固まっていた。おーい、と声をかけてみるが無反応だ。
……気絶した?
「千冬? 大丈夫か?」
「……はっ、すみません……! 私は今何を……?」
「俺が千冬のことをかわいいって言ったら気絶してたぞ」
「か、か、か、か、かわわわ」
顔を真っ赤にして再び硬直する千冬。リトマス紙もびっくりの速度で赤くなっていたな。酸性?
実際問題、千冬はめちゃくちゃかわいい。これは身内贔屓とかではなく、客観的な事実としてそうなのだ。これだけかわいいんだから、友達からたくさん褒め言葉をもらっててもおかしくないはずなのだが……。
(なんでこんなに褒められるのが苦手なのかねえ)
「千冬」
「ひゃ、ひゃい」
「かわいいぞ、ルームウェア姿も」
「ぴゃ」
もはや鳴き声だ。
かわいいと思っているのは本当のことだが、こう面白いリアクションが返ってくるとついからかいたくなる。
……秋華の気持ちがちょっとわかった気がする。
などと千冬で遊んでいると、後ろから物凄い殺気を感じた。
こ、これは……。
「お兄ちゃん? 小春の前で千冬ちゃんとイチャイチャするなんて……どういう了見かな?」
髪の毛を逆立てながら──いや、実際には髪が逆立つことはないため錯覚なのだが──我が妹、佐倉小春が立っていた。
「あー……そのだな」
「あーあ、これはお兄ちゃんは晩御飯抜きかなー」
そう言うと小春はぷい、とそっぽを向いてせっかく持ってきてくれた俺の分のカレーを台所に片付けに行く素振りを見せた。
「ごめんって……。小春もかわいいよ」
「『も』ってなんですか! 小春を褒めるのはついでですかそうですか」
「エプロン姿、似合ってるぞ。これは本当に思ってる」
「あ、う、お、お兄ちゃん。……そういうところですよ」
「何がだよ」
「なんでもありません! それよりサラダの盛り付けお願いしてもいいですか? 小春はスープを準備しますので」
「ああ、もちろん。というか、手伝い遅くなってすまん」
俺と小春で手早く準備を進め、5分ほどで食卓に料理が並んだ。
……ちなみに千冬は、配膳を全て終えた小春が「大丈夫?」と声をかけるまで完全にフリーズしていた。
料理が揃い、3人共が席についたのを確認して────。
いただきます、と手を合わせる。
当然合図も何もないのだが、声は不思議と揃っていた。
今日一日の疲れが吹き飛ぶような────そんな心地よい食卓だった。
☆☆☆★★★☆☆☆
「んん……はあ」
小春の洗い物の手伝いを済ませ、自分の部屋に戻り机に座る。
椅子に腰掛け、俺は大きく伸びをした。
ゴールデンウィーク明け最初の登校日というのもあり、なんだかすごく疲れていた。
まあ──。
「一番の理由は、これなんだけどな……」
そうぽつりと独り言ち、カバンから例の手紙を取り出した。
こいつのことを考えてたせいで、今日一日本当に集中力がなかった。
そればかりか、4人と話した時もついつい意識してしまい、いつもより余計に消耗していた。
その証拠だと言わんばかりのノートたちが、今机の上でやいのやいの騒ぎ立てている。
今日の授業で取ったノートたちなのだが……もはや自分でなんと書いたか判別できないぐらいぐちゃぐちゃだ。
千年ぐらい経ったら線文字Cとして世界史の教科書に載ってしまいそうなほど。
シャーロック・ホームズも、これを見たら子供の落書きだと思ってしまうかもしれない。
「流石にこれはな……」
手紙一つでここまで心を乱されていてはいけない。
もう少ししたら最後の大会だ。負ければ引退……。そんな大事な大会前に、集中できていないのは大問題だ。
それに、6月には定期試験も控えている。由々しき事態だ。
「向中野に相談して、どうにかなるといいな……」
他力本願なのが我ながら情けないが、今の自分には如何ともしがたいことだ。
恋愛強者である向中野のアドバイスを聞いた上で、今後どうするかの方針を決めよう。
「────よし」
そうと決まれば。
「とりあえず、ノートをなんとかするか」
ミミズが世界規模でカーニバルを始めた図を絵に起こしたかのようなこの紙面を、どうにか人類の叡智である文字に翻訳しなければならない。
俺は机に向き直り、勉強を優先することにした。
カツカツ、とシャープペンシルが机に当たる音が、静かになった室内に響いた。
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